選択
沈黙がそこにある。
朔はその沈黙に慣れていない。
沈黙は、いつも拒絶か無関心の形で訪れてきたからだ。
夜が、少しだけ呼吸を取り戻したような時間。
風が植え込みを揺らし、どこかで金属音が鳴った。
「……後悔してない?」
宵子が、ようやく口を開いた。
声は低く、慎重だった。
気遣いではない。確かめる声だ。
「何を」
朔は短く返した。
宵子は一瞬、言葉を探すように視線を落とした。
「歌ったこと」
その一言で、胸の奥が少しだけ軋んだ。
後悔。
その言葉は、朔の人生にはあまり登場しない。
後悔しないように選んできた。
間違えない道を、踏み外さないように歩いてきた。
だからこそ――
「……してない」
そう答えた自分に、朔はわずかに驚く。
即答だった。
考える余地もなかった。
宵子は、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった」
その言葉が、朔の胸を締めつけた。
よかった、という言葉を向けられる立場に、
自分がいるとは思っていなかった。
「……でも」
宵子は続ける。
「これ、戻れない気もする」
朔は、目を伏せた。
戻れない。
その感覚は、すでに自分の中にあった。
宵子に言われて気づいたわけじゃない。
「……ああ」
肯定するしかなかった。
「たぶん」
たぶん、という言葉を足したのは、
宵子のためだ。
自分の中では、もう決まっている。
宵子は、少し困ったように笑った。
「私、責任感じたほうがいい?」
冗談めかしているのに、
どこか本気が混じっている。
朔は、思わず顔を上げた。
「関係ない」
強めの口調になった。
「俺が選んだ」
宵子は、その言葉をじっと見つめるように聞いた。
視線が、朔の奥を測る。
「……選ぶ、って」
宵子は、静かに言った。
「怖くない?」
怖いに決まっている。
今まで積み上げてきたものが、
音を立てて崩れる予感がある。
理解されてきた立場も、
評価されてきた役割も、
全部、別の形に変わってしまう。
それでも。
「怖い」
朔は正直に言った。
「でも」
一拍、置く。
「失うほうが、もっと怖い」
宵子は、その言葉をすぐには受け取らなかった。
ゆっくりと、呼吸を整える。
「……私を?」
「……ああ」
朔は目を逸らさなかった。
逃げたら、全部嘘になる。
宵子は、しばらく何も言わなかった。
夜が、また深くなる。
「私」
宵子が口を開いた。
「私、支えるとか得意じゃない」
朔は、少しだけ眉をひそめた。
「完璧じゃないし、強くもないし」
宵子は自分に言い聞かせるように続ける。
「それでも」
その先を、言葉にするのをためらっている。
朔は待った。
促さない。
「……それでも、あなたの歌が消えるのは、少し寂しい」
その言葉は、朔の胸に深く落ちた。
欲しい、と言われたわけじゃない。
選ばれた、とも違う。
ただ、寂しいと言われただけだ。
それなのに。
「……今は、それでいい」
朔は、低く言った。
ただ、なくなってほしくないと思ってくれる人がいる。
それだけで、朔は進める。
宵子は、少し困ったように笑った。
その距離に、触れない。
触れないまま、確かに近い。
朔の胸が、静かに高鳴った。
「……後悔するかもしれない」
朔は言った。
宵子は、頷いた。
これは始まりじゃない。
もう、引き返せない位置に立っている。
今は、宵子の隣にいる。




