表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Snow flakes   作者: 山吹 ことり
夏の月

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

83/95

再会

 夜は、音を薄くする。


 街灯の輪郭も、遠い車の走行音も、世界の端へ追いやられて、

 残るのは呼吸と心臓の鼓動だけになる。


 朔はそんな夜が嫌いだった。

 静けさは、忘れたふりをしていた感情を、容赦なく引き戻す。


 だから、必要以外のことはしない。

 必要以外の場所にも行かない。


 深夜の病院の敷地は、昼間とは別の顔をしている。

 廊下の白は少し灰色に沈み、掲示板の色味もぼやけていた。


 受付の灯りが落ちた時間を選び、

 朔は通用口から外へ出る。


 昼の熱がまだ空気に残っている。

 夜風がそれを薄く削っていった。


 外灯の光が植え込みの影を長く伸ばす。

 濡れたベンチを横目に、奥の暗がりへ入った、そのときだった。


 声がした。

 歌だった。


 誰かが、ここで歌っている。


 朔は反射的に立ち止まる。

 耳が先に反応し、身体が遅れて追いつく。


 薄いメロディ。

 声量は小さい。

 夜に溶けるように抑えられているのに、輪郭だけがはっきりしている。


 胸の奥が、ふいに熱くなった。


 ……なぜ。


 通り過ぎればいい。

 関わらなければいい。

 それが自分のやり方だった。


 けれど、足が動かない。


 声が、細い糸みたいに胸の奥へ引っかかって、ほどけない。


 歌の主は、植え込みの向こう側にいた。

 外灯の届かない場所。


 近づいたら、何かが確定してしまう。

 そう思いながらも、視線だけは離せなかった。


 背は高くない。

 夜気に触れた指先が、わずかに震えている。

 それでも、歌うのをやめない。


 知らない。

 知らないはずだ。

 なのに――。


 声をかけるべきじゃない。

 そう思った瞬間、歌がふっと止んだ。


 そして、こちらを見る。


 暗がりの中でも、その目だけは分かった。

 驚いていない。怯えてもいない。

 ただ、見つけた、という顔。


 背筋が冷える。


 初対面のはずなのに。

 そんな顔をする理由がない。


 「……すみません」


 小さな声が、まっすぐ届く。


 「うるさかったですか」


 一瞬迷って、朔は短く答えた。


 「……別に」


 自分の声が、思ったより硬い。

 相手は、少しだけ笑ったように見えた。


 「よかった。ここ、静かだから」


 静かだから。

 その理由が、胸を刺す。


 視線を少し下げる仕草は、逃げではなく礼儀だった。


 「……歌、好きなんですか」


 普通の会話だ。

 普通なら、普通に返せばいい。


 けれど、朔は黙った。

 黙ることで、関係を終わらせる。

 それがいつものやり方だ。


 それでも、相手は待った。

 踏み込まず、離れもせず。


 わけが分からないまま、朔は口を開く。


 「……嫌いじゃない」


 言った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。

 それは、好きだと言えない人間の逃げ道だ。


 相手は、微かに頷く。


 「そうなんですね」


 それだけ。


 「……いつも、歌っているのは、

  あなた?」


 呼吸が一瞬、止まる。

 ――聞かれていた。


 月が、雲の切れ目から淡く光っている。


 「きれいな声だなって」


 断定じゃない。

 それでも、胸をえぐるには十分だった。


 きれい。

 そんな言葉を受け取る準備は、できていない。


 「……聞いてたのか」


 「少しだけ」


 信じきれない。

 でも、否定もできなかった。


 少し迷ってから、彼女は続ける。


 「前にも、聞いたことがあるような気がして」


 指先が冷える。


 知らないはずの声が、

 昔から知っていたものみたいに胸に残る。


 理由は見つからない。

 それでも、確信だけが生まれていく。


 この声を、俺は知っている。


 「……名前」


 彼女は少し驚いて、

 それから小さく笑った。


 「宵子」


 その音の並びが、胸の奥に落ちた。


 繰り返そうとして、喉が詰まる。

 呼吸がうまくできない。


 宵子は何かに気づいたように、目を細める。


 「……具合、悪い?」


 「違う」


 短く言い切る。

 違う。違うはずだ。


 こんなことで揺れるほど、自分は弱くない。


 宵子は近づかない。

 ただ、同じ場所に立っている。


 それが、逃げ場を塞ぐ。


 その、思考を切るかのように

 ポケットの中の電話が短く震えた。


 「……戻る」


 足元の砂利が小さく鳴る。

 この場を、早く終わらせたかった。


 宵子は頷いた。引き止めない。


 歩き出す。

 足音がやけに大きい。

 心臓の音も、同じくらい。


 通用口の手前で、振り返りそうになって、無理やり止めた。


 振り返ったら、終わる。

 振り返ったら、始まる。


 ぬるい空気を吸い込んだ瞬間、記憶が重なる。


 小さなステージ。

 古いマイク。

 拙い歌。


 「すごいね」


 あの声。


 顔は覚えていない。

 ただ、まっすぐで、迷いのない目。


 ――きれいな声だね。


 喉の奥が、きゅっと痛んだ。


 あの声を、ずっと探していた。

 でも見つからなくて、

 いつのまにか、探すことをやめた。


 歌も、同じだった。


 もう歌わない。

 そう決めたはずだった。


 なのに今、

 諦めたはずの場所から引き戻されている。


 どうして今なんだ。

 どうして、このタイミングで。


 耳の奥で、宵子の声が残響する。


 戻れない気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ