56. 駆けつけたい
「あのさ。ちょっと心配なんだ」
そう言って、佐藤はこっそり琉生に耳打ちした。
想太のことだ。
この前、仕事で琉生が先に帰った日のことらしい。
「泣いてた?」
琉生が小声で聞き返すと。
「うん。まちがいなく」
佐藤がうなずく。
「いや……花粉症なの?って、オレが訊いたから、それにのっかることにしたみたいだけど」
「クラスで何かあったのか?」
「いや。とくに、何もなかったと思うけど。6限の漢文の授業のあと。涙がぽろって……」
「……なんだろう。仕事で何かあったって話は聞かないし」
琉生は必死で考える。
「まあ、とにかく、ちょっと気をつけて様子を見てた方がいいと思う。いつもほんわかゴキゲンなヤツが、あんなふうに涙こぼすなんて……ちょっとびっくりしたよ」
そして佐藤は、頼んだぞと、琉生の肩をポンポンたたいた。
このところ、2人は仕事の現場が別々のことも多くて、ゆっくり話す時間もなかった。それでも、大事な相棒がそんな状態になっていることにまるで気づかずに過ごしていた自分が情けない。
琉生は、一生懸命思いを巡らせる。
想太がそんなふうになる原因。
なんだろう。
想太は、いつも機嫌がいい。いつだってニコニコしているし、まずめったに怒ることもない。どんな人とも、すぐに仲良くなるし、誰かとケンカするとか揉めるとか、そんなことも、まず考えられない。
第一、彼が人とケンカして泣くなんてことはあり得ないだろう。
それなら、家で何かあったのか?
それはもっとあり得ない。
琉生の知る限り、彼の家族はとても仲がいい。両親と彼は実の親子ではない。でも、そんなことは全く関係ないくらい、羨ましいほどに彼らは仲がいい。
じゃあ、何だ?
……直接聞いてみた方がよさそうだ。
さいわい、今日の夕方、2人でダンスレッスンに行く予定がある。
「琉生くん、今日は、部活、どうする?」
お昼休み、織田 空が声をかけてきた。
「あ、うん。ほんとは、行くつもりだったけど、ちょっと予定が出来てしまって……」
「そっかぁ。残念やね」
空の顔が少し淋しそうに見える。自分がそう思ってみるからかもしれないけど。
「想太とね、ダンスのレッスンがあって」
「そう、いろいろ忙しいね。今日はね、テーマが詩でね。漢詩でも短歌、俳句、普通の詩でも、なんでもOKで、自分の好きな詩を紹介し合うねん。また、先生がおやつ買ってきてくれるって。今日こそ、白味噌だれのお団子をゲットしてくるって、朝から気合い入れてたよ」
詩か。すごく好きなテーマだ。
自分で作詞をするようになってから、古今東西、いろんな詩に興味をもっている琉生だ。
「残念。行きたかったな……」
ため息交じりに言うと、
「じゃあ、琉生くんの分、お団子、とっておこうか? ラップかけて冷蔵庫に入れといたら、明日でもレンジして食べたらいいしね」
部室には、冷蔵庫もレンジもある。
「え。あ、うん」
空は、お団子のことを琉生が残念がっていると思ったらしい。
いや。確かに半分はそうなんだけど。
この前、文芸部で食べたお団子がやけに美味しくて、琉生は余ったお団子の争奪戦ジャンケンに勢いで参加してしまった。そして、みごと勝利し、歓喜しつつ食べたのだ。
そのせいで、部内では、すっかり『お団子lover琉生』のイメージがついてしまったらしい。
「詩の方もね、話題に出たものは、ちゃんと記録メモ取って、あとで、見られるようにするからね」
空が続ける。
「ありがと。そう言えば、この前漢文の授業で漢詩やったよね」
琉生は、訊く。
「そうそう。白居易と李白。琉生くん、好きな漢詩ある?」
「う~ん。まだそんなに知らないけど……李白の『月下独酌』かなぁ」
「ああ、いいよね。李白がお酒飲んで酔っ払って、お月様と自分の影と一緒に踊ってる、っていうやつね。でも、陽気にしているように一瞬思えて、実は孤独を感じつつ泣いてるのかも……って」
「そう。映像を思い浮かべると、なんだかすごくいいなあって。白居易のはどうだったかな」
「あ。あの日、お休みしてたよね。えっとね」
空が、その日の授業のメモを取ったノートを見せてくれる。
白居易が部下でもあり友人でもあった人に贈った『殷協律へ贈る歌』という詩だ。
その詩にさっと目を走らせる。
『雪月花時 最憶君』
その1行が目にとまる。
そばに、その解釈が書き込まれている。
それを読んで琉生は思った。
(これかもしれない)
そんな予感がする。
想太を泣かせた1行は。
「ありがとう」
丁寧な文字で書かれたノートを空に返そうとすると、
「もしよかったら、それ持っててくれて、大丈夫」
「え? でも」
「実は、それ、今まで、琉生くんが休んでた日の授業、まとめたノートやから」
そう言われてページをめくると、教科はいろいろ混ざっている。自分が抜けた授業の分を科目問わず、日付ごとに書き込んだものらしかった。
「想太くんの分は、佐藤くんがまとめてる」
「え……」
琉生は一瞬のうちに、胸が熱くなって、想太じゃないけど、自分が泣きそうになる。
「私のノートで、もし物足りなかったら、佐藤くんにも見せてもらってね。それと、ノートよりルーズリーフに書いてバインダーにまとめるほうがいいのかな? そしたら書いてすぐにバラで渡せるから効率いいかなって、佐藤くんとも話してて……」
「……ありがとう。ノートでもなんでも、嬉しいよ。織田さんたちのやりやすいようにしてくれたら。ほんとに感謝してる! でも、絶対、無理しないでね。」
「大丈夫! バッチリ復習できるから、かえって勉強になるしね」
空の笑顔が眩しい。
「ありがとう」
心を込めて言いながら、本当に泣きそうになる。
そして、琉生は考える。
人が泣くときは、どんなときか。
悲しいとき。
悔しいとき。
淋しいとき。
嬉しいとき。
いずれにせよ、心が大きく動くときだ。
自分は、今のところ、嬉しいとき。
嬉しすぎるとき、だろうか。
周りの人の温かさを実感するとき、だ。
想太は。
想太はどうなんだろう。
悲しくても悔しくても、笑って乗り越えてきた、想太と琉生だ。そう思う。
ならば。
今、想太が感じているのは。
淋しさ、なのかもしれない。
もう乗り越えたと思っていた、淋しさ。
それが、再び想太を揺さぶっているのかもしれない。
いつも笑顔の想太の、心の奥にあるものを、少しは知っているつもりの琉生だ。
以前、車にひかれそうになった子どもを助けて、琉生が頭部を強打し意識を失ったときのことを思い出す。なかなか意識が戻らない琉生のそばで、琉生本人より真っ青な顔をして付き添い、やっと意識が戻ったとき、声を上げて泣いた想太。心配症で、さみしがりやの想太。
(ごめん。想太。もっとちゃんとおまえのこと、見とけばよかった。気づかなくて、ごめん……)
琉生は、一刻も早く想太のそばに駆けつけたい思いで、いっぱいになる。




