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以前投稿した『砕』の改訂版です。大筋は変わりません。

ただ単に、以前のものに個人的に納得がいかないために

全体的に見直しを入れます。

変更点としては、

一、大筋は変わりませんが構成を変えます。

二、人称を変えます。

三、佐々木優介を水城優介に改名します。 以上です。


大人でも読めるライトノベルが書けたらなあ、という作者の願望。

一度読んで下さった方はすみません。

 そろそろ半月ほど休みがない状態で、毎日早朝から深夜までの長時間勤務が続いていた。睡眠は長くて四時間。二時間眠れない日も多い。心身ともに日に日に傷んでいるのは間違いない。

 色々なものが散らかった事務所で手鏡を見ていた瀬名陽子は、目が充血してひどい隈が出来ている自分の顔を見て、

「死相が出てる」

 そんなことを呟いて、一人寂しく笑った。

 後ろ向きなことを考えていても仕方がない、ただ目の前のことをやるしかない。それが瀬名の考え方だった。誰の目から見ても休息が足りていないことは明らかだったが、休みがないのであれば休めるような状況を作らないといけない。休めないのは、最終的には自分のせいなんだ。時間がないなら、時間を作らないといけない。瀬名は常にそう思っていた。

 自分に厳しいだとか、自分を無駄に責めているといわれたことがあった。ところが実際は、瀬名の思考はそういった指摘とは正反対の理由からきていた。彼女は自分以外に責任を求めだしてしまったら持たないと感じていた。きっと周囲の全てを憎みだすだろう。なんでこんなことになってるんだって、喚き出すだろう。そうなったらあっさり壊れてしまう。瀬名はそれが怖くて、全てを自分の責任として生きていた。

「じゃあ、そろそろ行くから何かあれば電話して」

 机の下に置いてあった鞄を肩にかけると、瀬名は立ち上がった。

 いつもいつも店を出る前は色々と気がかりになって、滞在時間が長くなってしまう。どこかで区切りをつけないと帰りどきを逃して結局最後までとなりかねない。

「お疲れ様、あとよろしくー」

 アルバイトの子たちの店長お疲れ様でしたーという声を受け、瀬名はパントリーのドアを開け、客席を一周してから店を出た。

 長い一日が終わった。瀬名はなんとなく溜め息をついて携帯を見た。時刻は二十時を過ぎている。入店してから十四時間以上店にいたことになる。残念ながらそれだけの長時間労働にもかかわらず、サービス残業というやつで金銭的な見返りはない。瀬名が所属している企業は、残業をつけようと思えばちゃんとつけられる。ただ、店長だからこそ店の数字が事細かにわかる分、つけ辛い。

 最終的には瀬名の気分の問題だった。働いた分、お金を貰うのは悪いことじゃないだろう。それでも、それに見合う分の結果が出ているかと問われるとそこが難しい。そんなことを考えるのは自己満足に過ぎないかもしれない。あとは、もう考えるのが面倒だからつけていないという面もある。そう、かっこつけと怠慢の狭間だ。

 これでも今日は上がりが早い方だった。軽く飲んだとしても日付が変わる頃には帰宅できる。睡眠が足りていない現在、本当ならさっさと帰宅するべきなのはわかっていたが、発散が大事なのよねと瀬名は胸の内で一人頷いていた。

 駅前は今日が祝日だということを再認識させる人の少なさだった。祝日、それも三連休の最終日であるとともに月曜日、店は非常に暇だった。一般的な社会人の多くはまた明日から一週間の始まりだということもあり、そういった日は引きが驚くほどに早い。この辺りはビジネス街に学生街という面を持ち合わせてはいるが繁華街ではなし、駅周辺に見られる数軒の楽器屋が閉まれば特に用のない街だろう。通りを歩いている人も平日より少ない。

 瀬名が地下鉄の駅に続く階段を下りていくと、電車がホームに進入してくる音が聞こえてきた。

 慌てて鞄から財布を取り出し、階段を一段飛ばしで駆け降りていく。改札を定期で抜け、滑り込みセーフ。なんとか乗車することができた。走ったせいでちょっと息が切れている。それを恥ずかしく思った瀬名は誰が見ているわけでもないのに、なんでもないですよ、という顔を作って携帯を見た。

 彼女の職場と自宅を結ぶ通勤路では一回電車の乗換えをする。降りたったのは池袋駅。東口より徒歩五分ほどの場所にある、パスティスというバーが彼女の目的地だった。冷たい風に首を縮こまらせて両手をポケットに入れ、てくてく歩いていく。

 慣れた道を歩いてすぐにパスティスにたどり着いた。瀬名がパスティスに通うようになって、そろそろ三年ほどになる。初めは会社の先輩に連れられてきた彼女だったが、元来のお酒好きを如何なく発揮した結果、すぐに常連になってしまった。

 瀬名が入り口の戸を開けると、入店に気付いたマスターが穏やかにいらっしゃいと挨拶をしてくれた。口髭をしっかり生やした三十代後半と思われる男性で、瀬名は勝手にナイスミドルという印象を持っていた。

 店内にはカウンター左端に男性客が一人。ジャケットを壁にかけながら店内を見回した瀬名は、空き具合に運がいいと一人機嫌を良くした。やはり一人で来たときにはゆっくりバーテンダーと話したいと思う。それがここ最近思いつく限り一番の贅沢だ。

 瀬名はカウンター中央の椅子に座り、足元に鞄を置いた。

 パスティスは古めかしいオーセンティックバーというわけでもなし、やたらと軽々しいわけでもなし。リキュールもモルトもいろいろ揃っている、と瀬名は思っている。瀬名も一般に比べれば詳しいとは自負しているが、自分ではしょせんにわかだと思っている。そのため偉そうに店の品揃えについて批評はしない。自分の好きなお酒が飲めればそれでかまわない程度のレベルだ。

 瀬名はバックバーに目をやり、一杯目は何を頼もうかと少し考え、結局五秒もしないうちにジンソニックをオーダーした。一先ず喉の渇きを癒したい。

 なんとなく棚を見はするものの、だいたい一杯目に頼むものなんて席につくときには決まっている。というかバーまでの道を歩きながら今日はアレかな、などと考えている。結局、いつもと違うものを頼むと逆に驚かれるくらいにはいつも同じものを頼んでいた。

 まあ、今日は空いているし、少しくらいは長居して売上に貢献してもいいだろう。そんなことを言い訳に、今夜は何時くらいに帰宅できるかどうかを考え始めていた。




 ――もう少ししたらここを出て、行くべき場所に行こう。でもせめて、このグラスを空にするまではここにいてもいいかなとも思う。誰かを待たせているわけでもなし、時間が迫っているわけでもない。

 誰かに催促をされたわけでもなく、藤崎綾香は胸の内に言い訳をつらつらと並べ立てていた。面倒な作業を先延ばしにしているだけだということは彼女自身よくわかっていた。

 ほんの十五分ほど前までは客は藤崎一人だったが、現在店内には藤崎以外に女性客が一人いる。おそらく常連なのだろう。顔にはくったくのない笑みを浮かべ、先ほどからバーテンダーと楽しそうに話している。

 その笑顔を見て、藤崎は一人機嫌を悪くしていた。

 もちろん、その苛立ちが一方的かつ自分勝手で、間違ったものだという認識も持ち合わせている。それが余計に苛立ちを強めていることまで理解しているから質が悪い。。 

「あの、どうかしましたか」

 何気なく問われたその声に、藤崎は驚ききょとんとした顔をして女性を見ていた。なぜ声をかけられたのかわからなかった。

 女性は藤崎の表情から戸惑いを理解したのか、申し訳なさそうに言葉を続けた。

「いえ、さっきからこちらを見ているようだったので。なんでかなって思って」

 そう言われ、女性を注視していたことに気付いた藤崎は軽く頭を下げて謝った。

「すみません。ちょっとぼうっとしていました」

「そうですか」

 女性は藤崎の謝罪にそれだけを答え、手元にあるコリンズグラスに口を付けた。カウンターに置かれた煙草を一本取り出し、火をつけるとまたバーテンダーとの会話に戻る。

 特に興味を持たれなかったことに藤崎は内心でほっとしていた。彼女にとって、一般人から興味を持たれることは都合の悪いことだった。今までの経験上、高い確率でお互い嫌な思いをすることにしか繋がらない。

 その藤崎を見て、バーテンダーが意地悪くにやりと笑った。からかうような笑みに藤崎も鼻で笑って返す。

 藤崎は自分の目の前に置かれたショットグラスの中に入っていた琥珀色の液体を飲み込んだ。これでグラスは空になった。

「お会計、お願い」

 さして大きくもない藤崎の声をバーテンダーはしっかり聞き取っていた。彼ははい、と事務的に答え、伝票を持ってレジに歩み寄る。登録音が、店内に響く。

 藤崎はその動きを見ながら、ぼんやりと指向性のない考えを巡らせていた。

「どうしたの?」

 近寄ってきたバーテンダーの問いかけに、

「いや、結局こういうことをしているんだなって思ってさ」

「こういうことって?」

「対象に色々と印をつけて、時期が来たら処理をする。私も誰かにとっては一つの伝票でしかない」

「うーん、気取りすぎだね。千八百円」

 いつもながら、楽なやり取りだなと藤崎は思った。足元に置いたバッグから財布を取り出し、中身を確認するとちょうどある。代金を手渡すと藤崎は立ち上がった。

「はい、ちょうど頂戴します。気を付けてね」

 藤崎は小さく頷くと、ふと横を向き、先ほどの女性と視線を交わらせた。軽く会釈をし、背を向ける。

 店を一歩出ると吹き付ける風の冷たさに思わず首を縮こまらせる。昼間とは寒暖の差がありすぎる。歩き始めた藤崎は、マフラーをしてこれば良かったと後悔していた。

「気をつけて、か……せいぜい気をつけるさ」

 道を歩く藤崎の視界には千鳥足の酔っ払いや客引きに励むお水の方々が多く映っていた。この辺りは駅から少し離れている。終電の時間を過ぎた今、真っ当な人間はこんなところを歩いてはいない。終電を逃した人を捕まえようと、道沿いにはぽつりぽつりとタクシーが停車している。

 藤崎自身、寒さに震えながら歩いている自分をまともだと思うことはない。「まともな生活」に憧れを持つことはあっても、それを手に入れることは二度とないとわかっているから。

 それでも、今となってもたまに夢を見ることがある。平和で幸せな生活を送るという夢を見る。だが、いくら夢想したところでそんな夢は叶わない。叶わないことを願い続けるのは、非常に疲れることだと藤崎は思っていた。

 そんな夢を見るから、何も知らずに生きている幸せそうな人々を見るとイライラする。彼らの何が悪いということはない。彼らは何も悪くない。感情の由来は、幸せに対する妬みでしかない。それを理解しているから藤崎は余計に苦しみ、目を細め唇を噛み締める。

 自分には決して手に入れることができないものを持つ人々に対して、憎しみにも似た感情を抱くようになったのはいつからだろう。藤崎が守りたいと思っていたのは、たった一人だけだった。彼を守るために、藤崎の日常は消し飛んだ。

 いくら考えても意味はない。胸が苦しくなり、時間を無駄にするだけだ。藤崎がやるべきことはいつだって変わらない。

 藤崎はいつも目的地に向かって歩き続け、いつも目的地にたどり着く。

 築何年だかわからないが、ずいぶんと汚れたビルだ。地下に続く細い階段の先に今夜の目標がいる。カーキのトレンチコートのポケットに両手を突っ込んだ藤崎は白い息を吐く。

「さっさと終わらせて、早く帰ろう。家に着いたらゆっくりお風呂に入って、眠ろう。それで今日の私は終わり」

 それだけを考えて、藤崎は両手をポケットから出し、薄暗い階段を一段一段下りていく。

 その先に待っているのは、彼女の存在意義と同義だった。




「うう……」

 うめき声を上げて目覚めた水城優介は特に意識することもなくベッドサイドのデジタル時計の表示を見た。時計の表示は昼の十二時過ぎを示している。

 昨夜は珍しくよく眠れた、と言えば聞こえは悪くないが、この場合はどう考えても寝坊だろう。寝過ぎたせいか、どうも身体の調子がよくない。喉がひどく渇いているし、頭痛もしている。二日酔いだろうか。

 ぼんやりとした意識の中、水城は昨夜の行動を思い返してみる。昨日は久々に仕事を早く上がって、行きつけのバーに向かった。初めは一人で飲んでいたけれど、一時間くらいすると顔なじみの常連客が訪れ、あっという間に四杯目が終わっていた。おそらく、そのときはまだ零時前だった。時間を考えれば終電はまだ動いていたはずだが、ちゃんと終電に乗って帰ってきたかはわからない。

 終電を逃しているときは、今までの経験上ろくなことがない。だいたい、まともな思考をしているのであれば、終電を逃して手痛い出費のかかるタクシーでいいやとは思わないはずなのだ。翌日は財布の中身が空になっていることが多く、記憶もない。ただただ飲みすぎたと後悔するだけだ。しかし、その後悔もいつしか薄れていく。

「まあ……いいか」

 いくら考えてみても記憶がないのだから行動を追うことができない。水城はそれ以上考えることを諦めた。考えてもどうぜわからないことなら、昨日に関してはすっぱりと切り捨ててしまった方がいい。

 部屋の中はほどほどに散らかっている。せっかくの休日、せめて掃除と溜まった洗濯物を片付けてしまいたい。

「よっ、と」

 ベッドから立ち上がった水城は不快感と眠気を少しでも払うため、リビングにある小さな冷蔵庫からペットボトルを取り出した。中身はただの水道水。それでもちゃんと冷やしておけばそれなりにおいしく飲める。

 床に脱ぎ捨ててあったカッターシャツを洗濯機の中に投げ入れ、次いでアンダーシャツを脱ぎ、同じように洗濯機に入れようとしたところで違和感に気づいた水城は動作を止めた。

 シャツの一部が赤黒い。広げてみると、右わき腹に触れていた辺りだ。それは掌ほどの範囲に広がっており、固まった血液のように思われた。 

 見慣れない汚物に思考が止まり、すっと頭が冷えていく。

「なんだこれ……血、か?」

 混乱が深まるとともに一層強くなった吐き気を堪えつつ、水城は慌てて自分のわき腹を確認した。特に傷はないように見えるが、軽く押さえると少し痛みがあるように感じた。しかし痛みの大きさとシャツに付いている血の量が結びつかない。これだけの出血があって、翌日こんなぴんぴんしていられるはずがない。

 いくら考えてみても、何故こんなものが付いているのか思い出せない。原因がわからない。

 ただただ、気味の悪い異物を目につかない場所に遠ざけようという意識だけが働いて、水城は血の付いたシャツを可燃のゴミ袋に放り込んだ。

「何があったってんだ……」

 水城は状況を理解するよりも、まずは落ち着くまで何も考えないことを選んだ。残念ながら現実逃避とも言うかもしれないが、精神衛生上悪くない方針だという気はしていた。

 歯を磨き、熱いシャワーを浴び、頭も洗う。冷えた身体を温めていく水流にだけ意識を向ける。

 身体に温かさが戻ってくると、先程の異常について再度考えてみようかという気にもなった。正直もうこれっぽっちも考えたくはないけれど、放置というわけにもいかないだろう。

 昨夜何かがあったことは間違いない。そのままなかったことにしたいというのが水城の本音ではあったが、それでさらに状況が悪化するのはまずい。それは流れが悪すぎる。

 現状分析も何もない。記憶がないために今のところ原因は完全に不明。しかし、血を見るような事態があったのは間違いない。ただ、そうだとして外傷がないという点は大きな疑問だ。下着のあの位置に血が付いているのに自分に傷がないというのはおかしい。

 水城は一人唸りながら思考を深めていた。

 ――とすると、他人の血なのだろうか。カッターシャツに同じように血が付いていなかったということは、出血があった際、僕はカッターシャツを着ていない。上だけ他の何かに着替えたのか。ずっと着ていて自宅で寝る前に脱いだなら血が付着しているはずだ。

 いくら考えてみたところで答えは出なかった。水城の中ではっきりしていたのは、昨夜池袋のバーにいたこと。まだ終電がある時間帯に四杯目のグラスを空け、記憶をとばしたこと。その後、記憶のない空白の数時間に何かがあったこと。誰かの血が水城のわき腹にべったりとついた。それだけがわかっていた。


 洗濯を終えた水城は推理を放棄し、街をぶらついていた。元々誰かとの予定がなかったのが救いだ。本来であれば勉強もしなければいけないのだが、今日は家にいても集中できるわけがないと判断した。

 街には大量の人が溢れ、様々な音がひっきりなしに響いていた。しかし水城はイヤホンから流れる大音量に外界を遮断させていた。彼は一人で街を歩くとき、いつもこうする。数え切れない人の中に、自分を埋没させる。自分でもあまりいい趣味だとは思っていなかった。

 なんとなく無印に入って商品を眺め、ゆっくり店内を一周すると何も買わずに外に出た。そのまま向かいのファッションビルに入り、地下のフランフランを同じように一周し、その後はそのビルの上にあるジュンク堂に向かった。

 水城は本が好きだった。ここ最近は店頭で目に付いたビジネス書を買うことが多いが、読んだ分だけ何か身についているかと聞かれるとなんとも答えづらい。読むことに満足しているようなものだった。きっと内容は身についていない。水城はフロアをぐるぐると何周もしたあげく、新刊のコーナーにあった小説を一冊、ビジネス書を二冊、漫画を一冊買って外に出た。

 携帯を取り出して時間を確認すると、もう家を出てから二時間半以上たっていた。少し歩き疲れてきたところだった。ゆっくり休むなら慣れたところがいい。通りを一本越え、青い背景にコーヒーカップが描かれた、とても見慣れた看板のチェーン店に入った。

 開いた自動ドアから店内に入っても挨拶がない。カウンターのスタッフ二人は水城に気づかず、楽しげに話をしている。水城がレジの前に立つと、ようやく一人が気付いて寄ってきた。

 遅いよ、と文句を言いたい水城だったが、部外者は関係無いしなと複雑な気持ちになっていた。

「いらっしゃいませ、店内でお召しあがりですか」

 水城にとっては聞きなれた台詞だ。何万回言ったろう。はいと答え、アイスコーヒーを注文する。

「はい、かしこまりました」

 女性はラックからグラスを取り出し、氷を入れ、ディスペンサーからアイスコーヒーをつぐ。水城はなんとなくマニュアルをなぞっているような気になっている自分に苦笑した。細かい言葉や数字は忘れたとしても、一度身についた動きを完全に忘れることはきっと一生ないのだろう。

 お待たせしましたーという声と一緒に差し出されたグラスとトレイを受け取り、二巻きの螺旋階段を上がっていく。喫煙席入口のハイテーブルに置いてある、ところどころに汚れがこびりついた長方形の白い灰皿をトレイにのせ、適当な席に座る。

 コーヒーに口をつける前に、まずは煙草に火をつける。火の点いた煙草を口にくわえてゆったり息を吸い込むと、煙草の煙が肺に広がっていくのがよくわかる。水城の場合、煙草美味いなと思うのは基本的に一口目が最高潮であり、だんだんその度合いは下がっていき、やがて煙草不味いなとなる。だからと言ってやめることもない。

 見回してみると、店内の客層は比較的若い年代が多い。時間帯によってどうなるかはわからないが、おそらく場所柄だろうと水城は考えた。

 すぐに一本を吸い終わる。友人に言わせると、水城は一本を終えるのが早いらしい。水城にもその自覚はあったが、だからと言って一本をゆっくり時間をかけて吸おうとも思わない。単にそういう吸い方なだけだ。粗末にしているわけでもない。

「こんな時間に珍しいな」

 水城が声がした方を見ると、三十歳くらいの長身でがっちりした体つきの男性が立っていた。記憶を探ってみても水城には見覚えがない。誰だ、と疑問をそのまま怪訝な表情に表している水城を見て、男はすぐに気まずそうな顔をして言った。

「すまない、人違いだった」

 男の謝罪に、水城は眉をひそめた。正面から声をかけておいて人違いだなんて、普通に考えたらちょっとおかしな話だろう。そんなことがあるものだろうか。それに、ひっかかる言い方だった。

 水城がひっかかったのは、「こんな時間」に彼が水城を見るのが珍しいということだった。つまり「こんな時間」でなければ彼と会うことは不思議なことではないということだ。そもそも水城には相手の男性に見覚えがない。

 時刻はまだ十六時を過ぎたあたりだ。この時間は珍しい。ではいつなら珍しくないのかを水城は考えた。朝だろうか? いや、朝はここ最近誰とも会っていない。昼間店にやってきたことのあるお客様でもない、こんな時間でもない。とすれば、残るのは夜。しかもおそらく、深い時間だ。具体的には、例えば、記憶が途切れているような時間、とか。

 起き抜けに血を見てから神経質になりすぎだろうかとも思った。しかし、血を見るなどというのは非常事態だ。神経を使って使いすぎということはないはずだった。

 水城の口から出た言葉は単純な疑問だった。

「あなたは、誰ですか」

 男は問い掛けには答えず、すまなかったとだけ言って背を向けた。

 すぐに立ち上がって追いかければ捕まえられただろう。だが空白の時間に繋がるヒントを前にしてなぜか水城は動くことができず、ただただ男の消えていった方を睨み付けていた。




 ポケットの中で携帯が震えた。

 藤崎は振動からメールだろうと思って携帯を開き、配信されたメッセージの内容に思わず舌打ちをした。件名はなく、本文には簡潔に「お前は誰だ」とだけ書かれている。発信元は今藤崎が手に持っている携帯電話だ。

 おそらく昼間のうちに優介が予約送信をして送ったのだろうと見当をつける。

 藤崎は額に手を当て大きな溜息をついた。血のついたシャツをそのままにするなんて、ひどいミスをしたものだと我ながら思う。あんなもの、わざわざ家に持ち帰らずどこに捨ててきても良かったのに。

 もっとも、今となってはどれだけ後悔しても意味はない。この先少しくらい何かを取り繕ったところで、取り返すことはできない失敗だ。

 ――優介の性格を考えれば、あんなことがあれば警戒するのは目に見えていた。自明だ、考えるまでもなくわかっていた。それが、あの夜は消耗しきっていて何も思考できなかった。

 結果返ってきたのは想像していたものよりむしろ、よほど冷静な反応だった。それが状況のまずさを強調している。

 どう甘く見当をつけてみても、あの晩負った右脇腹の傷は決して浅いものではなかった。

 表面上は傷をふさいで何もなかったかのようにすることはできても、失った血液までは戻らない。本来の体力の回復が出来るわけもなく、意識を保って家にたどり着くのが精一杯だった。

 このところは敵の動きが以前に比べ活発になってきているように思う。先日のような相手が増えてくることが予想されるが、その場合無傷で帰還することはまず不可能に近い。

 だいたい、ここまで頻繁に私が動いていることが通常では有り得ない。

 現状がこれだけまずい事態になっている中で、このまま二重に時を過ごしていたのでは取り返しのつかないことになる。夜中の数時間だけではあまりにも足りない。そもそも、私が出ていないときに不意に襲われたのでは何の対応もできない。

 優介には悪いが、状況が落ち着くまではしばらく眠ってもらうしかないのかもしれない。

 他の選択肢が都合よく浮かべばいい。しかし、現状考えられる案の中で最も有効なものは、優介の自由を奪うこと。そして彼が気付かないうちに私が問題を解決すること。

。元々優介は全く関係のない人間で、私と関わらなければこんな非日常に巻き込まれることはなかった。そんなことを考えるくらいで何かの償いになるなんて、思いはしないけど。彼を危険に巻き込んでいるのは、私の一方的な勝手だ。

 優介はちょうど明日から一週間の休暇だ。タイミングとしては今しかない。せっかくの休みを奪うのは申し訳ないと思う。色々と計画もあったろう。それでも、命には代えられない。

 私は、どうしても優介を死なせたくない。どんなに恨まれようが、恐れられようが構わない。優介が生きていてくれるなら。

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