仕事として
店は駅前の、小さな定食屋だった。
遅い時間でも灯りが落ちず、
黙々と食事をする客の気配がある。
小雪は席に着き、メニューを開いた。
「これで」
言葉は短い。
迷っているように見せたくなかった。
ヒナタは少しだけ考えて、同じものを頼む。
料理が運ばれてくるまで、会話はほとんどなかった。
沈黙は重くない。
ただ、触れないことで保たれている距離だった。
ヒナタは、箸を持ったまま、
しばらく皿に手をつけなかった。
小雪は箸を取り、ひと口食べる。
思ったより、温かい。
その温度が、胸の奥に溜まっていたものを
ゆっくりとほどいてしまいそうで、
小雪は視線を落としたまま、黙って咀嚼する。
もし、ここで音の話をしたら。
もし、昔の話をされたら。
たぶん、仕事という言葉では支えきれなくなる。
だから、何も言わない。
代わりに、頭の中で作業の順番をなぞる。
データの確認。
トラックの整理。
位相。
バランス。
そうやって、感情を仕事の側へ押し戻す。
ヒナタは、ポケットからUSBを取り出した。
黒くて、小さなそれを、
掌の上で一度だけ握る。
「……あの、さ」
言いかけて、止まる。
言葉が見つからないわけじゃない。
言ってしまったら、戻れなくなる気がした。
窓の向こうで、雪が降り始めていた。
ヒナタは、視線を上げて小雪を見る。
「……完成じゃない」
それが、やっと出てきた言葉だった。
「でも、
これ以上一人で持ってると、
多分、歪む」
USBを差し出す。
「だから……
聴いてほしい」
小雪は何も言わず、
その手を受け取る。
指先が、ほんの一瞬触れる。
ヒナタは、少しだけ間を置いてから口を開いた。
言葉を探しているというより、
踏み出す位置を確かめている沈黙だった。
「……これ、仕事として頼みたい」
小雪は一瞬、言葉を失う。
胸の奥に溜まっていたものが、
音を立てて動いた気がした。
受け取ったデモの残響。
さっきまでの会話。
長い時間、触れずにきた距離。
全部が一度に押し寄せて、
このままでは感情が溢れてしまいそうだった。
「小雪にしか、任せたくない音なんだ」
逃げ道のない視線。
それは期待でも、甘えでもない。
小雪は小さく息を吸い、
その熱を、仕事の側へと押し戻す。
「……仕事なら、ちゃんと条件を聞く」
一度、言葉を区切る。
「友達価格は、なし」
それは線を引くための言葉であり、
自分を守るための判断だった。
ヒナタは少しだけ笑って、うなずく。
「それでいい」
その声に、迷いはなかった。
小雪は、その一言で分かる。
これは、
感情に流されて引き受ける依頼ではない。
今の自分が、
音の仕事として選ぶかどうかの話なのだと。
「……データも送って」
顔を上げずに言う。
「うん」
短い返事。
それでいい。
それ以上はいらない。
食事を終える頃には、
胸のざわめきは、きちんと形を失っていた。
店を出ると、夜の空気が冷たい。
雪はまだ、降るかどうか迷っている。
小雪は、もう一度だけポケットに触れる。
軽い。
でも、軽く扱うつもりはない。
これは、仕事だ。
そう決め直して、
小雪は駅へ向かった。




