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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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名前を忘れた森のお兄ちゃんと薬師

作者: 綾見ゆりあ
掲載日:2026/06/20

父さんと母さんは村で唯一の薬師だった。

5年前、旅人が持ち込んだ流行病が村を飲み込むまでは。

最初に母が倒れた。

必死に看病と薬の調合を繰り返した父も、その激務の疲労に隙をつかれたかのように、あっという間に同じ病になった。


「フィラ、ごめんな。」

そういってフィラの手を握る父の力が弱まっていった。

まだ子どもだった私は、ただ泣くしかできなかった。

そこからは、まだ幼い弟のルカと2人きりだ。


もっと小さかった頃は、両親に手を引かれ、森へ行くのが大好きだった。

木漏れ日の中で教えてもらった薬草の見分け方は、私にとって知識以上に幸せの塊だった。

けれど今は違う。森は静まり返り、薄暗く、何が潜んでいるか分からない恐怖の場所だ。


「お姉ちゃん、この葉っぱであってる?」

「ん?あ~ 惜しい!もうちょっとシュッとしてる葉だよ」

「え~絶対これだと思ったのに!」

「だよね~。私もルカくらいの時はどれも同じじゃん!ってママに怒ってたわ。でも、すぐわかるようになるから、諦めずに探そう?」


唇を尖らせながら、それでも探す手を止めないルカに、胸がざわつく。

私は母さんや父さんの記憶があるけど、幼かったルカは覚えているかも分からない。

当時は2人が死んだことを理解していなかったと思う。

でもいつの間にか理解し、私を手伝ってくれている。


小さい頃の記憶や、母さんが書き残してくれたレシピを頼りに、何よりルカと生きていくために、私たちは小さな薬師になった。


森にルカの明るい声が響くと、薄暗かった森に木漏れ日が差すような気持ちになっていく。





いつものコースで歩きながら、順調に薬草を採取していくと、先を歩いていたルカが慌てて走りだした。危ないと注意しようと視線を上げると、遠くに人が倒れているのが見えた。

ルカはその人に向かって走って行っているようだ。

フィラも慌てて近づく。


倒れていたのは、白いシャツと黒いシンプルなボトムスの男性だった。

ただ、靴は履いていないし、服は全身泥と血で汚れ、所々破けてもいて酷い状態だった。


「ルカ、触らないで。・・・毒があったら危険だから、離れていてね。」

「うん。」


そう言って男性の元に一人で近づく。

普段病人や、仕事でケガをした人もたくさん見てきているけど、近くで見れば、この人のケガはそういったものとは違うことがよく分かって、息をのむ。

本人の意志で森へ来たとは思えない。



(・・・故意に、痛めつけられた?)


必死に裸足で走ったのか、足の裏も傷だらけだ。走っていて、木の根に躓いたのかもしれない。

体力が限界だったのか、転んだままのうつ伏せで倒れている背中には、ムチを振るわれたかのような、幾重にも重なる傷が破けたシャツの隙間から確認できる。


ゆっくり観察していると、かすかに背中が動いていて、まだ息があることが分かった。

毒の所見は無いと見て、さらに近づいて男性の肩を叩いて起こしてみるが反応がない。


この人を助けることは、この人を追ってくるかもしれない人がいるかもと思えば、私たちにとって危険かもしれない。

でも、薬師として見殺しにするなんてことはできない。


「ルカ、家に連れて帰って治療しよう」


迷いも一瞬で消え、振り返って言うと、ルカも力強く頷いてくれた。




それからは必死に男性を家まで運んだ。

力のないフィラや、まだ子どものルカと2人では引きずって運ぶしかないが、その振動はきっと痛いだろうと思うと申し訳なさもあった。


村が見えてくると、ルカが先に走って、近所の人に頼んで運んでもらった。


薬草採取も終盤で、山歩きの疲労も出てきたところに、さらに力を使って体はクタクタだったが、ベッドに寝かせると共にすぐに体を拭いたり、薬草を準備したりと2人は休むこともなく動き回った。


泥と血を拭い去るだけでも一苦労だったのだ。

ルカと二人で大汗をかき、ようやく傷の手当てが終わった頃には辺りは暗くなってすっかり夜になっていた。


「……お姉ちゃん、この人、死なないよね?」

小さな灯火の下で、ルカが不安げに尋ねてくる。

私はその小さな背中を抱きしめ、大丈夫だと自分にも言い聞かせるように、弟の髪を優しく撫でた。



男性を家に運んでから数日が過ぎた。

傷は順調に回復していたが、まだ目覚めずにいる。

そして、ルカと2人で寝ている姿勢を変えようしているときだった。

今までされるがままだった体に、抵抗のような力の入り方をしたのに気が付いた。


「・・・だ・・れ?」

「目覚めたのですね!私たちは薬師です。

私が姉のフィラ、こっちが弟のルカです。

森で倒れているところを見つけてこちらで治療しておりました。

目覚められて良かったです。今お水を持ってきますね」

そう言っていると、気がきくルカはすぐに水を取りに走ってくれた。


まだ体もきついから、目覚めたからといきなり沢山聞き出すのは良くないだろうと、一番気になっていたことだけを聞こうと思った。

「まだゆっくりお休みくださいね。でも、お名前だけ教えてもらってもよろしいですか?」

「私の、名前・・・・・・・・・・・・・思い出せない」


男性は、思い出そうと視線をあちこち彷徨わせたが、本当に思い出せなかったらしく、視線を伏せてしまう。


森で見つけた時、ボロボロの服を着ている以外に身元を示すようなものは何も無かった。

ただ、その服は破れてなお、上等なものであることは分かったので、

どこかの貴族か、良い家の方だろうという予想ができた。

探しているだろうご家族に早く知らせなければ、という想いだったが、それは上手くいかないようだ。


「目覚めたばかりですし、しかたありませんね。

まだ傷も塞がっていませんから動かないようにお願いします。

思い出したら教えてくださいね。ご家族に連絡をとってみます。」

そこまでいうと、お水を持って待機していたルカが出てきた。

「森のお兄ちゃん、お水持ってきたよ!」

「こらルカ!森のお兄ちゃんってなによ!」

「え~だって名前分かんないなら、森のお兄ちゃんじゃん!思い出すまでの間だけだよ~」





男性は姉弟のやり取りをただ黙って見ていた。

自分を陥れようという感じや嘘がない、平凡な姉弟のように見える。


家の中も草が吊り下げられたり、すり潰したりするような道具が見え、薬草だろう緑の匂いが充満している。

このベッドも客間というより治療用といった雰囲気だ。

姉のほうもまだまだ若そうに見えるが、本当に薬師の家なのだろうと思えた。


周囲に危険がないことが分かると、自分自身に意識が向く。

(自分は、誰だ?なんでこんな大けがをしている?なぜこんな場所にいるんだ?・・・)

何も思い出せないことに、本来なら焦るところを、深く考えないようにさせるのか、思考がモヤモヤしてきてまた眠りに落ちた。




最近のルカは楽しそうだ。

ベッドのそばで本を読んできかせたり、森で採ってきた花を花瓶にさして飾ったり、

一緒に散歩したりとお世話にクルクル動き回っている。

ルカにとって彼は、記憶がないことなど気にならない、ただの「森で出会ったお兄ちゃん」で、忙しい姉の代わりの遊び相手だった。


ある日の朝。

私は朝食の準備をしながらルカと彼のやり取りを聞いていた。

「ねえ、森のお兄ちゃん見て!森がすごく綺麗だよ!」


森のお兄ちゃん・・・。

私はふと手を止め、窓の外の森を見つめた。

いつもなら暗い森が、朝だけは日が当たって明るく見えるのだ。


シルヴァンは最近では歩く練習も初めて、食事も食べられている。

身体の回復は順調だ。

当初はケガのショックで思い出さないのかもと思っていたけど、言葉や基本的な生活に関する記憶はしっかりしていることから、自分に関する記憶だけがすっぽり抜けていることが分かった。


記憶喪失ーー。

頭部への打撃や強いショックによって記憶を失うことがあるというのは家にある本で発見した。

シルヴァンは、頭部のケガでそこまで酷いものは無かったと思う。

だとすれば、強いショックで記憶を失ってしまっているのではないか、というのがフィラの見立てだ。


全身にムチで打たれたような跡があったのだ。

あまりにも過酷な経験をしているのは間違いないのだから、それを忘れようとする脳の働きは何もおかしくない。


私は手を止め、彼の元へ歩み寄った。

「……あの、記憶が戻るのも時間がかかりそうですし、

いつまでも名前が無いのは不便なので、仮のお名前を付けてもいいですか?」


ベッドの上の彼は、少し驚いたように私を見上げた。


「森の言葉で、森そのものを指す言葉——『シルヴァン』。・・・そう名付けてもいいですか?」


彼は少しの間、その音を耳の中で反芻していた。

やがて、春の雪解けのような穏やかな笑みが、その顔に浮かぶ。


「シルヴァン……。ああ、いい響きだ。……ルカ、シルヴァンと呼んでくれるかな」


「うん! シルヴァン兄ちゃん!」

ルカが嬉しそうに笑った。


「シルヴァン」——。森を見ていて、急に思いついた名前だった。


「シルヴァンが帰るところを思い出すまで、ここでゆっくりしてくださいね。」

「ありがとう。申し訳ないけど、お言葉に甘えさせてもらうよ。

でも、私にできることがあるなら手伝わせてほしい。」


この人は本当に良いところのご子息なのだろうと思う。

自分を「私」と呼ぶところ、ルカと遊んでいても口調は丁寧で、指先はいつも揃っているし、仕草に粗雑さがないのだ。


「じゃあ!」

突然手をあげて立ち上がったルカに驚いて2人でルカを見つめると、宣言した。


「姉ちゃんの弟子は俺のが最初だから!俺が兄弟子だから!」


ビックリしてフィラが言葉を失っていると、シルヴァンが楽しそうに笑った。

「ふはっ。そうだね。フィラ師匠、ルカ先輩。ご指導のほど、よろしくお願いします。」

そう言って深々と頭を下げた。


「し、師匠なんてやめてください!」

「良いだろう、シルヴァン。俺も沢山教えてやるよ!」

「ルカ!調子乗りすぎ!」


「いえ、師匠。いいんです。こんなに良くして貰ったのに、私は対価を何もお渡しできないんです。

役に立てないかもしれないけど、せめて労働で払わせてほしい。

ルカ先輩、薬草のこと教えてくださいね」


「もちろん!薬草の見分けは難しいけど、しっかり覚えるように!」


つい最近も間違えて不貞腐れていたルカを思い出し、笑ってしまう。

3人での暮らしは楽しそうだ、と期待が膨らんだ。



◇◇◇



「ルカ先輩、乾燥終わったみたいです」

「よし、じゃぁ砕いてビンに詰めよう」

「はい」


兄弟子設定はそのままに、楽しそうな声が響いてきて、ついフィラの口角が上がってしまう。

今日はおばあちゃんが腰痛の薬を買いに来てくれて、フィラはそれに対応していた。


「かっこいい弟子が増えたね」とにやけられるのには困ったが、

「フィラ師匠、ルカ先輩」と呼んで笑顔で対応するシルヴァンに村人の警戒も早々に解けて驚いたのはつい最近だ。


そして何より、シルヴァンが手伝ってくれるようになって、作業効率は大幅に改善した。

背が高く、力もあるシルヴァンは、薬草を干すのも高いところにかけてくれて、数も沢山干せるようになった。

森へ行けば、最初は歩き方も不慣れだったけれど、一度に沢山の薬草を持って帰れるようになったし、蛇などが出ても追い払ってくれるので、逃げ回って折角採取した薬草を落とすことも無くなった。


また、ルカが見分けられない植物もすぐに覚えて、今ではフィラは森へ行くことが無くなり、薬の調合などに時間を割くことができるようになっていた。

ルカもシルヴァンに教えながらも、兄弟子の矜持を守るように頑張って、急激に成長したように思う。


こんな生活がずっと続けばいいのに、と思ってしまい、

(シルヴァンには本来の帰る場所があるんだ)

と静かに頭を振ってしまうことも増えた。






ある日の夕方、近所のおじさんが急いで家に入ってきた。

「フィラちゃん!騎士がきたよ。多分シルヴァンさんを探してるんじゃないかと思うんだけど、村長が対応してくれてる。」

「えっ?」


いつかくるかもしれないと思っていたけど、ついにシルヴァンを探す人が来てしまった。

しかも騎士なんて、と思う。

貴族か、どこか良い家の人だとは思っていたけれど、騎士が動くということは高貴な身分が確定したようなものだ。

お別れのときが迫っていると寂しい気持ちがわくが、まずはシルヴァンのことなのか確認する必要があると思い直して外に出ることにした。


「ルカ、ちょっと見てくるからお留守番お願い。

シルヴァンさんも確認が取れるまで家にいてくださいね。」


そう言って、慌てて外に出る。

村の入り口まで走ると、村長と2人の騎士が話している声が聞こえてきた。


「20代半ばで金髪、当時は白いシャツとベスト、黒いボトムスにブーツを履いている長身の男性だ。

彼は、ある高貴な家から宝飾品を盗んだ犯罪人だ。

我々が捕縛したが、逃げだしている。

ここに大けがを負った男性が治療されていたと聞いた。

確認させてもらいたい。」


(宝飾品を盗んだ?)

それはシルヴァンのことではないと思った。

しかし、ベストやブーツは身に着けていなかったものの、

金髪や白いシャツと黒のボトムスは一致する。


騎士の強硬な姿勢に村長がたじろぎながら答える。

「確かに、わが村の薬師の家で金髪の男性が保護されて治療されておりました。」

正直に答える村長に、フィラの握った拳にさらに力が入る。


「ですが、それもだいぶ前のこと。とっくに回復してどこかに出て行かれましたよ」

信じられない回答に、フィラの目が見ひらく。

(え?・・村長?)


「でも、私らはそんな悪い人に見えなかったんですけどね。

人は見かけによらないってことですかね?

それか、たまたま特徴の一致する別人の可能性もありますかね。他に特徴はありますか?」

「他か?そうだな」

そう言って騎士は手元の書類を見ながらいくつか言葉を重ねる。

「あぁ、そうだ、どうせなら治療した薬師も呼びましょうか。

もっと詳細なことが分かるかもしれません。」

「いや、それはいい。私たちをそこへ案内してくれ。」

「そうですか?では、治療など都合がありますので、ゆっくりご案内しましょう。

誰か、薬師に知らせに行ってくれ。」


はい、という声と共に男性が一人歩き出した。

それを見て、自分の所に来る、と慌てて家に戻る。



「シルヴァン、隠れて!」

家に入るなり真っ先にシルヴァンに声をかけたが、そこにいたのは泣いているルカだけだった。


「え?ルカ?どうしたの?」

「う・・・シルヴァンが、多分記憶を取り戻したんだ。

それで、ごめんって言って出て行っちゃった。う゛~~」


「シルヴァンに記憶が戻ったの?」

「多分。俺達も騎士を覗きに行ったんだ。俺、見たことないし。

で、騎士を見たら、急にシルヴァンがしゃがみ込んで苦しそうにして、

ごめんって言って、ここにいたら皆に迷惑がかかるって、走って森に行っちゃった。うわ~~ん」

「そう・・・」

優しくルカを抱きしめる。

さよならも言えず、さっきまで当たり前に一緒にいた人がいなくなる。

私たちにとっては嫌な記憶も呼び起こしてしまうから、苦しさを抱きしめることで和らげと願うことしかできない。


記憶が戻ったことは喜びたいところだが、騎士はシルヴァンを犯罪者だと言っていたので、もしかしたらあのケガを負わせたのはあの騎士達なのかもしれない、と思った。


(だとしたら、逃げて正解。おじさんも、村長さんも、皆シルヴァンを騎士に突き出すようなことはしなかった。信じてくれているんだ。だったら、私も精一杯知らないフリをしなきゃ)


「ルカ、よく聞いて。これからここに、その騎士が来るわ。

だから、ルカには嘘をついてもらうことになるの。やってくれる?」




「お前が薬師か?ずいぶん若いな」

「はい。5年前の流行病で父と母が亡くなり、私と弟が跡を継ぎました。」

「そうか。大変だったな。・・本題だが、ここで金髪の男性を治療したと聞いた。詳細を話せ」

そう言いながら、開けた扉から見える室内をじっくり観察されている。その視線は鋭く、自分も振り返って確認したくなる気持ちをグッと抑える。

「金髪の男性ですか?えと・・・」


村長は、見た目は似ていると言っていた。だからそこはごまかせない。だったら、その通り「もうここにいない」ということだけだ。


「確かに治療しました。森で弱っているところを見つけたので。

でもケガが治って歩けるようになると、突然いなくなっていました。

もしかしてご家族をご存知ですか?

治療費を頂いていないのに逃げられたので、是非ともお支払いいただきたいのですが・・・」

「は?そんなのは知らない。逃げたのはいつだ」

「いつだと言われましても・・・こんな村ではあやふやで、だいぶ前に、としか。」


チッという舌打ちが聞こえる。

怖いが、ここはシルヴァンを守るために怯えている場合ではない。


「そうだよ、姉ちゃんと僕で頑張って治してやったっていうのに、お礼の一つもなく消えたんだ」

つないだルカの手に力が入って、フィラも握り返した。

「確かにカバンとか持ってなかったし、服もボロボロだったからお金も無かったんだろうけどさ、治療費くらい払いに戻ってこいっていうんだ」


「ほう、そいつはカバンも持たず、ボロボロの服を着ていたのか」


ビクッとルカが反応したのが伝わってくる。

悔しがる弟を慰めるフリをして「嘘がバレたわけではないよ」という意味を込めて、

「治療費が払われてないけど怒ってないよ」と見えるように気を付けて、ルカの肩を抱きしめる。

「ルカ、大丈夫だよ」


「念のため、室内を調べさせてもらう」

「は・・・はい。どうぞ」


しまった。ルカと話していて室内の確認をしていなかったと焦る。

そこには、3人分の食器、ルカが着るには明らかに大きい服など、ちょっと考えただけでも大人の男性がいた形跡はいくつも思い浮かんでしまう。


昨日まで隣村に住むおじさんが泊りに来て、父さんの服を使ってもらった、一緒にご飯を食べた、ということをルカと一緒に一生懸命説明して、何とか納得して貰った。


「……ふん、ただの死にかけの浮浪者だったというわけか。……もしまた見かけたら、駐屯所へ報告しろ。賞金が出るかもしれんぞ」


騎士たちは忌々しげに吐き捨て、馬を走らせて去っていった。

蹄の音が遠ざかるのを、私たちは家の前で息を殺して聞き続けた。家の中に戻り、ルカと顔を見合わせ、同時に膝から崩れ落ちた。……ただひたすら、疲れた。




ルカが騎士を見たいというので、2人で塀に隠れて覗いてみた。

何気なく騎士の鎧を見ていると、急にぎちぎちに詰め込んでいた箱が耐えきれずあふれ出すように忘れていた記憶が押し寄せてきた。

頭の中がぐるぐるするような感覚に思わずしゃがみ込んでしまい、ルカに心配されてしまう。


自分が誰であるか、なぜケガをして、ここにいるのか。

目覚めた時に持った疑問の答えを、全て取り戻した。

(……そうか。私は、嵌められたんだ)

思い出した本来の自分の身分と状況に絶望を覚えた。


一緒にしゃがみ込んでくれたルカの肩に手をおく。

「ごめん、ルカ。ここにいたら皆に迷惑がかかるから、私は出ていくよ。

フィラにもごめんって伝えてくれ。」


きっと、記憶が戻ったことでしゃべり方が変わったせいもあると思う。

驚いてルカが目を見開いて止まっている。

驚くと目を見開くクセは姉弟一緒だな、と感慨に浸かりたいが、騎士に見つかれば自分は今度こそ終わりだ。


ルカの返事を待つことなく森へ走った。



◇◇◇



「アルヴィス様、この度は領主への就任おめでとうございます。」

「ありがとう。君たちのおかげで、無事和平協定が結べたからね。」


3年前、このヴァリエール領の領主館は次期領主であるご子息の誘拐事件に揺れていた。


ヴァリエール領は平地が広がり、農作物が豊かに実る土地だ。

長年、山を多く所有する隣領から木を買い、農作物を売るという関係でやってきた。

しかし、ヴァリエールに食料という生命線を握られている状況が面白くない隣領は、土地を狙って攻め込む準備を始めていた。


その情報を掴んでいながら、アルヴィスの父であり当時の領主は戦争をしないよう対策を考えるばかりで、守りを固めることも、攻め入ることも拒否し続けていた。


そうして起こったのが、ご子息の誘拐事件だった。

当初、誘拐したのは隣領ではないかと言われていたが、隣領は知らぬ存ぜぬを通すばかり。

全く手がかりが掴めないまま半年近くの月日が過ぎ、騎士からだけでなく、奪還のために攻め入ろうという声が強まってきたとき、ご子息のアルヴィス様がたった一人で帰ってきた。


そこで明らかになった事実は驚くべきものだった。

なんと自分を攫ったのは、自領の騎士だという。

いつまでも争う姿勢を見せない領主に苛立ち、一部の騎士達が隣領の仕業と見せかけて次期領主を誘拐することで戦争の火種にしようとしていたのだ。

顔見知りの騎士から知らない森の中に連れてこられ、監禁された。

これは戦争の火種にされると悟ってからは何度も脱走を試みた。

そして、捕まるたびに靴を奪われ、ムチで打たれ、逃げ出せないようにされた。

それでも諦めなかったアルヴィスは、ついに脱走に成功し、裸足のまま走り続けた。

結局戻るまでは至らず、力尽きて森で倒れた。



やっと戻れた領地で、自領の騎士の謀反と、隣領のいよいよ高まる戦争への気配、もうどうしようもないかと思われた状況をアルヴィスは全て押さえこんだ。


騎士の謀反は、関わったものを全て洗い出し、本来死刑に処すところを、隣領との苦しい状況から騎士号をはく奪して追放処分にした。


隣領とは、領主と話し合いを続け、隣領が望む平地を一部割譲し、その代わり山の一部を貰うという、領地の境界を変更することで合意を得たのだった。

そうして一部の村では領主が変わるという大きな変化もあったが、もともと村ではそういったものに関わる生活をしていないため、大きな騒ぎになることもなく受け入れられた。


そうして過ぎた3年で、アルヴィスは父から領主としての才を認められ、領主交代となった。


「アルヴィス様、王城から領主就任の正式な書面が届きました。サインをお願いします。」

「分かった。」


側近から書類を受け取り、サラサラと記されたサインは

『アルヴィス・シルヴァン・ド・ヴァリエール』


「アルヴィス様、気になっていたのですが、シルヴァンとは何ですか?」

「あぁ、私の大切なもう一つの名前だよ。」

「?」

普段の口調ではなく、にっこりとほほ笑んで優しく答える領主に、事務官はそれ以上聞くことはできなかった。


「でも平地を譲っちゃって大丈夫ですかね。今年の税収が心配ですよ」

「大丈夫、山には山の恵みが沢山あるからね。」

「そうなんですか?」

「そう。新たな事業を起こすから、また忙しくなるけど頼むよ」

「はい。そういうことならお任せください!」




村では、新しい領主の視察が来ると忙しない空気になっていた。

少し前に領地が変わるという報せが届き、この村はヴァリエール領になったという。


その報せにあった領主の名前を見て、フィラとルカだけでなく、村人全員が息をのんで固まった。


シルヴァンがいなくなってからしばらくは、フィラもルカも心に穴が開いたように寂しい気持ちを抱えて生活していた。

でも、無事だと信じて、また頑張ろうと前を向き出したのはここ1年ほどのことだ。


そして、領主としてシルヴァンの名前を見て、やっぱり生きていた、無事だったと安心をしたのと、領主という手の届かない存在だったことに落胆も覚えていた。



(私は薬師として生きていくから。)

そんな言い訳みたいなことを自分に唱えながら、いなくなって気が付いた、惹かれていた気持ちにフタをし続けている。



3年前から再開した森への薬草採取の帰り、1頭の馬が近づいてきてフィラとルカは足を止めた。


馬から降りた人がふわっと笑顔を浮かべて静かに伝えた。

「ただいま、フィラ師匠。」


「あ!先輩への挨拶が抜けているぞ!」

ルカが即反応するが、隣で駆け出したフィラにそれ以上の追及をやめる。


「シルヴァン!おかえり」


あの頃と変わらない優しい声に、領主としてではなく、シルヴァンとして帰ってきてくれた嬉しさに思いっきり抱き着いた。



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