桜の雫
「梨香、俺たちもうすぐ卒業だろ? そしたらさ、お前のワイナリーで働かせてくれないか?」
予想していなかったのか、梨香の瞳が驚きに揺れる。
彼女の実家は甲州ワイナリーという規模は小さいが良質のワインを生産している。梨香はこの大学で醸造・酵母について学び、卒業後は山梨に戻ることになっている。
一方の俺はワインとは無縁の経営・コンサルティング専攻。体質のせいでアルコールを受け付けないので、ワインどころかビールすら飲めない。梨香とは、懇意にしている教授から相談に乗って欲しいと紹介されたのがきっかけだった。当時の甲州ワイナリーはちょっとした経営難に陥っていて、学生ながらすでに企業再建の実績を重ねていた俺に白羽の矢が立ったのだ。
ワインにも興味は無かったし、最初はあまり乗り気ではなかったのだが、彼女のワインにたいする情熱にすっかりあてられてしまった。幸いなことに甲州ワイナリーのワインは申し分ない品質で数々の賞にも輝いており、徹底的な市場調査、購買層のデータ分析、原価計算の改善、SNSや海外向けのマーケティング戦略など、いわば正攻法で十分経営再建は可能だった。現在は黒字転換しており、毎年の売り上げも過去最高を更新している。
『お酒が飲めない貴方が美味しいと思ってくれるなら、世界中のお酒が飲めない人にも、ワインの素晴らしさを届けられると思うの』
梨香のアイデアから生まれたノンアルコールワインは、本物のワインからアルコールだけを抜く特殊な製法で作られたものだ。グラスに注がれたそれは、ソメイヨシノの花びらをそのまま溶かし込んだような、淡く切ない桜色をしていた。
『……美味しいな』
口に含むと、イチゴやチェリーを思わせる甘酸っぱい香りが、鼻腔を優しく抜けてゆく。
春の光を浴びてきらめく桜色のグラデーションは飲んでしまうのが惜しいと感じるほどで、夢のように儚くて美しい。お酒を飲めない俺が、まさか誰かとグラスを合わせる日が来るなんて思いもしなかった。
『このロゼ、桜の雫っていうのよ』
そう言って嬉しそうに微笑む梨香の横顔は、夕暮れの黄昏時のせいだろうか、それとも優しく髪を薙ぐ涼風のせいだろうか、あれほど美しいと思ったロゼよりも魅力的で綺麗だと思ってしまったのだ。
あの日、彼女と彼女の夢の結晶に心奪われた時、答えは出ていたのかもしれない。
「ちょっと海、聞いてるの? 何考えてるのよ!!」
一緒に山梨に行くと言えばもう少し喜んでもらえると思っていたのだが――――梨香の反応は予想と違っていた。だがそれも無理はないのかもしれない、年収数千万の世界最高峰企業からのオファーを断って、小さなワイナリーに行くなど、たしかに普通なら正気を疑われるだろう。実際、オファーを辞退すると言ったら教授や周囲の人々に全力で考え直すように説得されたくらいだから。
「海も知ってるでしょ? お給料だってそんなに払えないし、私は良いところだと思うけど東京育ちの貴方にとっては何も無い退屈な場所よ」
「そんなことないさ、梨香とお前の作ったワイン、それだけで十分だ。それに……どんな好条件であったとしても、梨香と歩む人生に比べたら色褪せて見えるからな」
大きく見開かれた梨香の瞳が呆れと困惑の色に染まり、初春の陽射しが差し込む教室で彼女はその頬を桜色のロゼみたいに染めていた。
「……本気なのね」
「ああ、前に言っていただろ、山梨には海が無くて残念だって。だから俺が行けば解決だ」
会心のギャグだと思ったのだが、梨香はニコリともしない。なぜだ……!?
「……もしかして、迷惑だったか?」
力になれる自信があった、だが……冷静になれば向こうにだって都合もあるし、もっと早く相談すべきだったかもしれない。
「ううん、海が来てくれるのは本当に助かるし、頼もしいと思ってる。それに……その気持ちも嬉しいよ? でもさ――――順番がおかしいでしょ!?」
「……順番? なんの話だ」
梨香が呆れたように大きなため息をつく。
「私たち、まだ付き合ってもいないよね?」
なるほど……言われてみればたしかに。
「それじゃあ梨香、結婚を前提にお付き合いしてください」
「はあ……天才はどこか抜けてるって言うけど本当ね。もちろん良いけど、断られたらどうするつもりだったのよ?」
「その可能性は考えていなかったな……」
でも――――彼女が作る桜の雫を誰よりも早く飲めるのなら、それも案外悪くないかもしれない。そう思ってしまうほどに、俺は彼女と彼女が作るワインに心底酔いしれているのだろう。
「もう……本当に馬鹿なんだから……」
梨香の瞳からあふれた涙は、赤く染まった頬を映した桜の雫みたいにキラキラと輝いていた。俺はそっと彼女を抱き寄せるとその雫に唇を寄せた。
「一応成績はトップだけどな」
「……そういうところだよ」
ふわり、咲き誇る満開の桜みたいに梨香が笑う。怒ったり、泣いたり、笑ったり、くるくると変わるその表情をいつまでも見ていたいと思う。
もうすぐ桜の季節がやってくる。今まで花見なんて興味なかったけれど、桜を肴に彼女と飲むノンアルコールワインはきっと格別に違いない。
柄にもなくそんなことを考えてしまった。




