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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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オレンジジュースの減り方

作者: 相馬
掲載日:2025/12/24

朝。カーテンの隙間から差し込んだ陽が、食卓の上に置かれたコップの縁を撫で、淡く金を滲ませていた。沙希は目をこすりながら無言で立ち上がり、冷蔵庫の扉を開いた。


左下の棚。そこにあるのは、彼女の毎朝に決まって用意される果汁100%のオレンジジュース。透明なプラスチックボトルの肩口まで、たしかに満たされているはずだった──なのに。見るたびに、中身の線がほんのわずか、下がっている。


はじめは記憶違いかと思った。だが、今日で三日目。昨夜、彼女は念のためペンでボトルに線を引いていた。封が緩んでいる様子はないし、冷蔵庫の床にも一滴の染みさえない。それなのに、中身だけが涼しげな顔で減っていく。


侵入者? 考えたが現実味がない。合鍵を持っているのは母と大家だけ。防犯カメラも何の変化も捉えていない。ドア、窓、廊下、どこにも人の通った気配はなかった。


それでも、オレンジジュースは確実に減っている。


疲弊した日々だった。論文の締切が迫り、眠りは浅く、夢なのか現実なのか曖昧な時間が増えていく。とはいえ──誰が幻覚でジュースの減りを選ぶだろう?


「……ねえ」


ある夜、灯りを落とした部屋で、半ばやけっぱちの息と共に、沙希は声を発した。


「あなた、幽霊? ジュースが好きなら、そう言えばいいのに」


一拍の沈黙。パソコンのファンがかすかに鳴る。外からタクシーの走る音。近くの部屋でカーテンが揺れる音。


そして、不意に、ぬるりと空気が震えた。


「いや、ちがう。私は幽霊ではない。“探求者”だ」


低く、鼻に少しかかった男の声が、左肩にそっと落ちてきた。沙希の背筋が硬直する。思わず壁まで後退すると、声はさらに間合いを詰めて続けた。


「生前は透明人間化の研究をしていた。正確には“光屈折フィールド”の応用だが……要はそれだ。私は死んだ。だが、肉体を失っても、研究に縋りつき、この部屋に残った」


何も見えない。ただ、温度を持った存在として、声だけがある。


「……じゃあ、ジュースは?」


「ビタミンC。脳の視覚野に刺激を与える。君の冷蔵庫は……良質な補給源だった。だが、まさかこんなに神経質だったとは驚いた」


やがてオレンジジュースは、影との黙契による“共同所有物”になった。沙希が彼に名を与えたのはそれから程なくしてのこと。


「……影でいい?」


「悪くない名だ。実に私らしい」


影。彼は静かだが、どこか享楽的な毒気を持っていた。沙希の研究室での人間関係に皮肉な助言をくれたり、カップラーメンの味に講釈を垂れたりした。何もないはずの空間が、ふと温かく感じることがあった。


けれど、その平穏は唐突に崩れる。


ある朝。まだ眠気の残る目をこすりながら、沙希は冷蔵庫を開いた。そして──絶句する。


朱に濁った液体、それがボトルの中に粘ついていた。どろりと、血のように赤黒い影を抱えて。


喉の奥が痙攣し、床に膝をついて吐いた。冷えた空気にじっとりとまとわりつく、得体の知れない“重さ”が部屋を満たしていた。沈黙ではない。熱でもない。存在しないはずの“誰か”がそこにいる、確かな感覚。


「……影? これ、なに?」


応えはない。


声の震えが真の恐怖を孕みはじめたのは、二度目の呼びかけのときだった。


「こんなの……ふざけすぎだよ。これってもう、研究の範囲を超えてる……」


かつて彼自身が口にしていた──指で唇を叩く癖。だが、その音すら、ない。


気配も、温もりも、どこにもいなかった。


三日目の夜。


影はぽつりと、まるで彼方から届いたような声で、こう言った。


「……私は、人が見ていなければ、どこまでできるかを試してみたくなったんだ」


「それって──何をしたの? 誰かに……」


「いや。まだだ。まだ何もしていない。ただ……思考という実験は、常に自由だからね」


その言葉が、背骨の奥底を凍らせた。沙希は無意識にベッドの毛布を握りしめていた。


「やめて。影……何かのためって、自分の歯止めを変に納得させないで」


返事は、なかった。


その後の数日、沙希は急ごしらえで新たな監視カメラを仕掛けた。赤外線で空気の歪みや温度の変化までも捉えられる高精度のものだ。録画ファイルを再生する瞬間、手は小刻みに震えていた。


映っていたのは、“誰もいないはず”の部屋。


だが──ジュースが自然に減り、ボトルが倒れ、PCの画面がひとりでに点く。そのあり得ない光景が、すべて記録されていた。


そして、最後のフレーム。


ボトルの表面に滲む赤い影──人間の輪郭。


それを最後に、影は姿を消した。


音も、気配も、沈黙すらも、ただきれいに。


冷蔵庫には空になったオレンジジュースのボトルと、赤黒く濁った記録ファイル。そして──夜遅く、ドアの隙間から差し込まれた一枚の紙。


『透明になったら、見失っていたのは他人の目ではなく、自分自身だった。ありがとう。さようなら。』


握りしめた紙は、すこし湿っていた。涙なのか、汗なのか、わからない。ただそれだけが、彼のいた証。その、確かな痕跡。


翌朝。


沙希はオレンジジュースを二本、買った。


そのうち一本は、冷蔵庫の左の棚の定位置へ。封を切るつもりはない。でも、もしも“彼”が、またあの実験から戻ってきた時のために。


今度は『影』ではなく、『人』として彼を迎え入れるために。


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