55. 雪月花時 最憶君
「あれ? 想太。目、どうかしたの?」
佐藤に言われて、想太は自分の目から涙がこぼれていたことに気がついた。
「あ。いや、なんかこの頃、目がかゆかったり、うるうるしたりして。……花粉かな?」
苦し紛れに口にした想太の答えに、佐藤はあっさり納得してくれて、
「かもしれんな。けっこう、オールシーズン、何かしらの花粉に反応する人いるからね。うちの親も、耳鼻科の壁に貼ってある花粉カレンダー見ると、2月の厳寒期以外、全部該当する花粉があるって、よくぼやいてるからな」
佐藤が気の毒そうに言う。
「やっぱ、そうか。そうかもしれへんなと思ってたけど。やっぱ、花粉か~しゃあないな~」
何食わぬ顔で、想太は佐藤の言葉に合わせつつ、笑いながら、堂々と目をこすって、涙を拭いた。
ほんとは、花粉じゃない。
そのことは自分が一番よくわかっている。
でも、まさか、無意識に涙が出ているとは思わなかったので、想太はちょっとショックだった。
最近、少し変なのだ。重症だと言っていい。
時々、胸がきゅう~っと締め付けられるように苦しくなったり、胸に大きな風穴があいているみたいに感じたり。そうかと思うと、胸の奥から熱い塊が湧き上がってきて、知らない間に涙がわいてきたりするのだ。
仕事をしている間は忘れているのだが、ホッと気が緩んだ瞬間があぶない。
今日も、ついさっきの漢文の授業で、白居易(白楽天)の漢詩を勉強している最中に、その症状が現れた。
そのとき読んでいたのは、『殷協律へ贈る歌』という詩だ。
その詩は、白居易が部下でもあり友人でもあった人に贈ったもので、その中の、
『雪月花時 最憶君』
という1行に、想太はノックアウトされてしまったのだ。
『雪や月、花がきれいなとき、最も君を思う。一番に君を思い出す』
(雪月花の美しさを見ると、君にもぜひ見せたいと思う。その感動を共にし、語り合いたい。それなのに、その思いを誰より伝えたい君は、もうそばにいない)
そんな感じだろうか。
想太の胸にはじわじわと熱い塊が湧き上がってきた。
そして、かろうじて、目の中にとどめたと思っていた涙は、授業が終わって気が緩んだ瞬間に、頬を転がり落ちていたらしい。
5歳の頃からの幼なじみ、みなみに、さよならを告げられて以来、想太の胸の中には、ぽっかりと大きな穴が空いている。
お互いの夢を大事にするために、さよならしようと告げられて、頷くしかなかった想太だ。
せめてもの救いは、彼女がこれまでもこの先もずっと大好きだと言ってくれたことだ。
大好きなみなみに、「もう嫌いになったから」なんて言われていたら、想太はめちゃくちゃへこみまくっていただろう。
ちょっとやそっとではへこたれない方だと思うが、ずっと一緒に時を過ごしてきたみなみとの別れは、想太には、思っていた以上の痛手になっていた。
それでも、琉生の存在のおかげで、淋しさはずいぶん救われたのだ。
だから、自分は大丈夫。そう思っていた。
でも。
なぜだろう。
淋しさは、じわじわとボディーブローのように効いてくるのだ。
美味しいものやキレイなもの、嬉しいことなど、何かに出会って心動かされたとき、それを共有できる大切な存在を、想太はなくしてしまったのだ。
もちろん、想太には、琉生がいる。
人生の中で、彼との出会いは、運命だとさえ思っているほどの、大事な相棒だ。
けれど、みなみは、想太にとって、琉生とは違う、また別の大切な存在だったのだ。
そう認識するたびに、いつも胸の中で想いが膨れ上がって、息が苦しくなってくる。
だから、よけいに、
『雪月花時 最憶君』の1行が胸に応えた。
どんなに思い出しても、もう君はそばにはいない。
そう思うと、胸が詰まって、涙がわいてきてしまう。
もしかして、白居易も同じような淋しさを味わっていたのだろうか。
(オレ、あかんなぁ。案外、ヘタレすぎ……)
想太は、つい自分が情けなくなる。
一方、相棒の琉生は、今、文芸部に入って、ちょっと嬉しそうだ。
もちろん、仕事の合間に、ごくたまにほんの少し顔を出すだけだ。それでも、学校にクラス以外の居場所が出来たことを、彼がとても喜んでいるのがわかる。
「想太も入る?」と訊かれたけど、
「うん……今はいい」と想太は答えた。
今、文学作品に触れる機会を増やすのは、キケンだった。
教科書の文章ですら、心ゆさぶられてしまうのに、文芸部で読書会なんかに参加したら、涙腺が持ちこたえられそうにない。
先日、琉生と仕事のスケジュールが別々だった日に、
『文芸部 入った』
琉生から、メッセージが届いて、想太はすごく驚いた。
なぜなら、朝会ったときには、そんな話はひとかけらも、琉生の口から聞いてはいなかったから。
雨の中を、1人わびしく帰りかけていた琉生を、倉内先生が呼び止めて、部活に連れて行ってくれたのだという話をあとから聞いて、想太は、ほんとによかったと思った。
琉生が、図書委員という、織田 空との接点がなくなって、すごくさみしがっているのを、想太は知っていたから。
もちろん、琉生が口に出してそう言ったわけではない。でも、想太にはわかる。
琉生が、空のことをずっと気にかけていることを。
彼が自分の感情の正体をよくわからないままでいることを。(もしかしたら、敢えて、わからないままでいようとしているのかも)
それでいて、彼女の存在を胸の中で大事に抱えていることを。
これまで想太の知る限り、琉生が誰か1人の女の子のことを気にしたり、心に留めたりすることはなかったから、もしかしたら、これは琉生の初恋なのかもしれない。そう思って、想太は応援しようと心秘かに決めているのだ。
もちろん、自分たちがアイドルを目指す以上、個人的に女の子と付き合うなんて許されないことだとわかっている。だからこそ、自分とみなみも別れたのだし。琉生もそれはわかっているはずだ。
でも、心の中で誰かを好きでいることは、誰にも止められないとも思う。
アイドルだって、誰かを好きになってもいいんじゃないのか、そう思う。
想太は、ふと思ってしまう。
心の中で抱いているだけの想いでも、それは、ファンの人たちへの裏切りになるんだろうか。
ファンの人たちを喜ばせたい、幸せな気持ちになってほしい。
そのために、歌もダンスもお芝居も、精一杯がんばっている、想太たちだ。
でも、それだけじゃ……ダメなんだろうか。
心の中まで全部、ファンの人のために捧げることが、アイドルには必要なことなのだろうか。
ぐるぐる考えていると、再び、目が熱くなってくる。
「想太。花粉、相当やばそうだね。今日は、もう仕事ないんでしょ? 俺と一緒に帰らない?」
隣りにいた佐藤が声をかけてくる。
今日、琉生は仕事で早退したので、帰りは1人の予定だった。
でも、こんなとき、1人では帰りたくない。想太は救われた気分になった。
「うん。一緒に帰ろう。オレ、なんか、今日、めっちゃ不調。目ぇしょぼしょぼして、涙、止まらへん」
「そういうときは、早く帰って、寝るのが一番。なんなら、家まで送ってやるよ」
佐藤の温かな声が胸に沁みて、想太は、思わずうなずいた。




