8.魅了の能力
「ああ、イアマ嬢」
ニコリと微笑みかけながら、ヴァーリックがオティリエを背後に隠す。彼はほんの一瞬だけ、オティリエのほうを振り返った。
【ここにいて】
(……え?)
ヴァーリックの心の声が頭の中で響く。オティリエはそっと首を傾げた。
【僕はまだ君と話したいことがある。だけど、これ以上君のお姉様を待たせることはできないみたいだ】
(伝えたいこと……?)
オティリエにはそれがなんなのか、見当もつかない。けれど、おそらくは心のなかで一方的に伝えればいいという内容ではないのだろう。
「そろそろわたくしからも殿下にご挨拶をさせていただいてよろしいでしょうか? 殿下にお会いできるこの日を、本当に楽しみにしていましたのよ」
【さあ、さっさとわたくしに魅了されなさい?】
イアマがそっと瞳を細める。オティリエはハッと息を呑んだ。
(どうしよう! 殿下はお姉様の能力をご存知ないはず)
先ほど父親がイアマの能力を伝えた相手は王妃だけだ。ヴァーリックは少し離れたところにいたため、二人の会話は聞こえていないはずである。
(なんとかして殿下にこのことを伝えないと)
けれど、オティリエからヴァーリックに心の声を伝える術は存在しない。おまけに、オティリエはイアマがどのように能力を使うかを知らないため、対処法もなにもわからなかった。
【なるほどね……精神撹乱系の能力か】
とそのとき、ヴァーリックの心の声が聞こえてきた。オティリエはハッと顔を上げ、ヴァーリックのことをまじまじと見上げる。
【『魅了』――いや、ここまで強いなら、もはや『洗脳』といったほうが正しいかな。どうだろう? ……オティリエ嬢、もしも僕の見立てが正しかったら、左手を握ってくれないかい?】
ふと見れば、ヴァーリックはさりげなく背中の後ろに手を回している。オティリエは急いで彼の手を握った。
「はじめまして、イアマ嬢。お会いできて光栄だよ」
ヴァーリックはオティリエの返事を待ったあと、イアマに向かって挨拶を返す。すると、イアマはピクリと眉間にシワを寄せた。
【どうして? なんでわたくしの能力が効いていないの? 本来なら、わたくしに跪いて愛を乞うはずなのに】
(……え? お姉様はすでに能力を発動しているの?)
ヴァーリックがあまりにも普通にしているため、オティリエはイアマが彼を魅了しているとは思っていなかった。とはいえ、それならなぜ、ヴァーリックにイアマの能力がわかったのかも不思議なのだが……。
「わたくし殿下にお会いしたくて、これまでたくさんの夜会に出席してきましたの。今夜までお会いできずにおりましたが……」
「あいにく公務が忙しくてね。社交については公務を通じて行うようにしているんだ。案外いろんな情報が手に入るものだよ。君の噂もよく聞いている。とても魅力的な女性だってね」
「まあ、嬉しい! 殿下の瞳にもわたくしは魅力的に映りますか?」
「ええ、もちろん。とても魅力的に、ね」
ヴァーリックのセリフに、イアマは瞳を輝かせた。
(もしかしたら、ヴァーリック様はお姉様の噂から能力を推測したのかしら? だから魅了を回避できたの? だけど今は? 魅了が効いてきているのかしら?)
知りたいことはたくさんあるが、ヴァーリックの心の声は聞こえてこない。オティリエはヤキモキしながら二人のやり取りを見守り続ける。
「実はここ最近、夜会の場で貴族たちの婚約破棄が相次いでいてね……。しかも、原因はいつも同じ。男性側に存在するんだ。『別の女性に魅了されてしまった。君とは結婚できない』とわざわざ他の参加者たちの前で宣言をするんだそうだよ」
「まあ、そんなことが……! 婚約を破棄されたご令嬢は気の毒ね」
イアマはそう返事をしつつ、心のなかで小さく笑う。
【魅力が足りないって本当に気の毒だわ。大体、盗られるのが嫌なら、夜会に一緒に出席して他の女に見せびらかしたりせず、大事に隠し込んでいけばいいのよ】
(え……?)
もしかして、原因はイアマにあるんだろうか? 彼女が婚約者のいる男性を魅了し、彼らの結婚を意図的にダメにしているのだとしたら――大変なことだ。
【やっぱりそうだ。彼女の能力はターゲットと視線を合わせる必要があるみたいだね】
(視線?)
すると、ヴァーリックの心の声が聞こえてきた。オティリエは背後からそっと彼の表情をうかがう。
【もちろん、イアマ嬢は美しい容姿の女性だけど、存在そのもので相手を魅了し、操っているわけじゃない。だから、彼女の姿を見た人間全員が彼女に魅了されるわけではないんだ。それから、たった一度視線を交わした程度なら、そこまで大きな影響はない。相手を意のままに操るためにはある程度の時間か回数が必要みたいだね。おそらくだけど、効果も永続するわけではないと思う】
(そうだったんだ……)
十六年間同じ屋敷で育ってきたというのに、オティリエはイアマの能力についてなにも知らなかった。しかし、ヴァーリックの立てた仮説はとても理にかなっている。マナー講師の様子がおかしくなったのは講義をはじめてから数日後のこと。おそらくはイアマに接触したあとだろう。それに、この会場にいる人間全員がイアマに魅了されている様子はない。ヴァーリックはほんの少しの間に、それらの事実を見抜いたのだろう。
【――どうなっているの!? ヴァーリック殿下ったら、全然わたくしに魅了されている感じがしないわ! さっきから何度も何度も目を合わせているはずなのに! こんなこと、今まで一度もなかった! どうして!? どうしてなのよ!】
と、イアマの声が聞こえてくる。絶叫にも似た声。どうやら焦っているらしい。
【このままじゃ埒が明かないわ。もっと殿下に近づかないと】
そう聞こえるやいなや、イアマはフラリと体勢を崩した。ヴァーリックがイアマを抱きとめる。彼女は下を向いたままニヤリと口角を上げた。
「まあ、ヴァーリック殿下……申し訳ございません。少し、立ちくらみがしてしまって」
イアマがゆっくりと顔を上げる。これまでよりもヴァーリックとの距離がずっと近い。
「助けていただいてありがとうございます。……それにしても、殿下の瞳って美しいですわ。わたくし、ついつい魅入ってしまって……もっと近くで見せてください。ああ、本当に息が止まってしまいそう」
イアマはそう言って、ヴァーリックの頬にそっと触れる。彼の目元を撫でながら、ほぅと悩まし気なため息をついた。
【これなら絶対に殿下を魅了できるはずよ】
極上の微笑みを浮かべつつ、イアマはヴァーリックに熱視線を送る。ヴァーリックは彼女の瞳を覗き込みつつ、ニコリと微笑み返した。
「それは大変だ。急いで屋敷に帰ったほうがいい」
「…………え?」
その途端、イアマの笑顔が引きつる。ヴァーリックは近くにいた使用人を呼び、イアマを引き渡した。
「アインホルン侯爵に伝えてくれ。イアマ嬢は気分が優れずお帰りになる。心配だから一緒に付き添うように、と。僕からの命令だと添えるように」
「ハッ」
使用人がイアマを侯爵のもとに連れて行こうとする。しかし、イアマは首を横に振りながら、使用人を強く押しのけた。
「ちょっと待って! わたくし平気ですわ。少しめまいがしただけで……」
「息が止まりそうだと言っていただろう? めまいだからと侮ってはいけないよ? それに、流行り病だったら大変だ。他の人に迷惑がかかってしまうだろう?」
「そ、れは……さっきのはただの言葉の綾で…………本当に具合が悪いわけでは」
イアマの頬が恥辱で紅く染まっていく。
「それにね――」
ヴァーリックはニコリと微笑みつつ、オティリエにそっと目配せをした。
「僕たち王族が出席している夜会で婚約破棄なんて起こったらたまらないからね」
「そんな……! あれはわたくしのせいでは――」
「別に僕は『君のせい』とは言っていないよ。ただ、相次いで起こった婚約破棄の現場にイアマ嬢が毎回いた。婚約破棄を宣言した貴族たちが魅了された女性として名前があがったのも君だった。だから、君がこのまま夜会に出席し続けるのは好ましくないと言っているだけなんだ」
「なっ……!」
【なによそれ! 結局わたくしが悪いって言いたいんじゃない! こんな……こんな屈辱的なことってないわ!
その途端、憤怒に満ちたイアマの絶叫が聞こえてくる。オティリエはヒッと大きく息を呑んだ。
【大丈夫】
次いで聞こえてくるヴァーリックの声。彼はオティリエの手を握ると、そっと瞳を細めた。
【こうしたら聞こえない。だから怖がらなくていい】
ヴァーリックが言うやいなや、なぜかイアマの声が遠ざかっていく。彼女の表情を見るに、おそらくはまだ心のなかでヴァーリックへの恨み言を叫んでいるはずだ。けれど、まるで耳をふさいでいるかのように、オティリエの心には響いてこない。
ヴァーリックが改めて合図をすると、使用人がイアマを連れて行く。怯えつつ、あとに続こうとしたオティリエをヴァーリックがそっと引き止めた。
「ああ、オティリエ嬢のことは安心していい。まだ話が残っているし、彼女は僕が別の馬車で屋敷まで送り届けるから」
「えっ? でも……」
【あの状態のイアマ嬢と一緒の馬車に乗りたくはないだろう?】
ヴァーリックの声が聞こえてくる。オティリエは思わず泣きそうになった。
「なっ! どうして! どうしてオティリエばかり――っ!」
イアマは悔し気に顔を歪ませつつ、ヴァーリックたちから遠ざかっていく。オティリエは思わず事態に目を丸くした。
来週は更新が少なめな予定です。(できる限り頑張りますが)よろしくお願いします。