後編
――リュー君。目を覚ましてください。
誰の声だろう、と彼は思った。……呼ばれているのは、どうやら自分らしい。
いつまでも聴いていたい、愛しい声。
誰だ、などととんでもない。この声は、世界中の誰よりも大切で、彼がこれから生涯をかけて守ると決めた人の声だ。
彼は、すぐに目を開けた。
「――おはようございます、メグさん」
愛する女性の、安堵の笑顔が目の前にあった。
「今日はお昼寝をなさらなかったから、急に眠気に襲われたのでしょうか?」
おっとりとした様子でメグがそう尋ねた。緊張感があまりないのは、今もそこに佇むゴリラの霊に、悪意も攻撃性も感じなかったからだろう。
「あの子は悪い子ではありませんね。リュー君のことを心配そうに見ていましたよ」
ゴリラを見たメグがそう言い、同意するように火焔狐も尾を振った。
火焔狐が地面から突き出たゴリラの手をメグから隠すように立ってくれたのは幸いだった、とリューは思った。職務柄、ある程度は仕方ないとはいえ、メグにあまり無残な光景は見せたくない。
リューは改めてゴリラの霊を見た。やはり、悲しげな顔。そして、リューが目覚めたことに少しほっとしているようでもあった。
リューは直感した。
……これまで彼が見ていたのは、夢ではない。あのゴリラの幼獣の生前の記憶なのだ、と。
「メグさん。信じて頂けないかもしれませんが、実は――」
リューは、メグに説明した。
「たった今まで、私自身があの大猩々となり、その生涯を追体験していたのです」
彼は手短に語った。密林に棲むゴリラの群れの中、物知りな母や優しい父に愛され、群れの子どもたちと遊ぶ、穏やかで幸せな日々を送ったこと。ある日、銃を持った人間たちが現れて密林に火を付け、群れの成獣を全て銃殺すると、幼獣たちを全て捕らえて、劣悪な船室に閉じ込めて輸送したこと。恐怖と悲しみに加えてネズミの襲撃や船酔いに苦しみ、群れの幼獣は上陸前に一頭を残して全滅したこと。死亡した幼獣たちの亡骸は、海に投棄されたらしいこと。
「その後、見世物にされましたが、酷い扱いでした。そのためでしょうか、感冒に罹って息絶えた後、この公園に遺棄されたようです」
メグはリューの話を信じ、真剣に耳を傾けてくれた。
「数こそ少ないですが、死者の記憶を追体験する方のお話は、聞いたことがあります。リュー君もそうだったのですね」
「それにしても、ユージーン小隊長と皆さんはどうされたのでしょうか?」
やっと周囲を見回す余裕の出来たリューは、自分たちがメグの張った魔法障壁の中心近くにいることに気付いた。
メグが顔を曇らせた。
「小妖精たちが木々から聞いたところによれば、あの子は剥き出しの鎌の刃が首に当てられた状態で埋められているのだそうです。それをお聞きになったユージーン小隊長が、妙に手慣れているから他にも罪を重ねているかもしれない、と仰って……」
ユージーン小隊長の小妖精が、女性と思しき白骨死体を発見したのは、それから数分後。その首元にも、やはり鎌の刃が当てられていた。
ユージーン小隊長によれば、それは悪霊が死体に取り憑くことがないように施される、とある小国の呪術だということだった。勿論、そのような術の使い手は、かなり珍しい。特定は難しくないだろう、というのが、このベテランの小隊長の見立てだった。
* *
女性の白骨死体を棺に収めるまで発見場所に魔法障壁を張ってほしいと頼まれたメグは、この場に張った魔法障壁の維持をリューに任せ、ユージーン小隊長に付いて行った。
残されたリューは、ゴリラの霊に語りかけた。
「君を酷い目に遭わせた人間には、重い報いを受けさせることが出来そうだよ」
けれども、リューにはわかっていた。幼いゴリラが自分を虐待した人間の処罰など望んではいないことも、少しでも早く故郷の両親の元に帰ることだけを願っていることも。
彼は、幼いゴリラに出来る限り優しく言い聞かせた。
「この新大陸から君の故郷の古大陸までは、遠く離れているんだ。だから、長く時間がかかるかもしれない。それでも、約束する。必ず君を故郷に送ると」
その時、リューの肩に僅かな重みがかかった。
「いや、猫型妖精に依頼すれば、確実かつ迅速に古大陸まで送り届けてもらえるぞ」
リューの肩に乗ってそう言ったのは、ハワード卿の使い魔で、愛らしいコマドリの姿をしたロビンだった。
「だからその前にさ、あのゴリラの子どもの霊を、きちんと弔ってやろうぜ。」
「……そうでしたね。それでは、始めましょうか」
リューは、幼いゴリラの霊のために、安らぎと浄化の歌を歌い始めた。
* *
その夜。リューは寮の自室で、机上に置いた小説を苦い思いで眺めた。
本当に野蛮で残酷なのは、ゴリラではなく人間の方だったではないか、と。
人間の中には、ぞっとするほど冷酷な父親もいるのだということを、彼は身を以て知っていた。もしあのゴリラの父親のような優しく頼もしい父親の元に生まれていたら、きっと温かくて幸せな子ども時代を送ることが出来ただろうに。
「……それでも、どのような父親であれば幼い子どもを幸せに出来るのか、今回の任務で体験出来ただけでもありがたいことですよね」
彼はそう自分に言い聞かせ、それから再び祈った。
船の中で命を落とし、海に捨てられたゴリラの子どもたちの魂が、海の王マナナン・マクリルの波と風に乗せられて、無事に故郷に辿り着いていますように。そして今日彼が浄化し、猫型妖精に託したゴリラの子どもの魂が、両親の魂と共に、穏やかな眠りに就いていますように、と。
* *
ゴリラの保護と正しい知識の普及を訴える研究者の元に、匿名で大金が届けられたのは、それから半年後のこと。
ゴリラをはじめとする古大陸の希少生物の密猟と違法な売買によって利益を得ていた、連合帝国のとある貴族が再起不能なほどに没落したのと、ちょうど同じ頃だった。
動物を見世物としていたとある悪質な興行主と、その興行主に動物を売っていた悪質な業者が、人間の死体遺棄容疑で警察に逮捕されたのは、それよりも三ヶ月前のことだ。
しかし、彼らは裁判を受けることさえ出来なかった。
何故なら、彼らは食事の度に「食べ物ではないものばかりが皿に載っている」「ネズミの群れが襲ってくる」と牢内で訴え続けたからだ。結局、彼らは懲役刑こそ免れたものの、悪名高きアンバーコーブの病院に永久入院になったというのだが、この話は蛇足だろうか。




