削られていく余白
「……仕事、辞めた」
ヒナタは、それだけ言った。
驚きはなかった。
理由を聞く前に、空気のほうが先に理解していた。
「後悔は?」
コウタが聞く。
「今のところは、ない」
ハヤテが小さく頷く。
「じゃあ、正解だな」
ヒナタは少し考えてから続けた。
「逃げたんじゃない。
続けるために、やめた」
それ以上、誰も言葉を足さなかった。
ヒナタのスケジュールは、
空白が少しずつ減っていく。
スタジオ。
打ち合わせ。
音源チェック。
修正依頼。
どれも「少しだけ」のはずで、
まだ余白も、逃げ道も残っている。
それでも、確実に削られていった。
「……はい。
その方向で大丈夫です」
ギターを抱えたまま、通話を切る。
声は落ち着いている。
切ったあと、ほんの一瞬だけ目を閉じて、
すぐに立て直した。
ハヤテの忙しさは、質が違っていた。
メール。
日程調整。
条件の確認。
角が立たないように言葉を選び、
後腐れを残さないために整えていく。
「ヒナタ、
この案件だけどさ」
スタジオの隅から声をかける。
「先方、制作スケジュールは柔らかい。
こっちの都合、少し出していいって」
「……助かる」
ヒナタは短く答えた。
直接やり取りをさせたら、
ヒナタは音に潜ってしまう。
それを、ちゃんと分かっている。
コウタは、その様子を少し離れて見ていた。
「役割、
はっきりしてきたな」
誰に向けたでもない言葉。
ヒナタは、音を作る。
削って、足して、責任を持つ。
ハヤテは、現実を整える。
人と人の間に立つ。
「無理してないか」
ハヤテが聞く。
「……してる」
ヒナタは正直に答える。
「でも、
今は止めたくない」
ハヤテは、それ以上踏み込まない。
「じゃあ、
倒れる前に言え」
「うん」
短いやり取り。
また、それぞれの仕事に戻る。




