かんわ:おおかみさんは知っている
幼馴染の手に、当たり前の顔で手を重ねる『弟』の姿を視界に納め、心がひやりと冷めていく。
駅のいざこざで言質をとって機嫌がいい愛兔は、僕の苛立ちに気付いてるくせにスルーできる余裕があるらしかった。
その隣で仕方ないと眉を下げて笑う虎珀は、わかってるようで本当は何もわかってない。
どうして僕と愛兔の仲が悪いのか。どうして愛兔が今岡さんたちの様子を見て過剰に心配するのか。どうしていい年した男が見せ付けるように甘えるのか。
幼い子供が手を繋ぐのと、高校生の自分たちが手を繋ぐのと、周囲の見る目が全然違うのも理解してない。
虎珀は一般的に見て、取り立てて特別な美人じゃない。
ついさっき遠目に見た今岡さんは、西洋の人形師が端整こめて作り上げた人形みたいに整った顔立ちをしている。確かイギリス人とのハーフで、日本人ではちょっと見ない澄んだ蒼い瞳と、西洋人ならではの白い肌をしている。触れれば折れそうな儚げな雰囲気の不思議な空気を持つ少女で、もし彼女を知らない人間なら道を歩いてすれ違ったら、不純な気持ちをもってなくとも思わず振り返って二度見してしまうだろう。
高屋敷さんは可愛いと綺麗を合わせた今岡さんとは違い、同じくらい華奢で小柄な体型をしながらも、凛とした空気を持つ『美しい』の表現が似合う少女だ。
今岡さんとは種類の違う日本人特有の黄みがかった白い肌と、少しきつくも感じる涼しげな二重の瞳が特徴的で、いつでも背筋を伸ばして前を見ている印象が強い。
薄い茶色の癖毛をベリーショートで纏める今岡さんと、真っ黒で癖一つない髪を腰まで伸ばしている高屋敷さん。性格も見た目も第三者として傍観する限り正反対なのに、彼女たちが並ぶと誂えたようにしっくりとくる。そして雰囲気は違えどいずれ劣らぬ美少女なので、噂になるのも頷けた。
けれど虎珀だって魅力的だ。いつも笑顔で明るいし、愛嬌があって独特の可愛さがある。きょろきょろと好奇心で輝く栗鼠みたいなどんぐり眼は見ていてとても微笑ましい。
僕たちの反応は大げさというけど虎珀はもう高校生で、子供というより大人に近い。心配してし過ぎることもないと思う。
これは普段は反目する幼馴染の弟も同じ意見だろう。独占を見せ付けるために指を絡ませ蕩ける眼差しで虎珀を見詰める愛兔には、『弟』の色なんて欠片もないけれど。
僕と愛兔の出会いは今から遡る事十三年ほど前になる。僕と虎珀が三歳。愛兔は二歳だった。
虎珀の父親が再婚して引っ越すからと挨拶に来てくれたときだと思う。おだやかで優しげな女の人と虎珀のおじさんが並んで立ってて、虎珀はにこにこと満面の笑みを浮かべて小さな愛兔の手を引いていた。
頬を赤く染めて自慢そうに心なしか胸を張った虎珀の横には、くるりと少し癖の付いた栗色の髪をした可愛い顔立ちの男の子がいて、物言わずにじっとこちらを見詰めていた。
『・・・こはく、そのこだーれ?』
『おとーと!』
『おとうと?なんで?』
『わたしにもおとうとができたの!わたし、これでほんとうのおねえちゃん!』
にぱっと笑って繋いだ手をぶんぶんと振る虎珀は、新しく出来たらしい『弟』に衒いない笑顔を向けた。
僕を見てもなんの反応もしなかった『弟』は、虎珀が嬉しそうにするのに釣られたのか、にこっと笑顔を返す。
その瞬間腹の底から沸いたのは、生まれて初めて自覚する『嫉妬』だったと思う。
ずっと、それこそ物心付いてから家族以外で一番近くに居たはずの虎珀が、いきなり現れたよくわからない『弟』という生物に奪われる。
同じマンションに暮らしていてよく互いの家を行き来する仲だった僕にとって、身体が弱くて外の世界とつながりがない幼馴染の同年代の特別は自分と妹だけと信じてた。
年下の、頭一つ分は低い男の子を見て最初に抱いた感想は唯一つ。『こいつ、いらない』だった。
今考えるとその頃既に無意識の認識で虎珀は自分のものという子供らしい独占欲を抱いていた僕にとって、『弟』として眼前に現れた子供は虎珀を奪うライバルでしかなく、事実今でも邪魔だと思っている。
きっと挨拶に現れてすぐ、虎珀たち一家が引っ越してしまったのも思い込みに拍車を掛ける一因だろう。
会いたければ階段を上がるだけで済んだ日常は嘘のように消え果てて、月に一度車で数時間掛けて通って会えるかどうかになった。繰り返すたびに子供ながらに不満は降り積もり、苛立ちはすべて愛兔へと流れた。
会う都度距離を縮める虎珀と愛兔が腹立たしくて仕方なかった。僕が遊びに行くと走って出迎えてくれる虎珀を、『おねえちゃん』と呼ぶ愛兔が邪魔だった。
『おねえちゃん』と呼ばれると、僕に向けていた視線がすべて愛兔に奪われて、当たり前に虎珀は踵を返す。ちょっと前まで迷いもせず僕の元へと走ってきたくせに、『ちょっと待って』と告げて僕に背中を見せるのだ。
愛兔も僕の感情を早くから悟り、一定以上近寄ることはほとんどなかった。
多分、一、二年は当たらず触らずの関係だったと思う。おじさんとおばさんの目もあったし、妹も居た。それにお互い、虎珀が笑顔になるから我慢していた部分もあった。
綱渡りをしているような日々の中、僕たちの関係は些細な切欠で崩壊したけど。
切欠は本当に小さなものだった。小さすぎて今では原因をはっきり思い出せないくらいだけど、あんなに盛大な殴り合いの喧嘩は生まれて初めてだったから記憶に刻まれている。
遊びに行った虎珀の家のリビングで、呆然と立ち尽くす虎珀を余所に僕と愛兔は全力で殴りあった。
こちらの鬱憤がたまっていたように、愛兔も愛兔で僕に対する鬱憤は大きかったらしい。
一年分の体格と体力の差があったから勝ったものの、愛兔は最後まで泣かなかった。唇をきゅっと真一文字に結び、眦に大粒の涙を湛え、それでも零すことはなかった。
その場に居た虎珀と、一緒に遊びに行った妹がぎゃあぎゃあ大泣きして、僕は勝ったけど母さんに拳骨を喰らって、愛兔は愛兔でおばさんに叱られた。
それから僕たちはお互いに抱いている悪感情を隠さぬようになり、喧嘩も格段に増えた。見えない壁を取り払ったと言えば聞こえはいいがそんな生易しいものじゃない。互いをライバルとして認め、しまっていた牙をむき出しにしただけだ。
気に食わない。虎珀を間に反目し合う一番素直な感情はこの一言に限るだろう。
「虎珀」
「なに?ゴロちゃん」
名前を呼べばすぐ返事が来る。隣に立っている『弟』がどんな目で僕を睨んでいるかなんて、虎珀は全然気付かない。
くつりと喉が震える。ああ、なんて歪な形をした『姉弟』だろうか。
中学時代、一年ほど愛兔が荒れて荒れて仕方ない時期があった。髪を金色に染め、あれだけ懐いていた姉の虎珀を避けるようになり、毎日毎日喧嘩して傷をこさえて帰ってきていた。中学生になれば僕も虎珀の家まで自分の足で行く手段を持っていたので、何度か相談された。
虎珀は知らないけれど、愛兔が荒れた原因は一番確かだと信じていたものが奪われた衝動だと僕は知ってる。
他の何が失われても絶対に消えない。誰に奪われることもない。切れることはない。
無邪気で無防備で身勝手なまでに傲慢に信じていた『それ』を失くしたと思い込んで、そして心の均衡を崩した。
「僕の手もあいてるよ」
にこりと、虎珀専用の笑顔を浮かべて掌を握って開く。
高校生になってもまだ幼い心を持つ幼馴染は嬉しそうに破願して駆け寄ろうとし、自分の手が鞄で埋まってるのに気付いて肩を落す。
電車から降りたあと弟から無理やり奪い返したそれを今度は僕が片手で奪い、ようやく自由になった手を一回りも大きくなった掌で包み込んだ。
「ほら、これで解決」
「うん」
ほにゃっと相貌を崩した虎珀は、ずっと昔からそうしてたようにぶんぶんと握った手を振った。
肌を刺す視線に気づかないふりをして、無邪気で裏表のない子供みたいに同じ仕草を返す。そうすると虎珀はもっと喜んで、握った掌にぎゅっと力を篭めてきた。
可愛い。抱きしめたい。独占して腕の中に囲って、他の誰も見えなくなるようにしてやりたい。男としての素直な欲求はもう何年も前から僕の心に巣食っている。
「はくちゃん」
「ん?」
「そいつの手を握ったら、やだ」
わざとらしく見た目に似合わない舌足らずな口調で強請る男に、ぞわっと全身に鳥肌が立った。
思わず視線を向けると、一瞬だけ鋭い眼光を向けた愛兔は、琥珀の顔を覗きこんで甘えるように瞳を潤ます。随分と器用なことだ。
もう僕たちより横も縦も大きくて、ついでに髪形はモヒカンで雰囲気はカミソリみたいな空気を持つ相手を、それでも『弟』という理由だけでフィルターを掛けて甘やかす虎珀の器は物凄い。
僕にはとても出来そうにないし、ついでにこんな生意気で鼻に付く男なんて絶対に甘やかしたいとも思えない。同じ言葉を言われたら無条件に尻を蹴り飛ばしてやるだろう。全力で、加減せずに。
困ったように眉を下げて言葉を探す虎珀を見て、勝ったと口角を持ち上げた。長年の付き合いから迷ってる限り虎珀は絶対決断できないのを知っている。だからこの手は離れない。
『ざまあみろ』と唇だけで呟けば、目聡く見咎めた男は心底腹立たしそうに、今にも飛び掛ってきそうな獣みたいに剣呑な顔をした。
胸に彩る想いの名前は『恋』。
でももしかしたら───目の前の厄介で鬱陶しい存在がいなければ虎珀に向ける感情ももっと違うものだったかなと、ほんの少しだけ考える。
幾度も浮かんだ疑問は、結局今日も実を結ばない。どうしたって虎珀に『恋』をしてない自分は想像出来ないし、愛兔がいてもいなくても執着の度合いの進行が早いか遅いかの違いだけだろう。
見せ付けるように握った手を口元に持って行き、ちゅっと音を立てて口付けた。
「どうしたの、ゴロちゃん」
「虎珀の手が冷たかったから、温めようと思って」
「ちゅうじゃ温かくならないよ?」
「ふふ、その内温かくなるよ」
吐息がかかる位置に手を持ち上げたまま囁くと、不思議そうに見上げる瞳と視線が絡む。
もしかしたら。もしかしたら、虎珀は無意識に恋愛感情を知らないようにしてるのかもしれない。錘が偏らなければ天秤は傾かない。だからこそ意識しないうちにどちらかに想いを寄せたりしないよう、心の中で調整してるのかもしれない。
同年の男が手にキスをしても頬を赤く染めることすらしない幼馴染の代わりに、うさぎの名がつく凶暴な弟が毛を逆立てて手を奪い返した。
少し茶色がかった切れ長の瞳は、出会った頃と違い僕にもはっきり感情を見せる。色濃く不機嫌を露にした男の眼差しを鼻で嗤い、もう一度幼馴染の小さくて柔らかな手を握りしめた。