ひかれ屋
あるところに、気弱な男がいた。
引っ込み思案というか、意気地がないというべきなのか、こと恋愛に関して男はともかく奥手だった。
学生時代に浮いた話の一つもなく、社会人になって働き始めた今でもそれは変わらなかった。
そんな男でも人並みに恋はする。彼は今、毎朝駅のホームで見かける女性に思いを寄せていた。
向かいのホームでいつも同じ時間、同じ場所に立つ彼女。
初めてその女性を見たときから、男は恋に落ちていた。一目惚れというやつだ。
しかし男がすることと言えば、毎朝彼女の向かいに立ち、電車を待つ間よそを見る振りをしながら、彼女を時々視界にとらえる程度だった。
そんなことだから、いつまでたっても恋愛経験がないことは自分でも分かっている。
だからといって、彼女に対してどうすればいいのかがそもそも分からない。
行動を起こそうにも、朝は向かいのホームにいるから声をかけられない、夜では帰ってくる時刻を知らない、仮に会えたとしていきなり声をかけたら迷惑かもしれないなどなど、言い訳ばかりが頭に浮かんで結局何もしない。
唯一したことといえば、ひそかに携帯電話のカメラで写真を一枚収めたくらいだった。
しかしそれで満足するはずもなく、それどころか内に秘めた思いは日を追うごとに高まり、男はどんどんその女性に惹かれていった。
せめて彼女が自分のことを知ってくれたら。いや、いっそ視線を交わすだけでもいいから。
男の願望は膨らむばかりで、そこに行動が伴うことは一切なかった。
あるとき男が家に帰りパソコンを立ち上げると、一通のメールが届いていた。
「ひかれ屋からのお知らせ……何だこれは?」
どうやら何かの広告メールのようだ。
『あなたの運命の赤い糸たぐり寄せます』と書かれたキャッチコピーから察するに、結婚相談所のようなものかと男は考えた。
気になり、詳細を読んでみる。要約すると、結ばれたい相手の情報と代金を送れば、その相手とうまくひき合わせてくれるのだという。
「ははーん、最近の詐欺は趣向を凝らしているんだな。まったく、そんなことで彼女にお近づきになれるんだったら苦労しないさ」
そう言いながらも、男はメールに載っていたサイトへととんでみる。返信用のフォーマットを見るに、ずいぶんとまた事細かに相手の情報を訊ねるではないか。
なんだか詐欺にしては、妙に手が込んでいる。
ここで男の考えが変わった。どうせ自分からあの女性に声をかける勇気などないのだから、いっそのこと騙されたと思って試してみるのもいいかもしれない。
決して初回割引の文字に踊らされる訳ではないが、別段代金も高くはない。
男は軽い気持ちで、ひかれ屋とやらを利用することに決めた。
と、ここで気付く。いざ彼女の情報を打ち込もうとしたが、自分は彼女のことを何も知らない。
唯一持っている彼女の情報と言えば、密かに収めたあの写真しかない。
幸い顔写真を添付する欄があったので、ひとまず男はその画像だけを載せて送ってみた。
すると、画面に何やら赤い文字で表示される。
『警告:相手の情報が少ないため、多少強引にひき合わせる形になります。それでもよろしいですか?』
男はいぶかしげにパソコンの画面を睨んだ。
「なんだ、これはいったいどういうことだ?」
一瞬躊躇した男だったが、よくよく考えてみればこんな自分に対し強引にやってくれるとというなら、むしろ願ったり叶ったりではないか。
なにしろ、それこそが男に足りてないものだ。
選択肢で〈はい〉を選ぶと、その日は早めにベッドへと潜り込んだ。
翌朝、男はいつものように、会社に行くため駅のホームに立っていた。
しかしいつもと違うことが一つだけあった。件の彼女の姿がどこにも見えないのだ。
そわそわと男は辺りを見渡す。
もしや昨日のひかれ屋とやらのせいかもしれない。期待はさほどしていなかったが、いつもと違う状況に男は胸の高鳴りを抑えられなかった。
そうこうしているうちに、いつも乗る電車が到着する時間になる。
果たしてどうなるのかと期待していた矢先、あの女性が慌てた様子で向かいのホームへと現れた。
肩で息をしているところを見ると、階段を駆け上ってきたのだろう。
なんだ今日はたまたま寝坊でもしただけかと、男は内心がっかりした。
しかし次の瞬間、男の体に異変が起きた。
どういうわけか、胸のあたりを引っ張られるような違和感を感じ取る。
気のせいかと思ったが、次第にその力は強くなっていき、男の体が徐々に前へ前へと進んでいく。
男は驚きのあまり声が出なかった。自分に何が起きているのか理解ができない。
ふと、昨日の警告文が脳裏をかすめる。
『多少強引にひき合わせる形になります』
男の体から一気に血の気が引いた。
「まさか……そんな……」
すでに電車はホームへと進入しようとしていた。
必死に抵抗を試みるが、引っ張る力はどんどん強くなっていく。
電車が音を立てて迫ってくる。
じりじりと男の体は引きずられていき、靴が地面との摩擦で音を立てる。
掴まるところもなく、男はすでに限界だった。
ついに男の体は向かいのホーム目がけて宙に放りだされた。
「あ、ああぁああああぁああああああああぁああ」
電車と激突する瞬間、確かに男は向かいのホームの女性と目が合った。