触れてはいけなかった音
休日の午後、部屋はやけに静かだった。
ヒナタは床に座り、古い段ボールを引き寄せる。
引っ越しのたびに持ち歩いてきた箱だ。
「……こんなの、まだ取ってたのか」
中には、使わなくなったケーブル、古いチューナー、書きかけのノート。
その一番下に、小さなUSBメモリがあった。
マジックで雑に書かれた文字。
demo
胸の奥が、わずかにざわつく。
パソコンに挿す。
フォルダを開く。
日付は、大学よりも前。
再生ボタンを押した。
音は荒い。
リズムも安定していない。
今の耳で聴けば、
決して整ってはいなかった。
それでも。
最初のフレーズが流れた瞬間、ヒナタは息を止めた。
「……ああ」
覚えている。
言葉にならなかった感覚。
まだ何も決まっていなかった頃の音。
メロディは、今より素直で、無理に整えようとしていない。
途中で、音が止まる。
未完成のまま、フェードアウトする。
「ここで、やめたんだっけ」
理由は、分かっている。
言葉が、書けなかった。
いや。
触れたら、壊れてしまいそうだった。
ヒナタはギターを手に取り、同じコードをゆっくり鳴らす。
音は今のほうが、ずっときれいだ。
それでも、胸の奥が少し痛む。
「……今なら、触れるのか?」
小さく呟いて、首を振る。
「まだ、だな」
ギターを置き、USBを元の箱に戻す。
蓋を閉める前、ノートの端の走り書きが目に留まった。
意味のない言葉の並び。
その下にだけ、はっきり残っている一文。
小さくて、
溶けそうで、
でも、消えなかった。
ヒナタは、しばらくその文字を見つめていた。
まだ、歌にはできない。
でも、忘れたふりはできなかった。
その夜、久しぶりにノートを机に置く。
ページは白いまま。
それでも、閉じなかった。




