GWは異界にどうぞ
一人暮らしで彼女も子もいないとなるとGWにしても子供のときのような好奇心がなくなる。甚だ行き着くところはミイラのごとく布団に包まるか、やっていなかったゲームなどをするというところである。
布団で眠っていると死んだ気分になるためにわざとらしく積まれたゲームのパッケージを眺めるも、さほどそそられないのはやはり大人だという他ない。意味ないところに歩が進まないのは何にしても同じである。しかし娯楽を楽しめないとなると働く意味さえないので、実のところこう眠るのが正しいことになる。そうした正しさがこの無情を解決するというわけでもないから神とは残酷である。
ほとんどベッドよりも重たい首を持ち上げ、五月二日の外を見る。朝日と名乗るには甚だ元気が良すぎる、わんぱくな灯がカーテンの隙間から私を照らした。それはまるで天照を誘う神々の杞憂のようであり、いいや、思いつかない。
頭髪を気にせずにいられるのも今日ばかりだと酔えるほどに調子に乗った歳ではない。ありきたりな恰好を整え、人間の空真似をしてみることにした。
なお神のつもりではない。それほどに無情なだけである。
どこへ行くというわけでもなく車の鍵を回すのは罪深いだろうか。車の数が増えるだけ事故が増え、排気ガスが増え、トヨタが潤い、アメ車が売れないだけである。
そんなのはどうでもいいが、とにかくGWで車を運転することはなかなかに度胸がいるということを確認しておきたい。およそそれは老若にしても家族や愛などが形作る防壁なのだ。何から守るというのか。
高速道路の渋滞に溢れかえる子供の欠伸と文句の行き着く先が結局家族愛への不平であることにも注目したい。狭く日の熱いところに子供の鳴き声まで満ちれば、どこよりも地獄ではなかろうか。なるほど。私は神ではなく悪魔のつもりだった。
冗談である。私の日常は寝るか食うか小説を書くか推敲するかというつまらない日々である。小説が好きであるはずであるのに、小説が好きであるはずという執念に憑りつかれている哀れな亡者なのだ。パソコンの枠も本棚の小説の姿も、プロットなどを記すノートの恰好でさえ、長方形であることに気づいた私の鬱が、あなたにはわかるだろうか。
だからと寝そべってスマホを除けば、おやおや、スマホも長方形ではないか。私は小説に対して情熱を抱いているはずなので、小説は長方形でない方が望ましいとそこはかとなく思うようになった日々である。
ずっと同じ小説を書き、推敲すると自分の文体に飽きる。と同時に読後感と文章そのものの味の重要性に気づくようになる。小説とは物語ではなく、どういう文の味なのかが大事なのである。だからこうやって久々に車を走らせるに至る。
なおも案の定、渋滞に巻き込まれ、小説界および日本経済と違わず停滞してしまったが。色々と飽きる年齢になったものだ。
私はZ世代なる言葉が気に食わない。大概この手の言葉は言う方が性格が悪い。傲慢だろうそれは。
それにコスパ、タイパを重視する感覚は何もZ世代だけではない。今の時代、ほとんどが効率主義になった。これを読んでいる誰かにもわざわざGWにどこか行く気概など無いだろう。やはりこういうのには本来、勇気がいるものだ。
ただ注意しておきたいのは人間一人の人生などなんの価値も無いということである。お前一人が賢く生きたところで何の意味も無い。そういう意味ではZ世代など単なる怠惰なのだ。そして私も性格が悪いということだ。
つまり何が言いたいかというとこの車の、愛という地獄の川は究極にコスパもタイパも悪い。しかしそれは人生で最も価値のあるとされる家族であるということ。妻と子であること。ひいては人生そのものである。これを否定するのは、それもそれでなかなかに勇気がいるはずである。本来、個人主義とは独りよがりであったり、自分勝手というわけではないのに。
ならばともに苦しむべきだと私が言ったらどうする。安心しろ。言わない。むしろ逆である。コスパにしてもタイパにしても、その優劣にしても、実際のところ大事なのは地獄があるということを先に気づいているかである。私はその点で間違えたと自白したい。今、ものすごくこの渋滞が憎らしい。リア充爆破しろ。
なんで私はこんな魔境に来てしまったのか。それがわかるのが文である。偉大であると同時に自傷である。我々人間は文を崇拝するが、このように文によって死にたいと思える生き物なのだ。文ではないにしても記録媒体が存在しない世界ならば自殺する人間も減るだろう。
家族愛と無謀の隙間に挟まって数時間。私はどこに行くというわけでもなくこの苦を堪能していた。
初めは憎々しかった家族愛がむしろ尊敬に変わったのはついさっきのことである。毎日働き、休日はこうして車に挟まる。そこで家族の文句を聞く。世の父親への尊敬である。
ただそうするとやはり結婚などクソだということがわかるので、瞬時に侮蔑するのであった。
とはいえ一人というのも暇であり、その末の現状であることを思い出すと、もはや人間とはどうしようもない生き物だと彼岸花が咲く。
例えば誰かが上質な文体を私に突きつけてくれれば少しだけ満足がいく。そういう世界でないのはある種反転、ここには愛など無いのに渋滞する、それこそが苦ではないかと。苦のうちに善があれば、それはまだ耐えられようが、ここには真に渇望と惰性と停滞しかない。
という反転を止まる車の長方形に見いだせたので、少しマシになった。
と同時に私は天から笑う太陽に一つ問を浮かべたい。先ほどからずっと思っていたことである――この川の先に人の行くところがあるのならば、その逆には何があるというのか。
この疑問を解決するためになろう小説家は渋滞から逸れ、人気のない森の中へ車を走らせた。べつに渋滞に参ったわけではない。その先に自分の家があることを祈っているわけでもない。断じてない。
急転直下の日射が木の葉緑体まで照らす。緑の屋根のトンネルを走る。車輪が回るたびに風吹き葉が揺れるのは無意識に行われる演奏。今、この車は森という楽器の奏者なのだ。
しかし私は神道ではない。八百万など信じない。奏者は私だと車をわずかに速くすれば、枝が悲鳴をあげたので鬱になった。
森はやがて深くなり、ガラス越しの緑も黒ずんでいった。坂があるわけでもないのに私はどこか穴底に落ちていっている気がした。されどそれは嘘である。なぜなら足を離せば車が止まる。ここに重力は無い。
否、暗闇の先に探究心を見出すことが大人なのではなかろうか。人間ではなかろうか。私はそういった引力に惹きつけられた。この穴に吸い込まれていった。
こういうとき恐怖を想起するのが人間のお得意芸である。そして期待している。この先に予想もしない悪があることを。どうしようもないことがあることを。
されど黒雲が晴れた先に見かけたのは気持ちの悪いマスクを付けた男たちが入って行く豪邸や、緑色の子供が走り回る病院、それから後期高齢者が歌うフクロウの像くらいである。あと豚の牧場。
大概人生とはこんなものである。ショート動画のようなくだらない光景に車を向けるはずもない。さらに右の道にちょうど捨てられた令嬢や、ちょうど追放された子供、それから無能判定された子供がいるが、これは流石に可愛そうだったから豪邸が近くにあると案内した。我ながら思うが、こういうときに優しくなれるのが私の良さではなかろうか。また善意ではないか。
そうでなくともそんなに沢山いるのだから少しぐらい面白い死に方をしてもらってもいいのではなかろうか。
おっと変な恰好で最後の晩餐の真似をしている人たちがそこにいた。これももちろん無視だ。規約に引っかかる。
やがて葉が霞み始めた。緑の霧が漂った。それが毒ガスではなかろうかと危惧したが、白くなっていって少し安心した。その後すぐ炎のように赤くなって怖くなった。
いよいよ私はどこに行っているのだろうか。地獄の入り口を名乗るにはこの赤はあまりに似合っていた。
もう随分と走った。この赤はきっと夕日に違いない。そろそろ帰ろう。と回れ右しようとした。
しかしここで止まれば何かに襲われるのではないかという危機感――ではなく、あの長くてキモイ道を戻るという面倒臭さに打たれた。
ので私はそのまま車を走らせた。赤い霧はなおも濃くなるばかりである。
一転。真っ暗になった。まるで夜が落ちてきたように、墨で塗ったような黒が外を埋め尽くしていた。
でもそれがどうしたというのか。車が動く限り、私はアクセルを踏む。むしろ踏む。踏むしかないから踏む。スピードが跳ね上がっていく。
はずだ。メーターがふざけていなければそのはずだ。外が黒一面なので疾走感がまるでない。走っているかもわからない。
物理の授業のときに自分が動いているのか、景色が動いているのかという話をする。見方によってスピードが変わる。感覚もまた変わる。
私は暗闇に包まれて初めて、自分が止まっていて、周りが動いているという感覚を覚えた。というのはこの暗闇に神の悪戯を覚えたからだ。自分など何の価値もない蟻だと気づいたからだ。私は私が私ではなく、虫とここで自覚して、傲慢さを憂いた。
『私がどうしたところでどうしようもない』
小説に書かれる文章の全てがこれに上書きされた世界のことを、この暗闇というのである。人の空虚の色とは透明ではなく、漆黒なのだ。
あるいはその透明の後ろ側が真っ黒なのだ。
あの煩わしかった日光が恋しくなってきた。目を閉じても目を開けても見分けのつかないこの世界で嘆き以外の何を叫ぶというのか。
いいや、私はここに美しさを見つけたのだ。しばらく走っているうちにこの墨の黒が、一点の明りも色の差異もないこの黒が美しく思えてきた。わかるだろうか。生来、黒とはネガティブなイメージを持たれがちなものであるが、この黒にはなんの兆しもない。変哲もない。完璧なまでの黒なのだ。
何をどうしても黒。これほどに無情なものはない。これほどに完成されたものなどないのだ。実に綺麗ではないか。
私だけでもなく、この黒はずっとここにある。そして誰がどうしようが黒いままだ。この黒だけはどうしてもここに在るものなのだ。生物にしても物質にしてもいつか綻びる。自然現象がそうする。人間が人間であるから、宇宙の、自然の変容に流される。変化とは高揚であり、退屈を埋める人の生きる意味を実感する場所であると同時に、失楽する危険がある。そのせいで楽しめない。怖がる。だから疲れる。だというのにこの黒は何を想おうが、変わらない。隅々まで黒い。
強いて言えばこの無限の黒に、星が浮かぶというならば、それは人間の、この美しさに気づいたときの瞳である。でもそれさえも暗闇のうちに観測できず、存在を証明できない。黒を覆せない。
なんという黒。私はこの一面の黒に感動した。まるでプラネタリウムを見上げるように感動した。
「これが私のどうしようもないという表現なのだ」
小説とは白ではない。この黒。文字で埋め尽くした黒なのだ。
そう白ではない。我々は本来、白を侮蔑するべきなのだ。暗闇に惹かれるべくして存在するのだ。
そうだ。そうなのだ。
だからだんだんと黒が薄くなっていくのをどうにかしてくれないか。だんだんと騒音と白が吹き荒れてくる。私はまだこの黒にいたい。だというのに車は進み続ける。まるで意思があるように。
これが自動運転技術だというのか! おのれ、トヨタめ!
されど車は進み続ける。
決して止まることなく進み続ける。
だから私は止まれと祈る。
もうずっとアクセルなど踏んでいない。
このまま小説が、このまま黒くあることを祈る。
ああそうだ。
止まった。
ついに止まった。
辿り着いた場所は
……
……
……
――GWの終わり。夕方。五月六日の渋滞高速道路。
もはやここには脇道に逸れる隙間など存在しない。永遠の渋滞なのだ。




