冬木と柊 1
私は、現在昼休み中の現役高校生である。
背景を簡単に紹介すると、典型的な進学校の図書室というところ。
進学校なので、勉強に意欲のある生徒は個人スペースが強化された学習室にしけこんで赤本とランデブー中だ。教材の類はそちらでそろえられているので、図書室にくるのは純粋に娯楽と趣味で本に用のある人間か、コピー機(有料)を使いたい人間くらい。
更に、うちの図書室は天井は高いが教室一個半ほどの広さしかない。本棚があるため本当に居場所が少ない。専属の司書さんがいるので無人にはならないものの、私の周囲は独占状態だ。
つまり、人が来れば嫌でも分かる。
私は色彩豊かな昆虫図鑑でミツバチをながめる最中だったが、向かい席に人が立ったことにすぐ気づいた。
ただし、その人物は座らないでいつまでも立ったまま、私はミツバチの独特なフォルムを十分堪能し終える。
探すべき本棚は私の後ろ。知り合いがふざけているのかと疑いつつ目を向けると、予想に反し、汎用タイプの黒髪を姫カットにした女子は全く記憶にない顔である。ついでに、むすっとした表情でこちらを睨んでいたことが判明した。
他人に睨まれると自分に非を探してひしゃげる友人とは正反対の私は、内心鼻を鳴らした。
こんなガキくさい感情丸出しでおしかけてくる女が自分の知り合いにいるとは思えない。机の下で内履きは見えないし、灰色のカーディガンがネームプレートを隠しているが、一年生だ。売店の青林檎ジュースを賭けてもいい。
顔が幼いというのもあるが、それより空気が新しいというか、雰囲気が甘い。うちは進学校なのに、ここ三年ばかり成績がふるわなかった為、今年の二三年生はやたら勉学を押しつけられてすれ切っているのである。
かくいう私も三年だが、推薦が決まって以来優雅なものだ。この段階に入った生徒は、まとう空気が清浄化されるので悟りを開いたともいわれる。
実に愉快な冗談だ。
本当に私が悟りを開いていたら、彼女を意味ありげに一瞥してからわざとらしく図鑑に目を戻す、などと挑発行為をとるわけがないじゃないか。
案の定、姫カットの口から敵に相応しい棘だらけのお声がかかった。
「冬木 雪さんですよね」
冬木雪ね。
確かにそれは、実の母と妹をして「雪女が使う偽名にぴったり」といわしめた我が姓名である。いつから冬木は雪女一家になったのか知らないが、少なくともコタツに蜜柑を完備していう台詞ではない。
しかし、ここで違いますっていわれたらどうするつもりなのだろう。
確信した調子の強い声に反骨精神がとってもうずく。猫が新しい遊具を見定めるような目つきをしているかもしれない。
遊んでやれば少しは面白いか、それとも全面的に無視するべきか。けだるげに肘をついた左手に顎を寄せ、やわらかい茶の前髪の間からオモチャ候補を見やる。
と、動物的本能で何か察したのか、切りそろえた前髪の下で眉がきゅっとつりあがった。
「いっておきますけど、図書室に入り浸ってる冬木って三年生、あなたしかいませんからっ」
まるで毛を逆立てた猫である。こっちが気まぐれでしか動かない老猫なら、向こうは爪を立てて騒がずにいられない仔猫。気位が高そうなところは猫同士、お互い様というやつか。
しかし残念。本当にそこまで調べたのなら、否定してもこちらが馬鹿みたいだ。
はったりならいい度胸だが、図書室に“入り浸る”なんて表現が創作で出てくるほど機転の利く一年生はいまい。
「ええ、そうね。冬木雪は間違いなく私の名前だわ」
初回限定のご挨拶なので、せいぜい甘ったるく微笑んでおく。
無論、甘いのは表層だけで、初対面の人間にプライベートを握られているなんて不快にも程がある。
情報源として浮かぶ顔はふたつ。明るく可愛く羽根のように口の軽いハネちゃんこと担任の羽田なら本気の蹴りをいれるところだが、図書室の女王様こと司書の功刀女史なら聞かなかったことにしておきたい。弱い犬には噛みつきもするが、雌ライオンは知らん顔でやり過ごすに限る。猫の常識である。
―――まあ、残念ではあるけど、つまらなくはないかな。
退屈の海にひっそりと愉悦を浮かべ、姫カットの猫と目を合わせた。