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44. 言えない ”いいこと”


「あ……」

 琉生は、図書館の中で、見覚えのある姿を見つけた。

 実は少し期待して探していたのだ。だから、見つけた瞬間、ほっと胸が温かくなった。


 古い文学全集の棚の前で佇んでいる生徒。

 織田 空だ。

 彼女は、人気もひとけもない古い棚の前に立ち、そっと手を合わせ、熱心に何事かを祈っているようだ。




 中学のとき、“学校図書館の古い全集の棚の本を読んだら、いいことが起こる”

 そんなジンクスを、空が話していた。


 それで、琉生も試しに全集の中の短編をいくつか読んでみたことがあった。

 確かに、いいこと、というか嬉しいことが幾度かあった。

 一番大きいところでは、映画の出演依頼だ。

 でも、これは、情報解禁まで誰にも言えないので、空に話したことはない。

 そして、それ以外の嬉しいことと言えば、これまた、空には言えないことだった。

 だから、琉生は、そのジンクスが自分にも効き目があったという話を、まだ一度も空にしたことはない。


 中学時代、教室では琉生と空の席は離れていたし、休み時間は意識して男子の中で過ごすようにしていた琉生には、図書委員の当番の時以外、ほとんど彼女と話すチャンスがなかった。

 席が近ければ、もっといろいろ話せるのにな。

 もどかしい。話したい。そう思った。

 心置きなく、本の話がいっぱいできる相手は、これまであまりいなかったから。


 それで、昼休みや休み時間に、琉生も時々図書館に行ったのだ。

 当番以外でもよく図書館に行くと、空が話していたから。

 偶然にでも会って話せたらいいな――――そう思って。

 

 ただ、琉生が図書館に行っても微妙にタイミングが合わず、空には会えずじまいのことも多かった。

 そこで、琉生は空の話を思い出して、古い全集の棚から本を取り出し、中の短編を読んでみた。

 

 すると、そのあと、彼女と廊下でばったり出くわしたり、思いがけず一緒に図書館へ行くことになったりしたのだ。効果は絶大?だった。

(すごい。……ジンクス、本当かも)


 “全集の棚の本を読むといいことがある”

 だから、琉生は、そのジンクスを秘かに信じていた。

 でも、その“いいこと”が、空に会えたことだとは、まさか本人には言うわけにもいかず、結局、心の中で、(このジンクス、すごい)と思うにとどまっている。

 そういえば、彼女の“いいこと”って、何だったんだろう?

 彼女は、個人的なことだから、とその中身は教えてくれなかったけど。



 高校に入学してすぐ、琉生は高校の図書館に行ってみた。

 中学の図書館より、広さも蔵書数も遥かに規模が大きくて、新しい。昨年リニューアルしたばかりらしい。

 楽しみだ。卒業までの間にどれだけ読めるだろうか。

 仕事も勉強も忙しくなるとは思うけど、本を読むことは、琉生にとって、息をするのと同じくらい、ごく自然なことだ。数万冊もの蔵書が並ぶ棚を眺めていると、幸せな気持ちになってくる。


 ワクワクしながら館内を巡る。新刊書もいっぱいだ。

 あちこち歩いて行くうちに、やがて全集の棚に行き当たった。

 新刊書の棚もいいけれど、それでも、古い全集の棚が中学の時と同じような場所と空気感で存在しているのを見て、琉生はすっかり嬉しくなった。

 もしかして、ここも……と思って、ちょっと期待しているのだ。


 中学の図書館のジンクスと一緒に、太宰の『畜犬談』や、芥川の『芋粥』、中島敦の『山月記』などの作品のことも琉生は思い出す。


 あるとき、空がうつむきがちに、『山月記』の一節を唱えながら廊下を歩いていたことがあった。

「臆病な自尊心、尊大な羞恥心、またそれゆえに切磋琢磨をしなかった怠惰のせい……」

 うつむいてそう呟きながら廊下の曲がり角の向こうから歩いてきた空が、そのまま琉生の制服の胸に飛び込んできたのだ。

 一瞬すごく驚いた琉生だけれど、何でもない顔で、穏やかにほほ笑んで、

「山月記?」 と彼女に声をかけたのだった。

 

 あのときの、空のびっくりした顔。

 焦って謝る彼女が可愛くて、ついからかいたくなって、

「大丈夫。腹筋鍛えてるから、織田さんの頭突きくらったぐらいではなんともないよ」なんて、ふざけて言ったっけ。


 そして、「臆病な自尊心、尊大な羞恥心、またそれゆえに切磋琢磨しなかった怠惰のせい……」という言葉を覚えようと思ってと言いながらも、なんだか、へこんでみえる彼女に、

「山月記の、あの言葉、こたえるよね。僕も初めて読んだとき、胸にグサグサ刺さりまくりだった」

 琉生は言った。そして、

「でもね、大事な戒めにはなると思うけど、そればっかり気にしてると、顔が下向いちゃうから。あんまり考えすぎないでいいと思うよ」と付け加えた。

 うん、と彼女がうなずいたとき、ぴょこっと髪がはねているのが目に入った。さっきぶつかったときに乱れたのだろう。思わず、琉生は手を伸ばして彼女の髪に触れてしまった。

「髪、クシャクシャになってる。ちょっと待って……ほい。これで、よし」

 なんでもないことのように言って、ポンポンと彼女の髪をおさえ、笑って見せたけど、彼女はびっくりしているし、実は――――琉生自身も、びっくりした。


(うわ。何やってんだ、自分)

 焦った琉生は、

「じゃあね。図書館行ってくる。予約してたのが届いたんだって」

 そう言うと、大急ぎで彼女のそばを離れたのだった。

 



 今、全集の棚の前にいる空を見て、ついつい中学の時のことを琉生は思い出してしまう。

 そんなふうに、思い出してしまうのは、今、空との接点があまりにも少ないせいだ。

 少なすぎて、中学時代、毎週のようにすぐ隣で過ごした放課後の時間が、やたら懐かしく思えてしまう。


 残念なことに、琉生も彼女も、今回、図書委員から、はずれてしまったのだ。

 中学の時とはちがって、図書委員を希望する生徒が案外多かったせいだ。

 琉生の代理でジャンケンをしてくれた佐藤は、「ほんとにゴメン!」と申し訳なさそうに何度も謝ってくれたが。もちろん、仕事で早退した琉生の代わりに希望を伝えてくれただけでも感謝だし、空も図書委員からはずれてしまったのなら、自分もはずれてよかったのだと思う。

 そして、想太も同じように放送委員からはずれてしまった。彼は案外さばさばと、

「しゃあないで。それに、仕事忙しくなりそうやし、これでよかったんかもしれへん」と言った。

「そうだね。まあ、またの機会、だね」

 なんとか気持ちを切り替えはしたものの、“放課後の図書館のカウンター”という楽しみは、残念なことに消えてしまった。

 



 でも、こうして、思いがけず昼休みの図書館で、空の姿を見つけて、琉生は、心の中で、よっしゃ! とつぶやき、こぶしを握った。ラッキーなことがあると、想太がよく口にする言葉と仕草だ。

 

 琉生は近づいていって、声をかける。

「もしかして、ここの棚も、読むといいことがあるの?」

 琉生の声にハッとして、顔を上げた空の顔が輝く。そして、こくこくと頷く。

「……そんな気がする」

「そっか。じゃあ、僕も読もう。織田さんは、もう読んだの?」

「ついさっき……」

「どれ読んだ? 何かおすすめはある?」

「ん~。あのね、おすすめって言うか、ちょっと議論したくなる本がある」

 空の、『あのね』を聞くのは久しぶりだな、そう思いながら、訊く。

「誰の本?」

「森鴎外」

「鴎外か。もしかして、『舞姫』?」

「そう。まさにそれ! ……なんでわかったん?」

「いや、たまたま」

 偶然、琉生が先日から少しずつ読みかけていた本だった。

「琉生くんは読んだ?」

「ん、いや、まだ途中」

「じゃあ、最後まで読んだら教えて。ぜひ、意見交換しよう」

「あ、うん」


 教室で話すことがめっきり減って、少し彼女が遠くなってしまった気がしていた。

 それに、なんだか元気がないようにも見えて、ちょっと気になっていたのだ。

 でも、やはり、空は空だった。

 本の話を始めると一気にお互いの距離が縮まる。そして、本の話をする空は、めちゃくちゃ元気だ。

「あ。そうや、おすすめの本! 思い出した!」

「え、なになに?」

「青山美智子さんの『月の立つ林で』っていう本。文庫で出てるの、最近買って読んでん」

「お。青山美智子さん、いいな。読みたいな」

 琉生も好きな作家さんだ。 (※『月の立つ林で』青山美智子/ポプラ社)

「読む? 今日ちょうど持ってるよ。今朝の電車の中で読み終わったから」

 空の声が弾む。

「貸してくれる?」琉生は訊く。

「もちろん! じゃあ、あとで渡すね」

 はじけるように元気な笑顔が返ってきた。


 

 本を借りにカウンターへ行く、空の後ろ姿を見ながら、琉生は心の中で、そっと全集の棚に手を合わせる。

 ここの棚にも、どうやら同じ効き目があるらしい。

 全集の棚の本を読み始めたら、空と久しぶりに話せた。


 もしかして、図書館の神様同士の横のつながりとかネットワークがあって、それで、神様たちみんなで“文学全集も読んでねキャンペーン”やろうってことになったとか?

 空だったら、「ほんまや。きっとそうかもしれん」って笑って、その話の続きを考えてくれそうだ。

 うん。あとで言ってみようか。


 久しぶりに、ちょっと、いや、かなり嬉しくて、琉生は自然に笑顔になった。



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