【番外編】会いたかった(前編)
執務室が温かな祝福ムードに包まれている。オティリエの同僚の一人、ブラッドの婚約が決まったのだ。
「ブラッドさん、婚約おめでとうございます!」
「ありがとう」
ヴァーリックや他の補佐官たちが口々にお祝いの言葉を贈る。ブラッドは照れくさそうに笑いながら、オティリエから祝福の花束を受け取った。
彼の心の声は幸せそのもの。オティリエは自分のことのように嬉しくなる。
「ブラッドもようやく婚約か〜」
「これでフリーなのはエアニーさんだけですね」
「――ぼくはヴァーリック様とオティリエさんの結婚を見届けるまで、自分の結婚を進める気はありませんから」
エアニーは淡々と返事をしながら、オティリエの方をそっと見る。言葉に出して言わないものの、彼がふたりの結婚を心待ちにしてくれていることを知っているオティリエは、思わず目を細めた。
「それにしても、初恋の女性を十年も追いかけ続けるなんて、すごいよな」
「本当本当。ここまで一途でいられるのって才能だよ」
「俺の場合、初恋は五歳で、相手は十五歳も年上の侍女だったし……」
と、他の補佐官たちが自分たちの初恋について語り始める。
(初恋、か)
懐かしそうな表情の男性陣――だが、オティリエにとってそれはついこの間の出来事だ。思わずヴァーリックの方を見ると、彼もちょうどこちらを向いたところで、オティリエはドキッとしてしまった。
「オティリエさんの初恋は、当然ヴァーリック様なんでしょう?」
「え? えっと……はい」
補佐官たちがニヤニヤと笑う。恥ずかしさのあまりオティリエの頬が真っ赤に染まった。
【嬉しいな……もしもふたりきりなら抱きしめていたのに】
まるで耳元で囁くかのように、ヴァーリックが心の声を伝えてくる。次いで優しく手を包みこまれ、オティリエは一層胸を高鳴らせた。
「ヴァーリック様の初恋は?」
と、今度はヴァーリックに話題が回ってくる。ヴァーリックは少し考えた後、「あっ……」と小さく声を上げる。彼は口元を隠すと、ほんの一瞬だけオティリエから視線を逸らした。
【しまった。まさかこんな反応をなさるとは……】
【ヴァーリック様のことだから、てっきりオティリエさんが初恋だと思っていたのに】
次いで、他の補佐官たちから後悔や謝罪の心の声が聞こえてくる。
(ヴァーリック様の初恋)
先ほどまでの高揚感はどこへやら、オティリエの胸がズキッと痛む。けれど、ヴァーリックにそうと悟られるわけにはいかない。オティリエは本心を隠してニコニコと微笑み続けた。
***
話を終え、妃教育へと向かう最中も、オティリエの心のモヤは中々晴れなかった。
(バカみたい。どう足掻いても過去は変えられないし、もう何年も前の話だろうに)
分かっていても、もしも自分が先にヴァーリックに出会っていたら――ヴァーリックには自分だけを好きになってほしかったなんてことを思ってしまう。
(いつの間にこんなに貪欲になってしまったんだろう?)
ついこの間まで、誰かに愛してもらえることすら想像できなかったというのに――今ではヴァーリックを独占したいと思っている。
浅ましい。なんて愚かなんだろう。
オティリエは自分の感情を受け入れられず、両手で己の顔を覆う。
【さようなら、オティリエ様】
とその時、女性の声が聞こえると同時に肩がトンと叩かれ、とてつもない浮遊感がオティリエを襲った。
「え?」
視界がぶれ、体の感覚が徐々になくなる。いったいどのぐらい経っただろう? ようやく地に足がついた心地がして、オティリエはホッと息をついた。
(よかった。一瞬なにが起こったんだろう?って焦ったけど)
見る限り、自分にも周りにもなんの変化も生じていない。オティリエが立っている場所は先ほどと同じ廊下だ。
【見かけない女性だな? いったい誰だろう?】
けれどその時、背後からどこか舌足らずな心の声が聞こえてくる。振り向いたオティリエは、思わず目を丸くした。
「ヴァーリック様……?」
目の前にいたのは、七歳ぐらいの小さな男の子だった。
けれど、美しい金色の髪が、左右で異なる瞳の色が、表情や仕草が、オティリエにはヴァーリックにしか見えない。
(それにしても、なんて愛らしいのかしら……!)
どんぐりのような大きな瞳に、バラ色の頬。今すぐ駆け寄って抱きしめたいと思うほど、その男の子はかわいかった。
「僕の名前を呼んだ……ってことは、僕を知っているの?」
警戒心をあらわに、ヴァーリックはオティリエを見つめながら返事をする。
(やっぱり、この男の子はヴァーリック様なんだわ)
オティリエは「ええ」と返事をしつつ、ゴクリと息を呑んだ。
もしもこの男の子が本当にヴァーリックなら、考えられる状況は二つ。『ヴァーリックが幼くなってしまった』か『オティリエが過去に行ってしまった』か、どちらかだろう。
しかし、オティリエが女性から肩を叩かれたこと、その時の体の感覚を思い出すに、おそらく正解は後者だ。
(私、過去に飛ばされてしまったのね)
どうしよう――ドクンドクンと心臓が鳴る。
時間が経てば現代に帰れるならばいい。けれど、そんな保証はどこにもない。
そもそも、オティリエを過去に送った女性の心の声――さようならと言っていた――を思い出すに、事態は絶望的と言わざるを得ないだろう。
「君、大丈夫?」
ヴァーリックは今にも泣き出しそうなオティリエを心配し、優しく声をかけてくれた。心の中ではオティリエを信頼していいのか、危険はないかを必死で考えているのに、困っている人をどうしても放っておけないのだろう。
「ありがとうございます、ヴァーリック様」
オティリエは涙をこらえながら、懸命に笑った。どれだけ絶望的な状況でも、側にヴァーリックがいると思うと強くなれる。
ヴァーリックは少しだけ目を見開くと、ほんのりと頬を紅く染めた。
「あの……僕でよければ話を聞こうか?」
「え?」
オティリエは静かに息を呑んだ。
***
一方その頃、現代ではオティリエが行方不明になってから三日が経ち、大規模な捜索が行われていた。
「オティリエはいったいどこに行ってしまったんだ?」
ヴァーリックは眉間にシワを寄せ、ひどく苦しげなため息をつく。
オティリエはヴァーリックの執務室を出てほんの数分の間に姿を消してしまった。なにか事件に巻き込まれたことは間違いない。
無事だろうか――そう考えると不安でたまらなかった。
(やっぱり無理にでも護衛をつけるべきだった)
自分はまだ婚約者だから――城の中は安全だから護衛はいらないとオティリエは主張していた。けれど、オティリエの代わりは誰もいない。もしもオティリエが帰ってこなかったら――そう思うと生きた心地がしなかった。
「ヴァーリック様! オティリエさんの行方を知っている人間を見つけました」
その時、補佐官のひとりが現れ、ヴァーリックにそう報告する。
「すぐに案内してくれ。僕が直接話をする」
ヴァーリックは真剣な表情でそう告げると、急いで移動を開始した。
「ヴァーリック様」
案内された部屋には、オティリエの父親――アインホルン侯爵が控えていた。侯爵の能力は他人の記憶を読み取ること――彼とオティリエの能力とを使って、事件当日に城にいた人間を徹底的に調査したのである。
「それで、オティリエは?」
「それが……どうやらオティリエは過去に連れ去られたようでして」
侯爵が苦々しげにそうつぶやく。ヴァーリックは目を丸くすると、思わず口元を手で覆った。
「先ほどからずっと、連れ戻す方法を聞き出しているのですが『そんな方法はない』の一点張りで……。娘の能力で心の声を聞いておりますので、どうやら本当らしいのです。しかも、過去に送られた人間は時空の歪みに耐えきれず、オティリエはすぐに消滅してしまうのだと」
真っ青な顔に涙を流し侯爵がうなだれる。
「いったいどうしてこんなことに……。ようやく! ようやくあの子は幸せになれたというのに」
聞いているこちらの胸が張り裂けそうなほど苦悶の声。
けれどその時、ヴァーリックはふっと口元を和らげた。
「大丈夫だよ。オティリエは必ず帰って来る」
「え?」
その場にいた全員が驚き、勢いよく顔を上げる。
ヴァーリックの表情には先ほどまでの不安も憂いも何もない。確信に満ちていた。