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Snow flakes   作者: 山吹 ことり
夏の月

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異変

 毎日、夜は変わらず訪れた。


 昼間の朔は、いつもどおりだった。

 無駄な会話をせず、求められた答えを返し、余計な感情を挟まない。


 それが安全で、効率的で、

 誰からも文句を言われない生き方だ。


 ――なのに。


 宵子の声が、頭から離れなかった。


 仕事中、不意に指が止まる。

 画面を見ているのに、文字が滑って意味を結ばない。


 集中力が切れるたび、昨夜の中庭が浮かぶ。


 あの声。

 あの間。

 あの、静かに向けられた目。


 知らない相手だ。

 たった数分、言葉を交わしただけだ。


 それなのに、どうしてここまで残る。


 朔は理由を探した。


 偶然だ。

 夜は感情が過剰になる。

 静けさが、人を錯覚させる。


 そう結論づけようとして、すぐに否定した。


 錯覚にしては、深すぎる。


 何日か経ち、朔は迷った末に中庭へ向かった。


 自分でも驚くほど、自然な足取りだった。


 理由はつけない。

 理由をつけたら、引き返せなくなる。


 中庭はあの夜と同じだった。

 外灯の位置も、植え込みの影も、ほとんど変わらない。


 違うのは、そこに宵子がいるかどうかだけだ。


 いなければ、それでいい。

 あの日は、たまたまだったと確認できる。


 ――いた。


 カーディガンの色はあの夜と同じ。

 ベンチに座り、指先をポケットに押し込んでいる。


 月を見上げる横顔。


 胸の奥で、何かが静かに折れた。


 偶然ではない。

 そう認めた瞬間だった。


 宵子は、

 ただ、そこにいる。


 声をかけるべきか迷う。

 迷う自分が、ひどく滑稽に思えた。


 あの日は自然に話せた。

 今日は、なぜこんなにも距離が遠い。


 一歩、踏み出す。


 砂利が、小さく音を立てた。


 宵子が振り向く。


 目が合った瞬間、

 少しだけ驚いた顔をして、すぐに柔らかく笑った。


「……やっぱり」


 その一言で、緊張が一気に高まる。


「来る気がしてた」


 根拠のない言葉なのに、不思議と否定できなかった。


「……あの日」


 言いかけて、止める。

 説明を始めたら、余計なことまで話してしまう。


 宵子は、それを待たなかった。


「今日も歌わないの?」


 眉をひそめる。


 少しだけ間を置いて

 朔は小さく息を吸った。


「……やめとく」


 試すように言ってみる。


 宵子は、残念そうな顔をしなかった。

 無理に勧めもしない。


「そっか」


 ただ、それだけ。


 なのに、胸の奥がざわつく。

 自分の言葉が、嘘みたいに浮いている。


 視線を外したまま、口を開く。


「……勝手にいなくなっておいて。なんで、今」


 低く言う。


 宵子は否定しなかった。


「そうだね。だからまた、偶然見つけて、つい嬉しくて」


 その瞬間、抑えていたものが静かに動いた。


 歌うつもりはなかった。

 けれど、気づいたときには息を吸っていた。


 声を張らない。

 夜を壊さないように、そっと音を置く。


 メロディは、あの夜と同じ。

 無意識に選んでいる。


 歌いながら、確信していた。


 この声を、俺は知っている。

 この空気を、ずっと前にも味わっている。


 途中で、宵子の声が重なった。


 昨日よりも、はっきりと。

 迷いなく、自然に。


 ハモリというより、応答だった。


 問いかけに、答えが返ってくる。


 その瞬間、視界が一瞬揺れた。


 ――ああ。


 探していたのは、これだ。


 歌い終わると、夜が一段深くなった気がした。

 音が消えても、余韻だけが残る。


 宵子は、何も言わなかった。

 その沈黙が、救いだった。


「……あれから」


 説明じゃない言葉を探す。


「人の前で歌うのをやめた」


 事実だけを置く。


 宵子は静かに頷いた。


「でも」


 まっすぐ、こちらを見る。


「これは、一人の歌じゃないでしょう」


 最後の抵抗が崩れた。


 逃げ場がない。

 否定する理由もない。


 また失ったら、今度こそもう歌えない。

 それに気づいた瞬間、胸の奥が熱くなる。


 恐ろしい。

 同時に、はっきりしている。


 これが、自分の人生で一番の異変だ。


 月を見上げる。

 雲が流れ、光が一瞬強まる。


「……宵子」


 名前を呼ぶと、彼女は小さく笑った。


「なに」


 その返事で、確信した。


 引き返す理由が、見つからなかった。


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