前編
※清坂 正吾様主催、「ゴリラパーティ」参加作品です。
――為什麼?
墨汁を塗ったような掌。細かい作業には向かない短い親指。漆黒の剛毛に覆われた身体……。
変わり果てた自分自身の姿に、彼はしばし茫然としていた。
* *
隣国の四十八州連合共和国、通称「州連合」では、ゴリラが登場する演劇や映画が好評を博しているらしい。
昼過ぎ、北部連邦にある聖騎士団本部の控え室。
聖騎士団の最年少守護者たる柳儀、通称リューは、日課の午睡も忘れて、大人気映画の原案だという小説を読み終え、首を傾げた。
(前に、大猩々は群れで生きる動物だと聞いたことがある。もし大猩々が本当にこの小説に登場する通りの凶暴な動物だとしたら、果たして何年もの間、群れで生活し続けることなど出来るのだろうか……?)
とはいえ、その小説の内容自体はそれなりに面白かったし、挿し絵も悪くなかった。殊にゴリラの姿が非常に逞しくて見るからに強そうに描かれていたので、リューは大いに気に入った。
(私も大猩々のように肉体的に恵まれていたらなぁ……)
ついそう思ってしまうのは、彼が小柄で華奢な身体つきと美少女と見紛う顔立ちのために、日頃から、良からぬ男たちに声をかけられることが多いせいかもしれない。
夕方。窓からはまだ明るい日差しが差し込む廊下を歩いていると、コマドリ姿の使い魔ロビンが肩に止まった。
「リュー、ハワードが呼んでる。急ぎの任務だよ」
「すぐに参ります」
リューは本部の奥へと踵を返し、早足で聖騎士団長ハワード卿の執務室に向かった。
「二級守護者イー・リュー、お呼びと伺い参りました」
リューが入室すると、ハワード卿は少し難しい顔をしていた。
「つい先程、アーケイディア南部のサイリーン公園でヴァンパイアの手が地面から突き出ていると通報があった。すまないが、これからメグと共に出動準備を済ませ、ユージーン小隊に同行してほしい」
「かしこまりました」
リューの心が浮き立った。正式入団してまだ一年にもならない彼にとって、ヴァンパイア討伐の任務は初めてだ。
聖騎士団における守護者の役割は、簡単にいえば後衛及び後方支援、そして任務終了後の浄化だ。かつては「聖女」と呼ばれていた役職だが、現在はリューのように男性もいるので「守護者」という。
守護者のヴァンパイア討伐における最初の仕事は、軽食の用意と決まっている。
リューと同い年で一級守護者のメグが、薄荷キャンディーと昼に焼いておいたラベンダー入りショートブレッドと、それから今作ったばかりの、鶏の特製オイル漬けのサンドイッチをそれぞれ一人分ずつホイル紙に包んだ。
勿論、全員分の飲み物を用意することも忘れない。リューが金属製の水筒にハーブティーを入れ、移動中の車の中でも安心して飲めるよう、流水で適温に冷ました。
一見、二人のしていることはピクニックの準備そのものだ。しかし、これは万が一団員が戦闘中に死亡した時に、その遺体をヴァンパイアにしないために不可欠な準備だ。ヴァンパイアがいる場所には、器を求める悪霊が多く引き寄せられる。そのような悪霊が聖騎士団員の遺体に憑依してしまえば、中級以上の強力なヴァンパイアが誕生してしまう。
だから、戦闘前に悪霊の嫌う素材を使った軽食を摂らせることで、憑依を防ぐのだ。
「皆さんが車から降りる前には、サンドイッチとショートブレッドをきちんと食べ終わったか確認しましょう。以前のヴァンパイア討伐では、守護者が用意した軽食を『口に合わない』という理由で拒否した騎士がヴァンパイア化したケースがありました。今回の任務でそのようなことがあってはいけませんから」
メグの言葉に、リューは頷いた。
「承知しました。ユージーン小隊には、メグさんの手作りを拒む不届き者はいないでしょうが、うっかり食べ損ねることもあり得ますからね」
二人は念のため、出来上がった全てのサンドイッチにもう一度破魔の力を込めた。
ユージーン小隊と共にガソリン式大型輸送車に揺られている途中、リューとメグは、ユージーン小隊長から、こんな話を聞いた。
「三年前にも『ヴァンパイアの指が地面から何本も突き出している』という通報があったのですよ。すわ、と駆けつけてみれば、単なるマメザヤタケ(キノコの一種)の群生地だったということがありました。今回もそうだと良いのですがね」
「マメザヤタケは、見た目が本当にヴァンパイアの指に似ていますものね」
メグが大真面目に相槌を打った。
* *
――そうだ。あの時、確かに私も車内で悪霊避けの軽食を摂った。だから、悪霊に憑かれたわけではないはずだ。
* *
サイリーン公園は、アーケイディア南部の市街地の中心にありながら、樹木が鬱蒼と生い茂る公園だった。そこに足を踏み入れる前にユージーン小隊長が手を組み、切実そうな表情で祈った。
「どうか、マメザヤタケでありますように」
けれども、その祈りは届かなかった。
突然、リューの使い魔の火焔狐が主人の影から飛び出し、奥に向かって一目散に駆け出した。リューは慌ててその後を追いかけ、公園の最奥、誰も来ないであろう場所で見つけてしまったのだ。
地面から突き出た、真っ黒な五本の指を。
それは決して、マメザヤタケなどではなかった。
何故なら、その場に指の持ち主と思われるモノが蹲っていたからだ。黒い毛に覆われた、大型の猿の仲間と思しき霊が。
(黒猩々か、それとも大猩々の妖獣……?)
やがて、リューの気配に気付いたのか、その大型の猿のような霊が徐おもむろに顔を上げた。あの小説の挿し絵によく似た黒い顔。それは間違いなくゴリラだった。
ゴリラの霊に攻撃的な様子はなかった。ただ、何かを訴えかけるような、悲しげな眼差しでリューを見つめた。だが、幾ら聖騎士団の中では頭脳明晰だと評されるリューであっても、流石にヒトではない相手の言葉までは理解出来なかった。
(何を伝えたいのか、少しでも分かってやれたら良いのだけれど……)
彼はそのゴリラの霊に向かって静かに歩み寄り――気付けば、自分自身が一頭のゴリラになっていたのだ。




