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Snow flakes   作者: 山吹 ことり
夏の月

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86/92

選択

 沈黙がそこにある。


 朔はその沈黙に慣れていない。

 沈黙は、いつも拒絶か無関心の形で訪れてきたからだ。


 夜が、少しだけ呼吸を取り戻したような時間。

 風が植え込みを揺らし、どこかで金属音が鳴った。


「……後悔してない?」


 宵子が、ようやく口を開いた。


 声は低く、慎重だった。

 気遣いではない。確かめる声だ。


「何を」


 朔は短く返した。


 宵子は一瞬、言葉を探すように視線を落とした。


「歌ったこと」


 その一言で、胸の奥が少しだけ軋んだ。

 

 後悔。


 その言葉は、朔の人生にはあまり登場しない。

 後悔しないように選んできた。

 間違えない道を、踏み外さないように歩いてきた。


 だからこそ――


「……してない」


 そう答えた自分に、朔はわずかに驚く。


 即答だった。

 考える余地もなかった。


 宵子は、ほっとしたように息を吐いた。


「よかった」


 その言葉が、朔の胸を締めつけた。


 よかった、という言葉を向けられる立場に、

 自分がいるとは思っていなかった。


「……でも」


 宵子は続ける。


「これ、戻れない気もする」


 朔は、目を伏せた。


 戻れない。


 その感覚は、すでに自分の中にあった。

 宵子に言われて気づいたわけじゃない。


「……ああ」


 肯定するしかなかった。


「たぶん」


 たぶん、という言葉を足したのは、

 宵子のためだ。


 自分の中では、もう決まっている。


 宵子は、少し困ったように笑った。


「私、責任感じたほうがいい?」


 冗談めかしているのに、

 どこか本気が混じっている。


 朔は、思わず顔を上げた。


「関係ない」


 強めの口調になった。


「俺が選んだ」


 宵子は、その言葉をじっと見つめるように聞いた。

 視線が、朔の奥を測る。


「……選ぶ、って」


 宵子は、静かに言った。


「怖くない?」


 怖いに決まっている。


 今まで積み上げてきたものが、

 音を立てて崩れる予感がある。


 理解されてきた立場も、

 評価されてきた役割も、

 全部、別の形に変わってしまう。


 それでも。


「怖い」


 朔は正直に言った。


「でも」


 一拍、置く。


「失うほうが、もっと怖い」


 宵子は、その言葉をすぐには受け取らなかった。

 ゆっくりと、呼吸を整える。


「……私を?」


「……ああ」


 朔は目を逸らさなかった。


 逃げたら、全部嘘になる。


 宵子は、しばらく何も言わなかった。

 夜が、また深くなる。


「私」


 宵子が口を開いた。


「私、支えるとか得意じゃない」


 朔は、少しだけ眉をひそめた。


「完璧じゃないし、強くもないし」


 宵子は自分に言い聞かせるように続ける。


「それでも」


 その先を、言葉にするのをためらっている。


 朔は待った。

 促さない。


「……それでも、あなたの歌が消えるのは、少し寂しい」


 その言葉は、朔の胸に深く落ちた。


 欲しい、と言われたわけじゃない。

 選ばれた、とも違う。


 ただ、寂しいと言われただけだ。


 それなのに。


「……今は、それでいい」


 朔は、低く言った。


 ただ、なくなってほしくないと思ってくれる人がいる。

 それだけで、朔は進める。


 宵子は、少し困ったように笑った。


 その距離に、触れない。

 触れないまま、確かに近い。


 朔の胸が、静かに高鳴った。


「……後悔するかもしれない」


 朔は言った。


 宵子は、頷いた。


 これは始まりじゃない。

 もう、引き返せない位置に立っている。


 今は、宵子の隣にいる。



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