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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

『「俺のもの」と叫ぶ声は、誰のものか』

作者: 吉姜


夜は深く、雨が絶え間なく降り続いていた。

古びた居酒屋の引き戸の隙間から冷たい風が入り込み、紙提灯が揺れる。黄色い光は弱々しく、まるで死にかけの眼のように瞬き、外の雨音は太鼓のように屋根を叩きつける。

湿った木の匂いに、安酒の刺激臭が混ざり、胸の奥まで重く沈む。

テーブルの上には数枚の遺言書の写し。紙の端は波打ち、墨の文字は酒に滲んでいた。「尊重」「有効」「意思表示」――幾つかの言葉だけが、孤島のように浮かんで残っている。

彼は卓を拳で叩きつけた。

盃が倒れ、酒が流れ落ちる。雫は卓の角からぽたり、ぽたりと落ち、まるで帳簿に刻むように数を刻んだ。


彼は血走った目で叫ぶ。

「俺は二年間、父さんを看取ったんだ!昼も夜も、救急搬送も、病室の痰の吸引も全部俺!

夜中の人工呼吸器のアラーム音がどんなものか知ってるか?老人の失禁を片付けるのがどれほど惨めか知ってるか?俺は全部やった!

……それなのに遺言を開けてみれば――家は弟に、株は妹に。俺には『介護ご苦労様』の一文だけ!

ふざけるな!民法にちゃんと書いてあるだろ!相続順位、そして遺留分いりゅうぶん!少なくとも四分の一は俺のはずだ!」

居酒屋の隅で、店員が布巾を持ったまま手を止めた。

条文は分からなくても、その声の怒りだけは分かる。

二人の間に漂う気配は、まるで決闘の場のようだった。

俺は杯の縁を指で軽く叩いた。澄んだ音が響く。目を上げ、淡々とひとこと。

「ほう?」

彼は更に早口になり、俺の沈黙を押し流す。

「遺言には種類がある!自筆証書、公正証書、秘密証書!

父が残したのは自筆証書遺言だが、あの震えた字が読めるか?弁護士が隣で誘導したに決まってる!

民法968条にあるだろ!全文を自書し、日付と署名も要件!一つでも欠ければ無効なんだ!」

俺は鼻で笑い、雨よりも冷たい声で言った。

「……それだけで『お前のもの』になるのか?」

彼は一瞬止まり、次の瞬間には怒声を重ねてきた。

「それでも遺留分は侵せない!直系卑属には最低でも二分の一!俺には四分の一が保障されてる!

裁判所が認めなくても、俺は訴える!強制執行だ!差押えだ!競売にかけてやる!誰一人、安穏とは暮らさせん!」

隣の席の常連客が顔をしかめ、小声で呟いた。

「役所言葉だな……だが刀よりも冷たい。」

内面の独白

彼は思い出していた。

子供の頃、父に肩を叩かれ言われたことば。――「お前は長男だ。家を背負え。」

弟や妹が叱られる時、矢面に立つのはいつも彼。

金が足りなければ、アルバイトに出るのも彼。

そのたびに心に刻んだ――「いつか必ず、家は俺のものになる」と。

二年間の介護。眠らぬ夜。

彼を支えた唯一の柱は「いつか報われる」という幻影だった。

だが遺言書に刻まれた父の文字は、最後の宣告のように突き刺さった。

――お前ではない。

怒りを隠すため、彼は「法律」という鎧を振りかざすしかなかった。


俺は冷笑し、言葉を鋭く差し込む。

「遺留分が保障?それは紙切れの上の数字にすぎない。文字を離れて、真に『お前のもの』は何だ?……この身体か?それをお前が造ったのか?」

彼は胸を叩き、声を鉄のように響かせる。

「造ったのは俺じゃない!だが使ってるのは俺だ!車椅子を押したのはこの腕、尿を拭ったのはこの手、夜中に立ち尽くしたのはこの足!

痛いのは俺だ!疲れるのは俺だ!――これが俺のものでなくて、誰のものだ!」

俺は視線を更に落とし、冷たく刺す。

「身体がお前の証だと言うのか。なら、時間はどうだ?その流れた日々を、お前は自分で作ったのか?」

彼は仰け反るように笑った。笑い声は錆びた釘が硝子を削るようだった。

「作っちゃいない!だが歩んだのは俺だ!手の繭も、深夜三時の通話履歴も、薬の処方箋の日付も――全部俺が生きた証だ!」

店員の背筋に寒気が走る。その笑い声は、笑いには聞こえなかった。

俺は声をさらに低くし、喉元へ刃を当てるように言った。

「痕跡があるからお前のもの?ならもっと激しいものは?胸の中の炎――それをお前は本当に支配できるのか?勝手に燃え上がる時ですら?」

彼は猛獣のように咆哮する。

「怒りは俺のものだ!俺が点けた!俺が生んだ!」

だがすぐに声が途切れ、慌てて言葉を継ぐ。

「……いや……違う……勝手に燃え出すこともある……でもそれは理由があるから……俺が……」

言葉は途切れ途切れになり、崩れ落ちた壁の瓦礫のように散った。


俺は口角を吊り上げ、牙のように白い歯を見せ、低く呟いた。

「今のお前は、他人の刀を握りしめて『俺の剣だ』と叫んでいるにすぎない。

だが刃を返した途端、血を流すのはお前自身だ。」

店員の手が震え、布巾が床に落ちた。

男の顔から血の気が引き、宙に吊るされた人形のように硬直していた。


彼は仰け反り、狂ったように笑った。声は鋭く、梁を震わせる。

「はははは――そうだ!そうだ!全部他人のものだ!

民法も!裁判官も!鑑定人も!判決文の文字すらも!

身体は俺が生んだわけじゃない!時間も俺が造ったわけじゃない!

怒りすら俺の言うことを聞かない!

俺の口から出る言葉だってそうだ!この言語は俺が創ったのか?違う!

考えも、価値観も、教科書から押し込まれたものだ!

食べる物も、飲む物も、着る物も、全部他人の手で作られた!

……俺には何もない!俺は何一つ、自分のものを持っていない!

ははははは!」

笑いは突然、泣き声に変わった。涙が頬を伝い、面を崩す。

「……じゃあ、俺に何が残る……?

俺には何が……俺のものとして残ってる……?

答えてくれ……頼む……」

その視線は、溺れる者が最後に掴もうとする木片のように、必死に俺へと縋り付いていた。

俺は杯を指で回し、木の卓に擦れる音を立てた。それは刃を研ぐ音のように響いた。

唇を吊り上げ、冷たく告げる。

「最初から俺は『お前のものではない』なんて言っていない。

『お前のものではない』と叫んでいたのは――お前自身だ。」


沈黙が降りた。重さは甕のように圧し掛かる。

雨音は更に近く、まるで店そのものが雨の中へ引きずり込まれるかのよう。

店員は顔を上げられず、ただ椅子が引かれる音と、引き戸が開く音と、雨風が吹き込む気配を聞いていた。

恐る恐る視線を上げると、卓上には滲んだ遺言の紙と酒の跡だけが残っていた。

常連客は小さく呟いた。

「裁きだったのか……それとも鏡だったのか……」

俺は戸口に立ち、木の閂に手をかける。振り返り、淡々と一言だけ残した。

「今夜は雨が強い。帰り道、刀で自分を斬らぬようにな。」

戸を開け放つと、風雨が一気に吹き込む。紙提灯が梁に叩きつけられるほど揺れた。

俺は一歩外に出て、足元で雨粒が弾けるのを見届けた。

振り返らず、そのまま闇に溶けていった。

背後には、滴る雫の音だけが残った。――時を刻むように。


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