幕間|声が届く距離
スタジオを出ると、雨が降り始めていた。
細くて、音を吸う雨。
ヒナタは傘を持たずに歩き、
スマートフォンをポケットに押し込む。
角を曲がったところで、
ふと、立ち止まった。
聞き覚えのある声。
笑い声ではない。
呼ぶでも、騒ぐでもない。
ただ、誰かに話しかける声。
「……」
心臓が、一拍だけ遅れる。
振り向けば、
そこにいるはずだと、思ってしまった。
いない。
濡れたアスファルトに、
街灯の光が滲むだけだ。
「……錯覚か」
そう言いかけて、
言葉を飲み込む。
もし、今、
本当に小雪がそこにいたら。
自分は、
声をかけられただろうか。
名前を呼べただろうか。
答えは、すぐに出た。
――無理だ。
今の自分は、
音でなら守れる。
距離も、間も、空気も。
でも、
言葉では守れない。
特に、
あの言葉だけは。
家に帰り、
濡れたシャツを脱いで、
机に向かう。
ノートを開く。
白いページ。
久しぶりに、ペンを持つ。
書こうとして、
止まる。
書けないのは、
技術の問題じゃない。
書いた瞬間、
小雪の輪郭が、
はっきりしてしまうからだ。
「……まだ、だ」
そう呟いて、
ペンを置く。
スマートフォンが、震えた。
通知は、
知らない番号からのメッセージ。
制作関係の、
音の相談だった。
ヒナタは、
画面を見つめてから、
短く返信する。
「見ます」
音なら、見られる。
音なら、応えられる。
でも、
今日すれ違ったかもしれない声には、
まだ、触れられない。
それでも。
胸の奥で、
あの感覚が、
確かに、騒いでいた。
小さくて、
溶けそうで、
でも、消えなかったもの。
今は、
声が届く距離まで来ただけ。
踏み出すのは、
もう少し先だ。




