【番外編3】他の誰にも
それは神殿の事件について糸口が見つかり、ヴァーリックの執務室が不夜城と化したときのことだ。
「ヴァーリック様とオティリエさんはそろそろお部屋にお戻りください」
時計を確認しながらエアニーがそう言った。日付は疾うの昔に変わっており、補佐官の皆が目をこすっている。机の上にはありとあらゆる資料が積み上げられていて、全く片付きそうな気配がない。
「いえ、私はもう少しここに残らせてください。まだ眠くありませんし、このまま働けますから」
オティリエの返事を聞いたあと、エアニーは首を横に振った。
「駄目です。睡眠を取らないと作業効率が落ちますから。一日二日で片がつく仕事なら話は別ですが、今回は長丁場になります。今は帰って休んでください」
「けれど、エアニーさんたちは残るのでしょう?」
「残りますが、これからこの部屋で交代で仮眠を取ります。女性のオティリエさんにはそんな真似はさせられませんので、部屋にお戻りください」
「だけど! ……そう、ですね」
エアニーも他の補佐官たちも、オティリエを仲間はずれにしたいわけではない。女性だからといって差別をしたいわけでもない。長時間の深夜労働や、男性とともに仮眠を取ることが好ましくないからと心配をしてくれているだけなのだ。
エアニーは特にオティリエのことを心から心配してくれていて【オティリエさんは能力を駆使して疲れているだろうし、倒れてほしくないんです。オティリエさんは捜査の要ですから】と考えてくれている。
(だけど、私は皆と一緒に働きたいのに)
シュンと落ち込むオティリエの肩をヴァーリックが叩いた。
「オティリエ、君の気持ちはよくわかる。だけど、今夜はいったん帰って休もう。体を壊しては元も子もないからね」
「……わかりました」
オティリエは荷物をまとめると、誰にもバレないように小さくため息をついた。
女性に生まれたことをこんなにもどかしく思うのははじめてだった。まだ働いている同僚たちに申し訳ないという気持ちも強く、なんとかこの場に残れないものかと考えてしまう。もちろん、エアニー以外の他の補佐官たちも、そんなことをしたら喜ばない――彼らの心が読めるオティリエには、そうわかっているのだけれど。
「それじゃあ行こうか」
ヴァーリックに促されオティリエは執務室を出た。後ろ髪を引かれる思いで、執務室の扉を振り返る。
(戻っていいよ、って言ってくれたらいいのに)
だが、エアニーの性格を鑑みるに、絶対譲ってくれないだろう。
ヴァーリックに挨拶をして今夜は部屋に戻ろう――そう思った時だ。
「部屋まで送るよ」
ヴァーリックからそう言われて、オティリエは目を見開いた。
「そんな……! 駄目ですよ。早くお休みにならないと。私の部屋まで送っていただいたら、時間をロスしてしまいます」
「平気だよ。僕だって本当は執務室に残ってみんなと仕事がしたいんだ。だけど、エアニーが頑として譲らないってわかっているから、仕方なく部屋に戻るだけだし」
「だとしても、そんなことはさせられません。私はひとりで平気ですから」
失礼にあたるとわかりつつも、オティリエは返事をしながら私室の方向に向かって小走りをする。けれど、ヴァーリックは逃さないとばかりに、オティリエの後を追ってきた。
「いくら城内とはいえ、こんな時間に女の子一人じゃ危ないだろう? というか、僕はオティリエが心配なんだ」
「で、でしたら、騎士を一人つけていただければそれで……」
「嫌だ」
ヴァーリックが言う。いつになくきっぱりとした物言いに、オティリエは思わず立ち止まってしまった。
「僕に送らせてよ……お願いだから」
手を握られ、まっすぐに見つめられ、オティリエの心臓がトクンと鳴る。
「それじゃあ、その……よろしくお願いします」
ためらいがちにそうこたえたら、ヴァーリックは嬉しそうに笑った。
使用人たちが暮らす塔までの道のりを二人並んで歩く。少し離れた位置から護衛騎士がついてきてくれていた。
(なんだかとても申し訳ないわ)
こんなふうにヴァーリックや騎士の手を煩わせるのが悔しい。オティリエが唇を引き結んでいると、ヴァーリックが「どうしたの?」と尋ねてきた。
「すみません。私が男性に生まれてきてたら、もっとヴァーリック様のお役に立てたのかなぁって思ってしまって……」
オティリエの返事を聞いて、ヴァーリックは「えっ!?」と目を見開く。
「どうして? オティリエが男性だったら僕は困るよ。というか絶対嫌だ」
「だけど、男性だったらもっと体力もあったでしょうし、執務室で仮眠を取ることもできましたし、こうしてヴァーリック様に送っていただく必要もなかったわけで」
への字型に眉を下げるオティリエを見つめながら、ヴァーリックはそっと目を細めた。
「女性には女性にしかできないことがあるんだ。そんなふうに気にしなくていいんだよ」
「……そうでしょうか?」
だとしても、悔しいものは悔しい。オティリエの瞳に涙が滲む。
「それに、オティリエを送りたいっていうのは僕のエゴだ。そんなふうに思われたら、少し寂しい……かな」
ヴァーリックがほんのりと眉を下げる。オティリエはあわてて「すみません」と口にした。
「謝らないでよ。これは僕のエゴ――わがままなんだから」
ヴァーリックはそう言うと、オティリエの手をそっと握る。オティリエの心臓がドキッと高鳴った。
「僕はね、誰にも譲りたくなかったんだ」
「え?」
どちらともなく歩みが止まる。ヴァーリックは真剣な表情でオティリエを見つめると、右手をオティリエの頬に伸ばした。
「オティリエを部屋に送り届ける役目を、他の誰にも譲りたくなかった」
スリ、と優しく頬が撫でられる。まるで大事な宝物を扱うかのような手つきと眼差しに、オティリエは息をするのも忘れて見入ってしまった。
(なんて返事をすればいいのかしら?)
体から飛び出してしまうのではないかと思うほどに、心臓が早鐘を打っている。触れている手のひらから、頬から、気持ちがバレてしまうのではないかとオティリエは怖くなってしまった。
「――そういうわけだから、どうか気に病まないで」
どのぐらい時間が経っただろう? ヴァーリックが長い沈黙を破り、オティリエの頭をポンと撫でる。
「……わかりました」
二人は手を繋いだまま、再びゆっくりと歩き始めた。
(ヴァーリック様は今、どんなことを考えていらっしゃるんだろう?)
彼の心の声はちっとも聞こえてこない。もちろん、ヴァーリックは普段から無効化を用いて、オティリエに極力心の声を聞かせないようにしているのだけど、なんだか無性に気持ちが知りたいと思う。
そうこうしているうちに、使用人たちが暮らす塔までたどり着く。オティリエはヴァーリックに向き直ると「ありがとうございました」と頭を下げた。
「うん」
ヴァーリックは目を細めて笑ってから、名残惜しそうにオティリエの手を離す。
「おやすみ、オティリエ」
ポンポン、と幼子をあやすように頭を撫でられ、オティリエはそっと目をつぶった。
(今夜はなんだかいい夢が見られそう)
心と体がぽかぽかと温かい。オティリエはヴァーリックを見上げると、満面の笑みを浮かべる。
「おやすみなさい、ヴァーリック様。どうか、いい夢を」
すると、ヴァーリックは静かに目を見開き、逡巡することしばし。それからオティリエの耳元にそっと屈み、ふわりと軽く抱きしめた。
「うん。それじゃあ、また後で」
「……え?」
ヴァーリックは戸惑うオティリエをそのままに、くるりと踵を返す。
(また後で、って)
たしかに、ほんの数時間後には、今日の業務時間がはじまる。けれど、それにしてはなんとなく違和感のある言い方だ。首を傾げつつも、オティリエが私室に戻ろうとしたその時だ。
【夢でもまたオティリエに会いたい。だから、会いに行っていい?】
「…………え?」
ヴァーリックの心の声が聞こえてきて、オティリエは心臓が止まりそうな心地がした。こちらを振り返ったヴァーリックと視線が絡む。熱っぽく見つめられ、微笑まれ、ぶわりと体中の血液が沸騰するような感覚がする。
(夢でって……私、ちゃんと眠れるかしら)
両手で顔を覆いながら、オティリエは熱い息を吐き出すのだった。