三
「ここ、どこだ……」
寝ぼけ眼の水城は混乱の中にいた。目覚めたら知らない部屋の、知らないベッド。
ホテル、じゃない。正直申し上げてずいぶん生活感に溢れた部屋だ。
水城の体重を支えているベッドがある部屋とすぐ隣の部屋は、スライド式の戸で境界が作られている。隣の部屋はダイニングのようで、奥にはもう一つ部屋が見える。低いダイニングテーブルの上にはベージュ色のマグカップが一つ、テレビのリモコンらしきもの、ペン、レシート、ジンのボトルが置かれている。その左奥に流し。流しの隣にはツードアの冷蔵庫があり、冷蔵庫の上には電子レンジが載っかっている。
誰の家だろう。ふと見れば腕時計は午前十時を示している。
昨夜は飲みすぎたのか、それともあまり考えたくはないけれど、前回と同じ状況なのか。鈍い頭痛がする。だが、喉が渇いているわけでもない。やっぱり飲みすぎとは違う気がする。
忘れ去った記憶を引っ張りだそうと考えてみても、昨日の夜は池袋を歩いていた。それ以上に何も出てこない。
仮に浴びるほど飲んだとして、一軒目にどこに行ったのかまで忘れてしまうようなことは過去にない。もっとも、脳の機能に異常をきたすくらいに飲んだのならあり得るかもしれないが、そんなことになっていたらこんな普通の家のベッドではなくて、どこかの病院で目が覚めるだろう。
何はともあれ、まずは目の前の状況に対処することが重要だと思う。さっきもソレは水城の視界に入っていたのだが、意識的にスルーしていた。時間は確実に過ぎていく。いつまでも気付かない振りをしているわけにはいかない。
ダイニングのカーペットの上には、見知らぬ女性が寝ている。取り合えず、目覚めたら突然隣に知らない女性、という展開ではなくて良かったと心底思う。
同じベッドで眠っていないのだから、何かあったって可能性は低いだろう、多分。
「いや、ないな。うん、ない」
水城は自分を勇気づけるために小さく呟いた。しかし本当に、どうしてこうなったのかと記憶をたどってみても、何も思い出せない。池袋を歩いていて、歩いていて……どうなった?
いや、そういえば……誰かに声をかけられたような気がする。誰だっけか。誰に、何を言われたんだろう。記憶がないのはそこからだ。
水城がぼんやり考えていると、女性が声をもらし、身体を起こした。ぼんやりした表情で水城を見る。
綺麗な顔をしている人だ、肩まである髪はぼさぼさだが。水城が声をかければいいものかと考えていると、相手が先に口を開いた。
「おはよう。身体の具合はどう? だいぶましになったように見えるけど」
「おはようございます。身体は問題なさそうです」
出来るだけ不自然にならないようにと平静を装って言葉を返したが、どうやら何かまずかったようだ。彼女は途端に不機嫌そうな顔になって言った。
「……なにそれ。そんな話し方じゃなかったよね」
そう言われても、残念ながらどんな口調で話したのか。それどころか何を話したのかすらわからない。もちろん、どういう成り行きでこの部屋にいるのかもわからない。そもそも、あなたが誰だかわからない。
「そう、ですか? 一応、いつもと変わらないつもりですけど。ところで、本当に申し訳ないのですが、一つ質問していいですか」
気まずさでじっとりとした汗が出てきそうだ。でも、このまま黙っていても仕方ない。水城は、ここはさっさとはっきりさせた方が後のためだと判断した。
「どうぞ」
嫌そうな表情をぴくりとも変えないまま溜め息を一つ吐いた女性に、少し躊躇しながら僕水城は尋ねた。
「本当に、本当に本当に申し訳ないのですが、教えて下さい。先に言っておきますが、真面目な質問です」
額をシーツに擦り付けながら、水城は背中の皮膚感覚以上にじとっとした視線を頭頂部に感じていた。ホント、お願いしますからもう、そんなに見ないで下さい。彼はつむじからそんな懇願の空気を発していたが、悩みながらも大切な問いを発した。
「あの、僕は何故ここにいるんでしょうか」
「はあ? 覚えてないの?」
呆れと怒りを含んだ声色だった。確かに、どんな状況だったにせよ当然の反応だろう、とは水城も感じた。彼の中では初対面の女性の家のベッドで起きるなんてのは確実に異常事態なわけで、絶対に迷惑をかけている。
そうだ、こんな高いところにいていい身分じゃない。ベッドから下りてダイニングまで行き、カーペットに正座する。
「本当にすみません。どこでどう会ったのか、全く覚えてないんです。池袋を歩いていたのは覚えているんですけど……でも、きっと大変なご迷惑をおかけしたと思います。謝ります」
水城はそう言って頭を下げたが、何の言葉も返ってこない。頭を下げていては彼女がどんな表情をしているかもわからず、非常に気まずい。
「そんな謝られてもね……最初に言っておくけど、あなたは全くの素面だったから。それを踏まえて聞かせて? 他意はないからね。こういうことは、んー……少しでも正確に言うなら、酔ってもいないのに記憶を失うことはよくあるの?」
水城は思わず頭を上げた。
頭上から問われた言葉は、彼に二重のショックを与えていた。
その一、昨夜は素面だったということ。
その二、他人から記憶の剥落を指摘されたこと。
「……頻繁にではありませんが、正直なところ時々あります。ただ、ごく最近に限って言えば少ないとも言い切れません。不自然に記憶がなくなっているということについては、自覚があります」
今の言葉を聞いて女性は考え込んでいるようだ。水城自身もおかしなことを言っているとは思うが、それが事実なのだから仕方ない。一堂頭の片隅で脳の病気かとも考えたが、仕事を言い訳にしてまだ病院には行ってない。
しばらく黙って思案していた女性だったが、やがてふと思いついたように言った。
「あなた、名前は」
「水城優介です」
昨日は自分の名前すら名乗っていないんだろうか。
「そう、水城くん、ね。その様子だと間違いなく私の名前も覚えてないだろうから先に言っとくけど、私の名前は瀬名陽子よ。改めてよろしく」
瀬名陽子。言われたとおり、覚えのない名前だ。彼女の言い方では自己紹介はされていたようだけど。
「あとね、これはあくまで私の想像でしかないんだけど、おそらく重要なことだから伝えておくよ。最終的な判断はあなたの好きにすればいいから。いい? 今のところ私はそう考えているっていう話だからね」
水城は小さく頷いて彼女の言葉を待った。
「うん……どういう言葉が正しい表現になるのかわからないけれど、あなたは二重人格ってやつなのかもしれない」
二重人格? 水城は頭の中で、告げられた言葉を繰り返す。その言葉の意味は、そのまま捉えるなら二つの人格があるということだろう。それはつまり、自分ではない人格が存在しているってことだ。つまり記憶がないときは、そいつが活動している?
予想はしていた。それにしても、聞いて、はいそうですかわかりました、なんて簡単に納得できるような話ではない。ただ一つ、無理にでもこの話に良い点を見つけるとするならば、先日たどり着いた結論を他人から肯定されたことになる。
自分の中に得体の知れない誰かがいるという可能性を考えたものの、それが仮に事実であったとして、自分ではどうやってもそいつに接触することができない。まさか送ったメールに返信があることもないだろうと、水城は考えていた。
だが、目の前の女性はそいつと会っている。しかも、どんな経緯があるのかわからないが家に泊めてすらいる。今、しっかりとした情報をつかんでおかないと、ここ最近の異常について理解する機会はひょっとすると永遠に失われてしまうかもしれない。これは、一つのチャンスでもある。
水城は真剣な表情でもう一度頭を下げた。
「お願いばかりで申し訳ありませんが、そのもう一つの人格について教えていただけませんか。情けない話ですが、残念ながら今のところ僕には、その件について瀬名さん以外に頼れる人がいません。昨日何があったのかについてもぜひ聞かせて下さい。お願いします」
彼女は教えてほしいのはこっちよ、と溜め息まじりに呟いたが、わかる範囲だけねと言って立ち上がった。
「コーヒー飲む?」
「あ、はい……いただきます」
瀬名さんはキッチンの戸棚からベージュ色の缶とポット、ペーパーフィルターを取り出した。缶には二本の脚で立つピンクの豚のイラストが描かれている。
改めて部屋を見渡すと、テレビの上にも小さな豚の置物がある。ひょっとすると豚が好きなのかもしれない。その豚の置物の隣には、手のひらほどの大きさの、木製のサンタクロースが体育座りをしている。
やかんに水を入れ、火にかけながら彼女は話しだした。
「もう一人のあんたは藤崎って名乗ったわ。残念だけど、彼について詳しいことは知らない。前にもパスティスで見かけたことはあったけど、まともに話したのは昨日が初めてだから」
瀬名さんはテーブルの上に置いてあったタバコを手にとる。壁に立てかけてあった白い折りたたみ式のパイプ椅子をガス台の前に置き、換気扇をつけた。
「パスティスというのは?」
彼女は質問に答える前にタバコに火をつけ、換気扇にむかって煙を吐き出す。
「そう、それもわからないの……パスティスは、池袋の東口にあるバーよ。私、昨日はそこに行こうとしてたんだけど、外から見た感じ混んでたから止めたの。で、帰ろうと思って駅に引き返してたら藤崎と、藤崎を追いかける二人に出くわした……二人って表現が正しいのかもわからないけどね。アレが何だったのか、どういうことが起きたのか。悪いけど、私にはうまく説明できない。目にしたことについては話せるけど、それが何だったのか今になってもまるで理解できてないから」
タバコから立ち上る煙が換気扇に吸い込まれていく。
追われていたということと、先日の血のことを考えると、藤崎という名を持つもう一人の自分は間違いなく危険なことに関わっているらしい。
「そいつらと争って、藤崎は怪我でもしたみたい。あんまり辛そうだったし、私も巻き込まれて何も知らないままっていうのは気に食わなかったから、うちに連れてきたの……藤崎は、多分私を守ろうとしてくれてたからね」
瀬名さんは慣れた手つきでペーパーをポットにセットし、コーヒー豆を入れ、ポットを時計回りに回しながらお湯を注ぐ。インスタントでも一向にかまわない水城とは違い、こだわりがあるようだ。
漂ってきたコーヒーの香りにほっとした水城は、真剣な話の途中にちょっと申し訳ないと思いつつ、トイレの場所を聞いた。そこのドアの左、とこちらに顔だけ振り向きながら答える瀬名にわかりました、と言ってドアを開けると、
「そう言えば、あんたゲイなの?」と、突拍子もないことを言うのでとりあえず全力で否定した。
トイレには豚のイラストが描かれたカレンダーが貼ってあった。




