輪転
夢を見た。人が笑ってる夢。おかしなくらい大勢の老若男女がこっちを見て笑っている、一様に蒼白な顔で。ただひたすらに無言で、笑顔を形作るだけ。
目の前に、長い黒髪の女性が、髪を前に垂らして迫って来た。異様に白い肌に、髪の隙間から覗く充血した目が薄気味悪い。
「あなたにも死の魅力を教えてアゲル」
女がわたしの耳元でそう呟くと、頭の中で甲高い叫び声に変換され、反響した。
†
「――――――ってのなんだけど、何も起きないかな?」
「なに? あんたは何か起きて欲しいの? 悪夢なんて誰でも見るんだから気にしたらダメだよ」
とある夏の昼下がり、大学の授業の空き時間に入った手近な喫茶店での会話だ。
「で、でもこれ三日連続だよ、流石に気味悪いよぉ」
「知らないわよ、あたしには関係ないもの。ホントにやばくなったら言って。その時に連絡できる余裕があるとは思わないけど」
「ちょっと怖いこと言わないでよ」
目の前のニヤニヤと笑う友達のサヤカから目をそらし、窓の外を見た。年々強くなる日差しを浴びている通行人の雑多の中の、白いワンピースに目を引かれた。夢に見たのと同じ顔の女性。
「あれ、あの人夢に見た人とそっくりだ」
「どれどれ~?」
「あの白いワンピースの人」
わたしがその女性を指さすと、サヤカは白い歯を見せてから、鞄を持って店から飛び出していった。出遅れたわたしは寒くなった財布を抱えて、暑いアスファルトの上に足を乗せた。スニーカーからゴムの焼ける匂いがしてこないか心配だ。
「アキ! こっち、こっち!」
サヤカがわたしを大声で呼び手招きする。電柱の陰に隠れているサヤカの元に行くと、頭を叩かれた。
「遅い。尾行に失敗したらどうすんのさ? あんたの不安を取り除くためなんだよ」
尾行するなら大声で呼ぶな。そのせいで通行人達から変な視線を浴びてるんだから。
「ごめん」
そんなことも言えないわたしはダメな奴だ。
そんな会話をしているうちに、ターゲットの女性は角を曲がり先へと進んでいってしまった。サヤカがわたしを置いてまたもや先に行く。
「ま、まってよー」
「うるさいっ!」
「えー」
サヤカに付いて角を曲がると、女の姿が小さくなっていた。サヤカの堂々と後をついて行く背中に隠れ付いていくわたし。
女に付いて行き、電車に乗りバスを乗り継ぎ、大学から離れた高級住宅街に着いていた。
「昼間から若い女が仕事もせずに、家に帰るなんて怪しいわね」
「全然怪しくないよ。むしろ、尾行してる私達の方が怪しいよ」
そんな会話をしているうちに、女は一つの大きな家に入っていってしまった。
「サヤカ帰ろうよ、ね?」
「よし、突撃だ」
そう言って勢いよく、サヤカはインターホンを連打し始めた。家の中でうるさく反響しているはずなのに、中からの反応は全くない。
「あれー? 出て来ない。いる筈なんだけどなー」
「きっと、私達が怪しいから出て来ないだけだよ。迷惑だから帰ろうよ」
「いや、いくら怪しくても、普通の人ならこんだけうるさくされたら、文句の一つでも携えて出てくるはずだって」
そう自信満々に言って、連打する指をさらに速める。
「もういいや。入っちゃおう」
サヤカが門を通り、玄関を開け中へと入っていった。その後をびくびくしながらわたしは家の中に入っていった。
「来ちゃダメっ!」
先に入ったサヤカが大声で制止をかけた。手を広げわたしが部屋の中をのぞけないように遮る。わたしは首を傾げサヤカに近づいたことを後悔した。
部屋の中には首を吊ったあの女性がぶら下がっていた。生気の抜けたあおいかおに虚ろな目、口の端から下にこびり付いている赤黒い血。麻紐のせいで出来た擦過傷のある首。わたしの全身から力が抜け恐怖に叫ぶことも出来ずに、ただその場にへたり込むことしかできなかった。目の高さが低くなることで、女の足元の体内にあったはずの色んなものが落ちて貯まっているのが、嫌でも目に付いた。
「ちょっと待ってて」
サヤカがわたしから離れていくのを、ただ一言、一人にしないで、と言うことも出来なくて、目の端から涙がこぼれた。
「あ……は…………に方……い」
首吊り女性の方から声がした。そちらに目を向けても、誰もいない。
「あなたはどんな死に方がいい?」
今度ははっきりと声を聞いた。動く口も見た。首吊り死体の女が不気味に笑った。わたしは体中を何かが走るのを感じて、目を閉じた。
†
わたしが目を覚ましたのは見たこともない白い天井の部屋だった。体を起こすと体に掛かっていた布が折れ曲がった。
「……ここは?」
「あ、起きた」
わたしの視界の端に、本を持ったサヤカが心配そうな顔で座っているのが見えた。
「あんた、警察の人と話してたときも虚ろだったから心配したよ。……でも顔色よくなったみたいでよかったー」
サヤカが胸を撫で下ろし、わたしに抱きついてきた。少しサヤカの声が涙声だった。
「サヤカ、わたしは大丈夫だから……ここがどこか教えて?」
「あんた、警察での聴取が終わった途端倒れちゃったから、大学病院まで運ばれたのよ……覚えてないの?」
「……あれを見た後から今までの記憶が、ごっそり抜けてるみたい」
「あ、ごめんっ。あんなの思い出させちゃって」
わたしの言葉に過剰に反応したサヤカが頭を下げる。
「……大丈夫。サヤカの方が大変だったはずだから」
わたしが頭を下げたままのサヤカの肩に手を置くと、サヤカの口から、スースー、という静かな息遣いが聞こえてきた。わたしはサヤカに布団を掛け、寝転がった。
その三日後、わたしは思いのほか早く病院から出ることが出来た。その間もサヤカは心配して、毎日病室に来てくれた。
わたしはサヤカの持ってきてくれた荷物を持ち、駅までタクシーで向かった。駅について久々の混雑に身を委ねて、改札を抜けた。一週間ぶりの雨のおかげで、湿気がすごい。目的の電車が来るまで十分弱。通過電車が巻き込む雨粒が顔に当たって、混雑の熱気が少しだけ和らぐ。携帯を見ながら時間を潰していると聞き覚えのある声が耳に入った。
「この死に方はどうかしら?」
顔を上げると白いワンピースの端が目に入った。ちょうどホームに通過電車が入り込んできた。白いワンピースの女が、目の前でホームから線路に飛び込んだ。わたしはとっさに目を塞いだ。女の恍惚な断末魔が耳の奥まで入り込んできて、あの時の映像がフラッシュバックする。雨とは違う液体が、わたしの体に降りかかるのを感じて、その場にしゃがみ込んだ。わたしの体に掛かった血が、雨に流されていく。
「大丈夫ですか?」
近くにいたサラリーマンがわたしに声をかけてくれ、ベンチに座らせてくれた。
「……い、今の見ました?」
「あなたがしゃがむ瞬間ですか?」
「女の人が線路に……で、電車に轢かれて」
「そんなこと起きてないですよ。もし起きてたら、もっと騒然としてると思います。……本当に大丈夫ですか? なんなら駅員さん呼んできますし」
男がわたしの隣から立ち上がり、駅員を呼びに行こうとする。
「だいじょうぶですから。ご迷惑おかけしました」
わたしはホームに滑り込んできた電車に乗り込んで、、窓の外を見た。先程のサラリーマンが心なしか白い顔でこちらを虚ろに見ていた。男の口が何かを紡いだが、電車の発車音に重なって、上手く聞き取れなかった。私は軽く頭を下げておいた。電車が動くのに合わせて男の人の首が動いていた。
電車の揺れに合わせて揺れるつり革はもう何往復しただろうか? 窓の外は夕闇に支配され、家の近くの少し懐かしい日常に戻ってきた。駅から出て、大通りを歩きアパートへと帰り着く。部屋に入り、荷物を部屋の隅へと追いやり、ベッドへとダイブする。枕に顔を埋めて、今日遭ったことを頭の奥に押し込んだ。
少しの間目を閉じて、何も考えないで疲れた頭を休ませた。気怠いながらも体を起こし、夕飯の調理に取りかかる。とりあえず、ヤカンを火にかけお湯を沸かす。包丁とまな板を用意し、冷蔵庫の中を見たけど、家を空けた期間が長かったから何が大丈夫かよく分からない。危なそうなものを、持てるだけ出して、冷蔵庫の扉を閉めて振り返る。予期せぬ存在に手から全てが滑り落ちた。
「あら、食べ物を落として。餓死を所望してるのかしら?」
あの女がわたしの包丁を持ち、立っていた。女の手首の切り傷からの血が、包丁を通って血溜まりを作る。女が包丁を振り上げ、近づいてきた。思わず近くにあったヤカンを投げつける。中に入っていた熱湯が飛散し女の顔にかかると、女が包丁を落とし両手で顔を覆って、人間とは思えない叫びを上げた。
「ギャアアァァァァァ!! …………とでも叫べばいいのかしら?」
叫ぶのを止めた女は顔から手を離した。女の顔は所々赤くなり爛れていた。女が自分の顔を掻きむしると、右半分の皮がめくれ、血と共に白い部分が露見した。女の窪みに収まってるだけの眼球がギロリとわたしを睨むと、両手を前に出して私に飛びかかってきた。
後ろに退がろうとしたけど、足がもつれ尻餅をついてしまった。女がワンピースを翻しわたしの上に跨り、凄い力で首を絞め始めた。わたしは手をじたばたと動かし何とか逃げだそうとした。動かしていた手が何かに当たった。さっき落とした包丁だ。
女の顔が何故か一瞬歪み、締め付けが緩くなった。包丁をしっかりと握り、女の腕に突き刺す。女が手を離し、その隙に這って女と距離を取った。女の方を見ると、何故か炎に包まれていた。
「どうして、死んでくれないの?」
女は悲しそうな顔をして、炎と共に姿を消した。わたしはおそるおそる立ち上がり、台所へと戻った。特に燃え移ったところはなく、さっきの炎上が嘘みたいだ。点きっぱなしだった火を止め、床に広がる熱湯をどうしようかと考える。火傷しないように、ヤカンだけは拾い上げた。
床の掃除をし終え、お風呂に入るために脱衣場へ向かった。服を脱ぎ浴室に入る。体を洗い、湯に浸かり、今日遭ったことを洗い流す。
「……嫌な一日だった」
「ホントそうよね。熱湯掛けられるし……」
声のした天井を見上げると、女の上半身がわたしを見下ろしていた。そのまま女が浴槽の中に落ちてきて、水しぶきを上げずに波紋を作った。波紋の中心から顔を覗かせ、わたしの目を覗き込んだ。
「あなたは溺死したいの?」
女がわたしの頭を掴み、お湯の中に押し込んだ。頭を押さえつけられたままで、息を吸うことが出来ない。体の中の空気が口までせり上がり、許容量を超えたものが泡沫として消える。女がわたしの髪を引っ張り水上へと引き上げる。体が酸素を欲しがり、リズムの合わない呼吸で盛大にむせた。
「あなたはどうして死んでくれないの? ねぇ答えて」
女が再び顔を押し付け、またも息が出来なくなった。今度は直ぐに引き出された。そして答える前に再度沈まされる。女の、ねぇ!! の声に合わせてわたしの顔が空気中と水中を行き来する。
「もういい」
女が私の頭から手を離し、扉の外に出た。
「死に方はいつも選ばせてあげてるけど、もう待てない」
女は脱衣場に置いてあったわたしのドライヤーの電源を入れ、浴槽に投げ入れた。わたしの体を何かが奔った。
†
わたしはうっすらと目を開けた。……生きてる。夢だったのかな。どうやら机に頭を載せて寝ていたらしい。壁の時計に目をやると九時を指していた。このままだと怖くて平静を保ってられる自信がない。
わたしは携帯を手に取りサヤカに電話を掛けた。
「もっしもーし」
サヤカがいつもの調子で間延びした声で出てくれた。
「どしたのさー?」
「今から家来れる?」
「今からー? 良いけど時間掛かるよ。それより、あんた声に元気ないけど大丈夫?」
「大丈夫、待ってるから」
わたしは切れた電話を机の上に置き、体の力を抜き床にのびた。汗で服がすごいべとつく。とりあえずシャワーでも浴び…………やっぱりやめよう。
服を着替えたり、寝癖を直したりしていたらだいぶ時間が経っていた。そろそろ来るかなぁ。ちょうどチャイムが鳴った。
玄関の扉を開けると、大きな箱を持った色白な宅配便の人がいた。
「サインか判子をお願いします」
わたしはペンを借りサインをして、箱を受け取った。箱の大きさに反して意外に軽い。
「ありがとうございました」
そう言ったのを軽く聞き流して、部屋に入り机の上に箱を置く。何が入ってるんだろう?
ガムテープを切り裂き箱を開けると、生臭い臭いが鼻をついた。思わず鼻を押さえ、顔を背けた。箱の側面がじわじわと赤くなっていくのが目に付いた。箱が横に倒れ、中から血を滴らせた手首が這い出てきて、次いで足や、何もついていない胴体部分が出てきて、最後にあの女の顔だけが転がり出てきた。女の顔に気を取られていると、いつの間にか足を捕まれていた。
「どうして死んでくれないの?」
女がわたしの目を見上げた。やっと絞り出した声も掠れていた。
「……そんなの死にたくないからに決まってる」
「生きたいの? どうして?」
わたしはそこで言葉に詰まった。生きたい理由が見あたらない。人と同じような漠然とした死に対する恐怖しか持ってない。それがこの女に対しての理由になるかは分からない。
「大した理由がないなら生きて無くても良いじゃない」
女の手がわたしの足を、腿を、腹を、胸を、よじ登り私の首に到達した。そしてわたしの首を絞め始めた。
わたしはとっさにガムテープを切るのに使ったカッターナイフを女の手に突き刺した。ナイフが刺さったまま、地面をのたうつ気味の悪い手の上にイスを倒し動きを封じる。貫通した感じがしたが、気にしている余裕はない。
「ねぇ、答えてよ」
わたしは靴も履かずに外に飛び出した。女が顔だけで追いかけてくる。わたしは廊下を走り抜けた。
「ねぇっ!」
女の声が私を呼び止める。私は無視して階段に足を出して降り始める。
「ねぇ、アキっ!」
えっ?
さっきと同じ声が今度は私の名前を呼んだ。わたしはとっさに声のした方に振り向いた。サヤカがわたしの目に映るのと同時に、わたしの体がぐらりと傾いた。足の裏にはあるはずの階段の感触がなかった。風景がめまぐるしく動き、天井が見えた。走馬燈と呼ばれるであろうものが見えて、わたしの頭が冷たいコンクリートに当たったのを最後に、痛覚を失った。わたしの名前が再度呼ばれた気がした。
†
「アキ――――――――――――――――!!」
あたしは信じられないくらい大きな声で叫んだ。廊下の端から端までなりふり構わずに走り、階段の前に行った。
階段の下ではアキが頭から血を流して横たわっていた。その隣には自殺したはずのあの女が五体満足でしゃがんでいた。
「あんなに死にたくなかったくせに、あっさりと死んじゃったね」
女がアキの顔を撫でクスリと笑った。あたしの顔を見て、
「次はあなたにしようかしら? ふふっ」
と満足そうに笑うと煙のように空に溶けていった。