二
「しまったなあ。ちょっとタイミングが悪かったなー」
仕事を終えた瀬名がパスティスに行ってみたところ、外から見て店内は明らかに混んでいた。そこで金曜日だということに改めて気付き、店に入るのを諦めしぶしぶ駅への道を引き返している。
自分が騒がしくするのは嫌いじゃないが、人が騒がしくしているところに入っていくのは苦手だ。それなら他の店に行って静かに始めたい。
「さむすぎ……」
そういえば朝のニュースで今夜から明日にかけて冷え込むと報じていた。冷気に首を縮こまらせ、瀬名はマフラーを巻いてこればよかったと悔やんでいた。
とぼとぼと歩いている路地には人気はなく、街灯が少なく薄暗い。一本挟んだ広い通りにはうんざりするほど人が歩いているのに、いつもこの辺りは人気がなかった。
誰かに教えられたわけでもなく、自然と人が避けていく道が存在している。そこには霊が出るとかそういったオカルトな話ではなく、単純に街灯が少なく薄暗いという特徴があった。そういう状況下ではどういったことが起きるか。統計的に見ると、明るい場所に比べ暗い場所では犯罪の発生件数が圧倒的に多い。危険を避けるには、まず危険な場所を避けること。それは子供だって理解している。
そんなことをぼんやりと考えていると、曲がり角の先から慌ただしい足音が聞こえてきた。どうやら誰かが走っているらしい。
「嫌な感じだなあ」
瀬名の今までの経験上、街中をどたばた走るというのは緊急事態だ。面倒に巻き込まれる前に身を隠せるところがないかと視線を散らしたが、適切な場所を見つけることはできなかった。
トップスピードでコーナーを抜け出してきた人影には見覚えがあった。つい先日パスティスのカウンターで瀬名をじっと見ていた、細身の男性だった。後ろを気にしながら走り続ける男は、瀬名に気がつくとその表情をこわばらせ、短く警戒の言葉を発した。
「逃げろ!」
瀬名は突然の警告に理解が追いつかず、続いて角から姿を現した影を身動きひとつないままで出迎えた。
現れた影は二つだが、その一つを認識すると瀬名は思わず疑問の声を漏らした。
「なによ、あれ……」
影のうち大柄な方の右腕が、通常の人間の二倍ほどの長さを持っていた。
男はすっかり動きを止めてしまった瀬名を見ると、まさに苦虫を噛み潰したとでも表現するのが適当であるような、心底嫌そうな顔をして急停止した。そしてそのまま瀬名を守るように反転し、二つの影の前に立ちふさがる。
瀬名は必死で次の行動を考えようとしていたが、わかったのはさっさと逃げた方がいいということだけだった。誰がどう見ても厄介事だった。
それでも一度対峙してしまった瀬名は影に背中を向けて逃げることができない。男たちが現れた時点で彼女は状況に飲み込まれ、走り出して逃げることもできずに棒立ちになっていた。
「吹き飛べ!」
男が気合の入った声と共に右腕を横に払う。
それに反応して、大柄な影は勢いそのままで大きく跳躍をする。一方後方の小柄な影は足を止め、硬いアスファルトに手を当てた。その途端にアスファルトが人の背の高さほどまで隆起し、まるで意思を持った生き物かのように男に向かって突進を開始する。男と地に手をついた影、ちょうど二者の中間地点で、突き進むアスファルトの上半分が見えない鉄球でもぶつけられたかのように破砕された。しかし下半分は速度を落とすこともなく男に迫る。
「鬱陶しい!」
男が文句を叫びつつ左に飛び退くのと同時、跳躍していた影が瀬名の前に着地した。
眼前の緊急事態に対して瀬名の認識は追いつかずに、思考は明後日の方に飛んでしまっていた。普通、人は道具を使わずに人を飛び越えることなんてできない。なのに。
「これ、なに……?」
影は誰の妨害を受けることもなく、無防備な瀬名に接近していく。影の異様に長い右腕の途中から半分、通常の人間ならば手があるくらいの位置に肘があり、そこから先はノコギリのような形状をした刃と一体になっている。影はその右腕を瀬名の腹部目掛けて振るう。
瀬名の視界はスローモーション。それがどのような裂傷をもたらすかはわからない。だが、まさかこんな薄っぺらいコートで防げるとは思えなかった。
あんな形状の凶器で傷をつけられたらどれほどの傷がつくか、内臓までずたずたになるかもしれない。瀬名は咄嗟に最悪の結果を思い浮かべて瞬間的に心臓を冷やした。
想像が一瞬で駆け巡っても、身体は都合よく反応しない。瀬名は指先すら動かすことができず、刃が迫ってくることをただ他人事のように認識することしかできない。
凶器がゆっくりと、コマ送りの映像を見ているように瀬名に近付いていく。
瀬名は眼前の出来事に理解を追いつかせないままに、否定を重ねていた。
「こんなの、おかしい」
嫌だ。私はこんなのは嫌だ。こんなこと、あっちゃいけない。
すぐに異形の腕が届く。
もう目の前に。
皮膚がめちゃくちゃに切れて、血がだらだらと流れて、傷口からは臓器がはみ出して。
嫌だ、いやだ。
やがて血と肉に鼠や虫が寄ってくる。
鼻をつく臭いをまき散らして。
――――い、 や、 だ。
脳内はおぞましいイメージで溢れかえり、影の右腕が触れる寸前、瀬名は心の底から否定した。
当然ながらそんな願いは無意味であり、間もなく刃はコートに触れた。
音もなく、影が瀬名の横を通り過ぎた。
影が過ぎ去った後、ずたずたにされたはずの瀬名の腹部には、何の変化も見出せなかった。焼け付く痛みを想像していた瀬名は不思議に思い、自分の腹部に手をやる。身体どころか、ブラウス、コートにも傷一つついていない。
瀬名は確かに影の刃が自分に触れるのを感じたし、あまりの恐怖に咄嗟に目を閉じた。
瀬名が後ろを振り返ると、影は右ひじを押さえていた。その肘から先がない。文字通り消えていた。
その切断面は骨が剥き出しになっており、血液が押さえた指の間からひどい勢いで噴き出している。忌々しく瀬名を睨みつける影の怨嗟の視線よりも、間近で感じる生々しい血の臭いに瀬名は激しい吐き気を感じて口を押さえた。
眼前で異形が血を噴き上げるという異常事態に、瀬名は妙に冷静に「ふざけんな、ざまあみろ」と口を塞いだまま毒づいた。もはや瀬名の精神は物事を考えることを放棄していた。
その言葉に応えるように影は再度瀬名に向かって突進する。出血に我を失ったような乱れは見られない。与えられた命令を実行する機械。
影は残る左腕を瀬名の視界を覆うように伸ばす。それは瀬名が目で追える程度、しかも一直線のなんら工夫のない動き――これなら避けられる。瀬名がそう感じて体重を移動させた時。
伸ばした掌の中心から赤黒い棒状の何かが突き出された。
避けるタイミングを完全に狂わされた瀬名は突然伸ばされたリーチに反応できるわけもなく、中途半端な態勢のままに視界を一直線に突き進んでくる何かを凝視していた。それが瀬名の右胸に突き刺さる寸前に、やっと瀬名はソレを視認した。
必殺を狙ってきたソレは、肉と血をまとわりつかせた骨だった。
「――なっ?」
咄嗟のことに瀬名は叫び声を上げることもできず、疑問の声を小さく発しただけだった。
行動の意味に反して意味のない思考だけが速度を上げていく。
――有り得ない。意味がわからない。
瀬名は目に見えない何かに対して真実の祈りを捧げるかのように、心の中で再び眼前の現実を強く強く否定する。
瞬間。
ソレは瀬名に触れた先から消失した。
力に満ちた突進をとめられず、影はその勢いのままに左腕も肘のあたりまで消失する。先ほどの右腕と同様に凄まじい勢いで噴き出す血飛沫は、瀬名の衣服を汚していく。
「うわっ」
思わず間の抜けた悲鳴を上げた瀬名に対して、凄惨な状態にも関わらず影は苦痛の声を上げることはなかった。無言のままじりじりと後ずさりをしつつ、両腕から止まることのない血をまき散らしている。しかし人間以上の動きをしていたにしても生き物には変わりないのか、真っすぐ立つことすら出来ずにふらふらしている。
瀬名は血まみれになった自分の衣服と影を交互に見比べながら、混乱を深めていた。
――私は、何もしてない。なぜこんなことが起きているのかわからない。触れた奴の身体がなくなるような危険な体質なんてない……そんな便利な力があったら、きっと今までに何人も消している。
影は混乱する瀬名を見て逃走の好機と判断したのか、一度大きく飛び退いて距離をとると暗闇に姿を消した。
どんな奴であれ、あの出血ではもう助からないだろう。瀬名はぼんやりとそんなことを思いながら逃走を見送る。
少しの間ほうけていた瀬名だったが、影は一つではなかったことを思い出して後ろを振り向いた。
瀬名がバーで顔を合わせた男はところどころコートが切れて破れており、パンツにも切り傷がいくつもできている。小さな傷はいくつも受けているようだが、大きな傷は負っていない。
対して相手は無傷。瀬名が最初に影としか判断できなかったのは、この暗い中でその男が全身黒一色の姿だったからだ。
先ほど撤退した影については、瀬名は相手の性別を判別する余裕すらなかった。目から下はマスクのようなもので覆われていたが、噴水のように噴き上げる出血と有り得ないとしか言いようのない挙動にだけ注意が向けられていた。現在は距離を持って観察しているために、じっくりと見ることができていた。
黒衣の男は女性として平均身長の瀬名よりもやや小柄な身長であり、幼い顔をしていた。その外見上の印象から、まず二十歳には達していないだろうと瀬名は見当をつけた。
二人の男はしばし身動きなしに睨み合っていたが、やがて追撃者が後ろで様子を伺う瀬名に視線をやった。
「まさかね、こんなところで不適合者と出会うとはね」
その言葉を聞いて瀬名は眉を寄せる。
「彼は働き者だったのにさ、本当、ショックだな。もう、嫌になっちゃうよね。今日は帰るよ、また次を楽しみにしてるからさ」
台詞の途中から笑みを浮かべると、彼はゆっくりと右腕を上段に上げ、何気ない動作で振り下ろした。
瀬名はそれによって引き起こされた事象を理解することができなかった。男の指が何もない空間を裂いていく。男はその隙間に身体を入れると、姿を消した。男が消えると同時、空間にできた亀裂もなくなっていた。
取り残された二人はしばらく何も存在しない暗闇を見ていた。目の前で起きた出来事を理解できずに呆然としている瀬名に厳しい表情の男が振り向く。その鋭い視線に瀬名はびくりと体を震わせた。
「お前……何者だ」
男の声には明確な敵意が込められていた。対して瀬名もその態度には納得がいかないと文句を言い始める。
「何者って言われてもね……一般人なんだけど。そんな目で睨みつけられても困るし、わけがわからないのはこっちなんだけどさ」
しばらくの間にらみ合いを続けていた二人だったが、退かない瀬名の様子に男が折れた。
彼はそれまで全身から発散させていた緊張をとくと、片膝をつく。
「大丈夫?」
「これくらいなら少し休めば問題無い。ちょっと消耗しすぎただけだ。特に大きな出血もない」
苦しそうな表情に、瀬名は警戒しながらも近寄って声をかけた。言葉とは裏腹に男は顔面蒼白だ。
「ちゃんと帰れそう?」
何がおかしかったのか、男は苦笑にしろ初めて笑った。
「酔っ払いじゃないんだ。タクシーでも何でも拾うさ」
ひょっとして聞き方がおかしかったかと一人考える瀬名だったが、立ち上がろうとした男がよろめく。側の自販機に片手をついて体を支えている男の姿に、瀬名は溜め息をついて彼の背中に手をそえた。
「酔っ払いみたいなもんじゃない。家、遠いの?」
「……所沢」
酔っ払いと言われて気分を害したのか、男の声はちょっと怒っていた。
「所沢? タクシー代にいくらかけるつもりよ」
瀬名の言葉に、眉間にしわを寄せて嫌なことを言う奴だなと唸る男。
その現実的な言葉に瀬名は警戒するのを止めた。男は強がっているが、すぐに回復するようには見えない。しばしあごに手をやって考えこんでいた瀬名だったが、大袈裟に、男に聞かせるようにさきほどより一層大きな溜め息をついた。
「仕方ないから、うちで休むといいわ」
「……いいのか?」
一瞬のためらいはあったままの、男は遠慮なく提案を受け入れた。
「まあ……今回はね」
予想を裏切るあっさりとした反応に虚を衝かれた瀬名だったが自分からの提案であるため撤回ができない。
……しまった。何と言うあっさりとした脊椎反射的応。どうやら彼には相当余裕がないらしい。
見ず知らずの男をいきなり家に招くのは前例がないが、この場合は仕方ない。この場合に限っては、仕方ない。そう、これは仕方ない。そう自分に言い聞かせるしかない。
ここで何もなかったことにするには、先ほど目の前で起こったことはいささか刺激的過ぎであり、瀬名は当事者に声をかけられてしまったのだから。
「このまま倒れられたら困るのよ。さっき私を不適合者呼ばわりした奴のことも聞かないといけないし。ただし、これだけは覚えておきなさい。いい? 手ぇ出そうとしたら即刻追い出すから」
「それについては大丈夫だ。私が女に手を出すことはない」
「なに、じゃあ男になら出すの? あんたゲイ?」
胡散臭そうにして問い詰める瀬名に対して、男はいかにも面倒くさいといった様子で違うといった。
「じゃあ、性同一性障害とか?」
「それも違う。ともかく何もしない。それは約束するから、休ませてくれるならお願いしたい」
男はこの話題はここまでという態度を現わにしている。どうもお好みではない話題であるらしい。単に弱っているだけかもしれないが。
瀬名は男に手を差し出し、立ち上がらせて言った。
「私は瀬名陽子。あんたは?」
「藤崎だ」
フルネームを名乗ったというのに名字だけとは失礼な奴、と一瞬むっとした瀬名だったが、そんなことよりも今は休ませて話を聞くのが先だ。見殺しにはできない。
彼の手を取り、肩に手を回して体重をもらう。
「本当にすまない」
「別に、あんたのためにやるわけじゃないから」
瀬名は通りに出る前にコートとその下に着ていたニットを脱いだ。幸いなことにシャツには血は付いていないようだった。
「ああもうっ、寒いっ!」
「……すまない」
「鬱陶しいから謝らないっ」
通りに出ると、うんざりするくらいの人が歩いている。後ろを振り返っても誰一人歩いていないのに。こんなことだから、変なことに巻き込まれるんだ。これからは道を選ぼうと心底思い、瀬名は大きく溜め息を吐いた。もう、暗い道は歩かない。
すぐに空車表示のタクシーが見え、瀬名は慣れた様子で手をあげた。




