届いていたはずの距離
宵子は、今日もよく笑っていた。
特別なことは何もない。
コーヒーの味の話をして、最近読んだ本の話をして、
帰り際に「またね」と言う。
これまでと同じ。
少し前から、確実に積み上げてきた時間だ。
なのに。
会話の途中、宵子の視線がふっと遠くへ行く瞬間がある。
一秒にも満たない。
けれど、コウタは気づいてしまう。
「何かあった?」
そう聞くと、宵子はすぐに首を振る。
「ううん、何も」
嘘ではない。
でも、全部でもない。
コウタは、それ以上踏み込まない。
踏み込めば、壊れる気がするからだ。
彼女は今、何かを考えている。
それを言葉にする準備が、まだできていない。
なら、待つ。
それが、自分の選び方だ。
帰り道、宵子はふと足を止めた。
「……あの」
振り向くと、彼女は少しだけ困った顔をしている。
「もし、大事なものを守るために、
別の何かを失うかもしれないとしたら、どうしますか」
唐突な質問だった。
でも、笑って流す気にはなれなかった。
「……どっちも大事なら」
コウタは、少し考えてから答える。
「急いで選ばなくて、いいんじゃないかな」
宵子は、小さく息を吐いた。
「……そうですね」
その声に、安堵と、別の何かが混じっている。
コウタは気づく。
これは、自分が正しい答えを出してしまった瞬間だ。
だからこそ。
この距離は、これ以上縮まらない気がした。




