ニーナ 2
「ニーナ、泣いてる場合じゃないよ。このまま終わってもいいの?」
自分でも情けないと思うけど涙が止まらない。私はまた見捨てられた。でも自業自得だ。アイラが自分の体を引き上げて、私の耳元で囁いた。
『ジークはどこにも行ってない。この上でロープを持って待っているから』
その言葉に驚いてアイラの顔を見た。
『ここまで登る間、ロープが少しずつ上がったり下がったりしていたよ。ロープをどこかに括り付けてたら、こんな風に動かない。たぶんニーナが怒ったら、登る気になるんじゃないかと思ってるんだよ。早く登らないとジークが困るよ』
泣くのを止めてうなづいた私を見て、アイラがニッコリと笑った。
「見て。あの3角の岩がある所から、ここまで登ってこれたんだよ。あと少しじゃない。わたしもニーナの体を持ち上げるから、登れるだけ登って。……そう。がんばって」
ようやく、崖の起伏に足をかけられる所まで登って来た。しばらく休んで手に力が戻るのを待つ。
「あと少し」
崖に足をかけ、脚の力を使って体を大きく持ち上げる。崖の縁までもう1タットもない。左手を下に伸ばし、後を追って登ってくるアイラの腰のロープを掴んで引き上げる。アイラは余ったロープを輪に結ぼうとするが、それを手で制した。
「もういい」
限界だと思っていた体に力が湧いてくる。腕と脚の両方を使って勢い良く体を引き上げる。腰のロープが張りつめてアイラの体重がかかる。
「そのまま登ってきて」
アイラの体を引っ張りながら一緒にロープを登る。頭が崖の縁の高さを超えて、その上の斜面が見えた。さらに登って上体を斜面に乗せ、アイラがその横まで来るのを手伝う。そこから斜面を這うよう進んで、縁から1タット以上離れた所で俯せに倒れ込む。
アイラが私を見てニッコリと笑った。私の顔も笑っていたと思う。
「ニーナ。自分がしたいと思ったことをしないとダメだよ」
「そうね。もう少しで後悔することもできないところだったね」
「どうしたんだろう」
アイラはそう言うと、ゆっくりと体を起こした。辺りはもう薄暗くなっている。
立ち上がったアイラが突然走り出そうとして、2人の間のロープに引き止められた。アイラは腰に巻かれたロープの付いた布を脱ぎ捨てる。
「ダメよ! ロープなしで動いたら」
アイラは私の言葉を聞かず、6タットほど先の岩までよたよたと走り、そこで動かなくなる。
「どうしたの?」
声をかけても返事がない。不安を感じた私は、疲れ切った体で立ち上がり、アイラの所へ行った。
「アイラ?」
私が声をかけた途端、アイラはペタンと腰を落とした。その時、私の目にもアイラが見ていた物がはっきり映った。
ロープの先にジークさんがいた。ロープを掴んだ右腕と両脚をこちらに伸ばし、腰ほどの高さもない岩に体を巻きつかせるように倒れていた。
ロープは手に握られた所から一タットほどが黒く染まっていた。ロープの反対側は腕に巻き付けられて、その先を口に咥えている。岩陰に半分隠れたジークさんの顔は、額から薄く開いた目の周りまで黒いもので覆われている。
パンツの両ヒザは大きく破け、裂け目から見える肌の色は黒い。裂け目の周辺の生地も黒く染まっている。
頭上に伸ばした左腕は、岩の角になった部分を掴んでいる。その指と掴んだ岩が黒く汚れていて、指の背に何かが刺さっている。よく見ると剥がれた爪だった。
風向きが変わって生臭い血の匂いを感じた。暗くて赤く見えないが、あの黒いモノは血だ。
ジークさんがケガをしている。酷い痛みを感じているはずだ。それなのにジークは苦痛の声を上げず、その体はピクリとも動かない。何故だろう。
頭が上手く働かない。理由の分からない恐怖がこみ上げてくる。どうしてジークさんがここにいるのだろう。ここにいるはずがない。ジークさんは休憩していた場所に戻ると言っていた。
早くジークさんの所に行こう。そして軽率なことをして崖から落ちて迷惑をかけたことを謝ろう。いまさらと言われるかも知れないけど、初めて会った時のことも謝ろう。そして今まで言いそびれていたたくさんのお礼も言おう。
登るのに時間がかかったから、ジークさんはもう先へ行ってしまったかも知れない。それなら後を追いかけないと。追いつけなかったとしても、あの手紙の家へ短剣を届けに行くはずだから、ウムライまで戻れば会えるだろう。それでも会えなかったら次は……
「生きてる! ニーナ。生きてるよ!」
気が付くと、アイラが倒れた人の顔を覗き込んでいた。
「ほら、息をしてる。ジークは生きてる。早く手当てしないと」
考えるより先に体が走り出していた。休憩場所に残されていた荷物を掴んだ時には頭もはっきりしていた。自分の足跡を踏むようにして駆け戻る。アイラが泣きながら、ジークさんの左手を岩から離そうとしている。
「もういいよ、ジーク。もういいから」
岩を掴んだ左手の指とロープを掴んだ右手の指は、どちらも強く硬直して動かない。
まず、持ってきたジークさんのマントを倒れている彼の下に敷く。私がジークの体を少しずつ持ち上げて、その隙間にアイラがマントを引き込む。アイラに私たちの服とナイフを渡す。
「飾り布の無いところを細長く切って。包帯にするから」
ケガを調べるためにジークさんの服を全て脱がす。体が硬直していて普通には脱がせられないので、短剣を抜いて布を切りながら脱がす。荷袋から灯り用の枝を取り出し、火打石で火をつけてから地面に突き立てる。残りの枝にも火を移して、ジークさんの周りを囲むように立てる。
ロープを握っている右腕がおかしいことにすぐ気付いた。肩が赤く腫れて、肌の下から骨が出っ張っている。そっと腕の骨を探ってみると、折れているのではなく外れているようだった。治し方が分からないので後にする。
まず出血を確認する。
細かい傷は全身にあるけど、血の跡が目立つのは頭、右の太もも、両手、両ひざ、左のひじ。まだ出血が続いているのは太ももの傷だけど、じわじわと滲み出す程度ですぐ命に係わるほどではない。他の所はすでに血が固まりかけている。革袋の水で太ももの傷を洗い、傷口に何もついていないことを確認してから、血止めの葉を当ててアイラの作った包帯で強めに巻く。
怖いのは、土の毒が体に入って増えることだ。弱った体は少しの毒にも耐えられないかもしれない。本当なら傷に食い込んだ小石や砂などをよく水で洗い流すのだけど、今は革袋の中にある水しかない。
私はまず水を一口含んで、うがいをしてから吐き出し、次に毒消しの葉を口に入れて噛み潰した。舌がしびれるほど苦いが、この苦さに効果があると思って、形がなくなるまで歯で磨り潰す。潰した薬草を血止めの効果がある葉に塗っておく。
そして皮膚が大きく剥けたジークさんの右ひざの傷に口を当てる。血の固まりかけた傷から、血と共に小石や砂を舐め取って吐き出す。舌の力で傷を広げないように注意する。何度か繰り返すと血が滲み出してきた。中まで入った毒を出すため、軽く血を吸い出す。最後に傷を少量の水で洗い、薬草を塗った血止めの葉を貼って包帯で巻いた。
気が付くと、ジークさんの左手が岩から離れていた。指はまだ固くこわばっている。包帯を作り終えたアイラに指の手当てをするように言って、私は右ひざの傷の手当てに取り掛かる。
右ひざの手当ても終わって包帯を巻いていると、指に包帯を巻き終えたアイラが左ひじの手当てを始めていた。私の真似をして、薬草を噛んだ口で傷を舐めている。
ロープが手当てのじゃまになるので、口から出た部分を持って軽く引くと、あごの力は緩んでいたようで簡単に口から外れた。右腕に巻きついた部分を解いて、こちらも少し緩んだ右手の指からゆっくりと抜く。指を一本ずつ順に揉みほぐして、ゆっくりと伸ばしていく。手のひらは、指ほどの幅で帯状に皮膚が剥がれ、その一部が親指側に垂れている。
ふと自分の手にできたマメが目に入った。この小さなマメが潰れて私が泣き言を言っていた時に、ジークさんはこの傷で2人の体重を支えていた。
「ニーナ?」
アイラの声で、自分の手が止まっていたことに気付いた。今は余計なことを考えず、手当てに専念する。
大きな傷の手当てが終わると、水を含ませた布でジークさんの全身を拭い、体中にある擦り傷に潰した薬草を塗っていく。骨の外れた肩は、動かないように布で腕ごと体に縛り付ける。正しい治し方はジークさんに訊かないと分からない。
今は岩場にマントを敷いているだけなので、寝心地が良くなるようにマントの下に衣類を挟み、できるだけ平らにする。裸のジークさんをマントの中央に仰向けに寝かせて、その上に私達の外套を掛けた。そしてまだ硬直の残った彼の手足を、2人で少しずつ揉みほぐしていった。
灯り用の枝が燃え尽きて、月もなく辺りは真っ暗になった。静寂の中でジークさんの息が聞こえる。時々、苦しそうに息が乱れる。
「アイラ」
「なに」
「あなたは私の一番大切な人よ。あなたのためなら自分の命をかけてもいい。ずっとそう思ってきたし、今もそう思っている」
「わたしも」
「昨日私達がロープにぶら下がっていた時に、ジークさんのこの状態が分かっていたら、あなたも死なせることになったとしても、私はためらわずにロープを切る」
「いいよ。わたしもそれでいい」
しなければならないことを思いついた。私達の服の、包帯にした残りの上半身の部分に、水を吸い易そうな布を詰めてジークさんのお尻の下に敷く。股間からお腹の方へ巻き上げて、袖を使って腰の所で縛る。赤ちゃんのようだけど、ジークさんがいつ目覚めるか分からない。体を清潔に保って、傷を汚さないようにしておかないと。
「大丈夫だよね……」
ジークさんの顔を見ながらアイラがつぶやいた。私に言ったのか、それとも自分自身に言ったのか。
「熱はないし、息もしっかりしている。きっと朝になればジークさん、いえジーク様は目を覚ますわ」
「ジーク様って呼ぶのは、何だかよそよそしい感じがする」
「そうかな。……でも何て呼んだらいい?」
「ワカミでいいんじゃない」
異教徒のこの人を? でもそう言われてみると、それ以外の呼び方は思いつかなくなった。
「そうね。この人は私達のワカミね」
疲れ切った体で一晩中起きているのに、眠気は全く感じない。息が落ち着いてからは、アイラと会話することもなくワカミの手足を揉み続ける。話す必要がないほど、互いの気持ちを分かり合えていた。
包帯の血が固まる前に、傷口の薬草を塗り直し、汚れた包帯を交換することにした。右腕の包帯を巻き直している時、ワカミの口から小さな声が聞こえた。




