音では触れない場所
レコーディングは、順調だった。
「この音、いいですね」
エンジニアがモニターを見ながら言う。
細かい修正にも、誰も文句を言わない。
ヒナタの指示は的確で、
音は確実に良くなっていく。
問題は、どこにもないはずだった。
「OKで」
ヒナタがそう言うと、
ブースの向こうで拍手が起きる。
仕事としては、完璧だった。
スタジオを出た帰り道、
ヒナタは一人、駅まで歩いた。
イヤホンで、さっきの音を聴き返す。
整っている。
立体的で、破綻がない。
「悪くない」
声に出してみる。
その言葉は、
自分を納得させるための音だった。
ふと、足が止まる。
駅前の雑踏。
人の声、足音、信号の音。
どれも、
音としては処理できる。
でも。
胸の奥に残っているものは、
どう配置しても、
どう整えても、
消えなかった。
小さくて、
溶けそうで、
でも、消えなかったもの。
「守れてないな」
ヒナタは、そう呟いた。
音を良くすることで、
遠ざけてきた。
言葉を書かないことで、
触れずにきた。
でも、それは
壊さないためではなく、
向き合わないためだった。
音は、
誰かの気持ちを包める。
でも、
自分の気持ちを
掴まえてはくれない。
「……音じゃ、無理だ」
はっきりと、そう思った。
逃げ道が、
そこで途切れた。
家に帰り、
ギターケースを開ける。
弾かない。
音を出さない。
代わりに、
ノートを開く。
白いページを前に、
ペンを持つ。
震える。
書けない。
でも、
閉じなかった。
「次は」
誰に言うでもなく、呟く。
「音の外で、
向き合う」
スマートフォンを手に取る。
連絡先の一覧を、
ゆっくりスクロールする。
まだ、
押さない。
でも、
逃げるつもりもない。




