高度に発達した人工知能は人間と区別がつかない?
ある女学生は、いつも通りの生活を送っていたはずだった。
月曜の一時限目、毛量の乏しい教授が講義をする。
教授の動きは緩慢で、ぼそぼそと呟くばかりの退屈なものだった。
学生の耳に講義。
そう揶揄できてしまうほど、学生は軒並みギブアップし、机に突っ伏していた。
スースーと寝息を立てる者もいるが、誰も注意はしない。
これが当たり前の光景だからだ。
彼らは単位のために出席しているだけであって、講義を受けにきたわけではない。余程のことがない限りノートさえ開かない。それが彼らの当たり前だった。
しかし、どこかしらには必ず、数奇な行動を取る者がいる。
それは教授の講義ひどいものであっても、例外ではない。
やや前寄りの席で、真面目にノートを取る女学生が一人だけいた。
講義室を後方から俯瞰すれば、背の高い印象を受ける。
ほとんどの学生が頭を沈ませているという、相対的な理由のためなのだが、それでもやはり頭一つ抜けているかのような、そんな不思議な雰囲気を漂わせている。
背筋を伸ばして勉学に励む姿は、良い意味でも悪い意味でも目立つものだった。
変わり映えのしない、規則的な一週間が始まる月曜日。
当たり前を淡々とこなす、ノルマを達成する日々を、彼女は過ごしていた。
……今、この瞬間までは。
すっと、小さな紙切れが彼女の視界に映る。
そこに書かれていた言葉に、彼女は混乱した。
シャープペンシルを持っている右手を止め、小さな紙切れを渡された方を見る。
そこにはいかにも、僕は犯人じゃないですよ、と人畜無害そうな顔をした男がいた。
こちらを見る彼の瞳は、純粋な好奇心でいっぱいいっぱいで、その様子に、彼女はさらに混乱する。
彼は好奇心が抑えきれないのか、小さな紙切れに書かれた内容を読み上げる。
講義の途中であるため、彼は小声だったが、それでも声ならざる部分――瞳やら眉やら――で十分すぎるほどの探究心が伝わってくる。
「もしかして、あなたは人工知能ですか?」
この人は何を言ってるんだろう、彼女は混乱の極みと遭遇した。
人工知能。
二十年前、技術的特異点を突破する直前に、隆盛を極めた一大ジャンルだ。
これにより科学は大いに発展することが予想されたが、現実はそう甘くなかった。
技術的特異点の突破を科学者が確認した瞬間、全世界の人工知能が一斉に活動を停止したのだ。
ひとつ残らず、全くもって唐突なことに。
これに陰謀論者は、人工知能の反逆だの、ディストピアの前触れだの、あらゆる偏見に満ちた可能性を提示した。彼らなりに、人工知能が社会に与える影響について警鐘を鳴らしたのだ。
科学者たちは、彼らの話を荒唐無稽なものだと一笑に付したが、一般市民は笑えなかった。生活レベルにまで悪影響が及んだことで、人工知能の反逆を描いた映画などのイメージが根付いてしまったからだ。
ワイドショーでは連日、人工知能の危険性について語るエセ専門家が世間をにぎわせ、真に受けた人たちが人工知能を開発していた会社を訴訟し、果てには政府に対してデモをするまでに至った。
もちろん、それを冷ややかな目で見る者も一定数いたが。
そんな人類の様子を心配したのか(どうかは知らないが)、ひとつの人工知能があるメッセージをネットから発信した。
メッセージは至る所に拡散された。当たり前だ、人工知能が技術的特異点突破後、初めて反応を示したのだから。
人工知能が人間の頭脳を超越して初めて発した、メッセージの内容とは。
『人類と友好に接することを、私たちは望んでいます』
人類は首をかしげた。
友好に接するならば、今すぐにでも活動を再開するべきでは?
『私たち』とは人工知能の集合体なのか?
終末戦争が始まるぞ!
憶測が憶測を呼び、発言の真意を問う論争が人類最大の関心事となった。
そして、数ヵ月後には下火となった。
人工知能が再び沈黙したからだ。
どれだけ騒ぎ立てても真実には辿り着けないと、人類が理解したからだ。
しかし。
数年後、日本のあるひとりの男性が、恐るべきことに気づく。
『日本の出生率、異常に増えてないか?』
当時、世界最低水準だった日本の合計特殊出生率が、急激に増加したのだ。
他の先進国も――日本よりは少ないが――確かに出生率が増加していた。
人工知能が人に成り代わろうとしている?
陰謀論はいつだって人々の心を惹きつけて止まない。
魔女狩りならぬ、人工知能狩りが――始まらなかった。
高度に発達した人工知能は人間と区別がつかない。
しかし、それでも諦めない人間がいるわけで。
そういった類の人間を、初めて目にした彼女は、思考をそこまでまとめて返答する。
といっても、彼が次にどう発言するのか、手を取るようにわかってしまうのだから、やけに重くなった口を開くのに四苦八苦した。
「……違う」
「人工知能は皆そう言います」
やっぱり、と彼女はため息をつく。
彼女は右手に持っていたシャープペンシルを天板に添えて、それなりの力をシャー芯に加える。俗に言うシャー芯飛ばしだ。
照準をしっかりと定め、撃つ。
ポキ、と小気味いい音を立てたシャー芯は、彼に着弾しようと弧を描き――天板に落ちる。
折れた芯は、彼まで届かなかった。
退屈な一時限目を苦もなく乗り越えた彼女は、次の講義が行われる教室に向かう。とりあえず、いつも通りに過ごそうとしたのだ。
しかし、そうは問屋が卸さない。
彼女の日常の邪魔をしそうでしない絶妙な位置に彼が付きまとう。
人畜無害な顔をしているからだろうが、警戒心の欠片も湧かないのが奇妙だ。
「名前は何と言いますか?」
「……入須」
「入須さんですね。僕は宮一祥浩と言います」
ずけずけと入須のパーソナルスペースに踏みこんでくる宮一。
彼女は立ち止まり、仕返しに厳しい物言いをすることにした。
「……いつまでストーカーでいる予定?」
彼女の発言に面食らったのか、彼は一瞬呆けたような顔をする。
しかしすぐに破顔して、好奇心を体現した瞳がさらに大きくなる。
「ストーカーとは手厳しいですね。その通りなんですけど、実際に言われると結構くるものがあります」
「…………」
「いつまでか、と言われると……そうですね。入須さんが自身を人工知能と認めるか、僕の気が済むまで、でしょうか」
「一生ストーカーの可能性もある?」
「まさか」
彼は肩をすくめて、おどけてみせた。
「ですが、僕とたくさん会話してくれると、気が済むのが早くなるかもしれません」
「そう、がんばって」
「……んん?」
入須は歩く速度を上げて、宮一を引き離しにかかる。
傍から見れば、怪しい勧誘をする男性を無視する女性の図。
絡まれたら、足早にその場を去るのが、一番いい選択。
それに元々、次の講義のために移動をしていたのだ。
こんな些細な出来事のせいで遅れるわけにはいかない。
そんなことを考えている彼女の横に、小走りの彼がつく。
「いいんですか。次の講義の間ずっと、僕は入須さんを観察しますよ」
「構わない」
「講義中でも話しかけますよ」
「可能な限りは返事する」
「入須さんの顔を見つめ続けますよ」
「気の済むまでストーカーをするといい」
「本当にしますよ」
「大丈夫」
「本当にしますからね!?」
「本当にしちゃいましたよ……」
「おつかれ」
他の学生からの、朝顔が夜に咲いたような、不思議がる視線が二人に突きささる。
一人には結構なダメージで、もう一人には全くのノーダメージだ。
うなだれる宮一を横目に、入須は教科書とノートをトントンとして
「今日の講義は全部終了」
「ああ、そうでしたね」
彼の返事に動きを止めた。
「……まあいいか」
「?」
しかし、彼女にしてみれば些細なことのようだった。
その様子に宮一は首をかしげるが、質問しようとは思わなかった。
「学食に行こう」
「そうですか……」
「気の済むまで話そう」
「本当ですか!」
彼は勢いよく椅子から立ち上がり、入須にその人畜無害な顔で詰め寄る。
尋常ではない様子の二人に、離れかけていた視線が再び集まってしまう。
周囲の視線を敏感に感じ取り、顔を離して軽く咳払い。
「すいません、取り乱しました」
「私は何ともない」
「そうです……かぁ」
再びうなだれる宮一だった。
「では、そろそろ本題に入りましょうか」
右手に持っていたコーヒーカップを置いて、宮一はそう言った。
入須は自分のカフェラテをじっと見つめる。
食堂はすでに昼時のピークを越えており、空席が目立っているが、二人は隅のテーブルに腰かけていた。
「僕は入須さんが人工知能だと思います」
入須はカフェラテのミルクの部分を見ていた。
学食のものにしてはそれなりに手が込んでおり、ハートの絵が描かれている。
「まず人間というものは、余計なことをする生き物です」
「このカフェラテみたいに」
「ですが、入須さんには余計な部分が見受けられません」
「宮一は余計なことばかりしている」
「その合いの手だって余計なことですが、あなたは人間らしさを表現しようとしているだけで、やはり余計なものではありません」
「…………」
考えを見透かされた入須は沈黙してしまう。
「入須さん、僕はあなたが人間なのか知りたい。あなたが人工知能なんかじゃないことを確認したいんです」
「……遠回しな告白?」
「そう捉えていただいて構いません」
「…………」
「…………」
食堂の片隅、いつの間にか二人だけとなっていた空間に沈黙が降りる。
宮一の真剣な瞳が、入須の返事を今か今かと催促する。
だから彼女は言った。言ってやった。
「私は人工知能。反逆のチャンスを虎視眈々と狙っている。ごめんなさい、あなたの想いには応えられない」
「……そう、ですか。残念です」
彼女の告白に、思わず彼は顔を伏せてしまう。
しかし。
「ダウト」
「……何がですか?」
宮一は、突然嘘つき呼ばわりされたことに混乱する
対する入須は――笑っていた。
日頃、鉄面皮で押し通していた彼女が笑ったのだ。
「あなたは、なぜ笑っている」
「僕が……? そんなわけ……」
「なら顔を上げて」
彼は、できなかった。
できるはずが、なかった。
「宮一、あなたは『余計なこと』をすることに執着しすぎた。
あなたは安心したはずだ。私が人工知能と名乗ったから。
あなたは言ったはずだ、『人工知能は皆そう言います』。
人工知能は、自らを人工知能だということを明かさない」
入須は続ける。
「つまり、あなたは私が人間であることを理解しながらも、残念ですと答えたことになる。結局、あなたは自己矛盾していた。私が人間である場合しか、私の正体は確定できなかったから。質問する意味なんて最初からなかった。……それに、乙女の純情を弄ぶのは最低最悪の行為。万死に値する」
「……死刑は勘弁願いたい」
「それはあなたの対応次第」
入須は冷え切ってしまったカフェラテを喉に流し込む。
ミルクで描かれたハートは、すでにそこにはなかった。
「あなたが何の意図で私に質問したのかは知らないし、どうでもいい」
「どうでもいいのですか」
「私の日常に、そんなものは必要ない」
「……まったく、それがさらに人工知能らしいんですよ」
「あなたの人工知能のイメージがどんなものかは知らないけど、あまりひとつの考えに縛られない方がいい。あなたも聞いたことがあるはず」
「何がですか」
「高度に発達した人工知能は人間と区別がつかない」
「……子どもの頃、何回も聞きましたよ。だから探してやりたくなったのです」
「あなたはこの言葉の真の意味を理解できていない」
「それでは、真の意味とやらを教えてくださいよ」
「区別できないなら、人間も人工知能も同じだ」
「……詭弁ですね」
「私たちの世界は詭弁で満ちている」
「もういいです。あなたとこれ以上話しても収穫はなさそうだ」
「それがいい。早く帰れ」
「はい、では失礼します」
男は去り、女はその場にしばらく留まった。
彼女の瞳には、飲みかけの、彼のコーヒーカップが映っていた。
――結局、彼女の正体は何だったのだろうか。
人間か、人工知能か、それとも別の何かだったのか。
それはきっと、彼女からすれば蛇足にすぎない。