ショーケースの前で
春になっていた。
ライブの本数が、はっきり増えた。
平日のリハーサル、
週末のイベント、
その合間に入る打ち合わせ。
名前を覚えられるまでには、
まだ少しかかる。
それでも、「またお願いします」と言われる回数は増えている。
移動の多さに、身体が先に慣れ始めた。
機材を運ぶ手つきも、
自然と速くなる。
仕事になりかけている。
そんな実感だけが、静かに積もっていた。
浮かれているわけじゃない。
ただ、立ち止まる理由がない。
甘い匂いが、通りにまで溢れていた。
ショーケースの前は、春らしく混み合っていた
ガラス越しに並ぶケーキは、どれも綺麗すぎて、
見ているだけでも幸せな気分になる。
コウタは会計を終え、紙袋を片手に店を出た。
つい足を止めて、ショーケースを振り返った。
――次は、あれにしようかな
そんなことを考えながら、
何気なく一歩、横に動いた瞬間だった。
「わっ」
横から誰かがぶつかってきて、視界が大きく揺れる。
「す、すみません!」
反射的に抱え込んだ腕の中で、
嫌な感触がした。
「あ……」
二人同時に、紙袋の中を確かめる。
箱の中で、
ついさっきまで綺麗だったショートケーキが、
傾いて、崩れていた。
「……やってしまいました」
彼女は顔を真っ赤にして、深く頭を下げる。
「本当にごめんなさい。私、不注意で……」
「あ、いえ……」
口ではそう言いながら、
コウタの頭は、まだ追いついていなかった。
怒るべきなのか。
困るべきなのか。
それとも、何も言わないのが正しいのか。
「弁償します。全部」
「いえ、そこまでじゃ……」
言いかけて、彼女の手元に目が止まる。
落としかけた鞄から、文庫本が一冊、滑り落ちていた。
「あっ」
拾い上げた瞬間、コウタは思わず声を上げる。
「……これ」
「え?」
「同じの、今読んでます」
彼女は一瞬きょとんとしてから、目を見開いた。
「本当ですか?」
「はい。ちょうど、真ん中くらいまで」
「私もです」
声が、ほんの少し弾んだ。
「この章、好きで。
派手なことは何も起きないのに、
ずっと残る感じがして」
胸の奥が、静かに鳴った。
「分かります。
言葉が、静かなんですよね」
彼女は嬉しそうに笑った。
ついさっきまで必死に謝っていた人とは思えない、
柔らかい表情で。
「あ、私……宵子って言います」
「コウタです」
名前を交換しただけなのに、
空気が、わずかに変わった。
「ケーキ……本当にごめんなさい」
「いえ、むしろ……」
コウタは少し迷ってから言った。
「このあと、時間ありますか」
言ってしまってから、
心臓が遅れて早鐘を打ち始める。
「もしよければ、
この続き、どこが好きか教えてほしくて」
一瞬の沈黙。
宵子は少し考えるように視線を落とし、
それから、微笑んだ。
「……はい。ぜひ」
ショーケースのガラスに映る二人の姿が、
ほんの少しだけ、近づいたように見えた。




