57.魅了持ちの姉にすべてを奪われた心読み令嬢は
(見えない……なにも)
まるで身体中の感覚がすべてなくなったかのよう。オティリエの意識が真っ暗な闇の中を彷徨っている。
【消えなさい! さっさと、この世からいなくなって!】
(ああ、そうだわ……私、消えなきゃ。この世から、いなくならなきゃいけないんだわ)
……その途端、オティリエにはそれ以外のことがまったく考えられなくなってしまった。イアマの願い――オティリエが消えること――を叶えなければと身体が勝手に動き出す。
己の喉を両手でグッと締め、段々息が細くなっていく。苦しい……そんな感覚すら今の彼女にはない。
「オティリエ!」
と、ヴァーリックがオティリエの両手を引き剥がした。けれど、オティリエの瞳は虚空を見つめたまま。ヴァーリックのことを見てはくれない。
「しっかりするんだ、オティリエ!」
ヴァーリックはそう言ってオティリエの手をギュッと握る。早く魅了の効果を消さなければ――ヴァーリックは自身の能力を注ぎ込む。しかし、能力を使ってなおオティリエの様子は変わらない。むしろ身体は冷たくなり、どんどん衰弱していくようだった。
「オティリエ!」
ヴァーリックは何度も何度もオティリエの名前を呼びかける。しかし、反応はない。もしかしたらもう手遅れなのではないだろうか? ……そんな不安が頭をよぎる。
【いや、違う。僕の声は絶対にオティリエに届く。絶対、届けてみせる】
オティリエのことを抱きしめながら、ヴァーリックはそう自分に言い聞かせた。
◇◆◇
(消えなければ。早く。私は――幸せになってはいけない。不幸でなければいけない。この世にいちゃいけない存在なのよ)
だって幸せはイアマのものだから。オティリエが持っていてはいけないものだから。だから、自分の存在ごと全部イアマに返さなければならない。
(オティリエさえ――私さえいなければ――)
頭の中にイアマの声がこだまする。イアマの声がオティリエの声になる。自分がなんなのか、もうわからない。見えない。聞こえない。下に、下に引きずられていき、暗闇に飲み込まれていく。なくなっていく。これでいいのだ、とイアマの声がささやく。
(そうね)
オティリエさえいなくなればすべてがうまくいく。あるべき姿に戻る。最初からこうなる運命だった。もしもヴァーリックに出会っていなかったら……。
【オティリエ】
そう思ったそのとき、声が唐突に聞こえてくる。――イアマともオティリエとも違う。あまりにも小さくて聞き間違えではないかと思うほど……けれど、オティリエにはたしかに聞こえる。オティリエを呼んでいる。
【オティリエ! 僕の声を聞いて! オティリエ!】
力強い声。声の主ははっきりと求めている――オティリエのぬくもりを。その存在を。
(……ヴァーリック様)
ドクン! と身体が脈打ち、オティリエに意識と感覚が戻ってきた。しかし、そのあまりの苦しさに彼女はもがき苦しむ。
「オティリエ! オティリエ、しっかりするんだ!」
ヴァーリックがオティリエの身体をしっかりと抱き起こす。彼はオティリエの頬を叩きながら、必死に呼びかけ続けていた。
(ヴァーリック様が私を呼んでいるわ)
戻らなければ。大好きなヴァーリックのもとに。
だけど、頭の中では今もイアマが叫んでいる。あんたなんかいらない! 消えてしまえ! いなくなってしまえ! と何度も何度も。
けれどそのたびにヴァーリックの声がオティリエのことを引き戻す。
【僕にはオティリエが必要なんだ】
彼の声が、心が、オティリエを優しく力強く温める。――オティリエ自身の声が段々大きくなっていく。
(私は消えない。生きたい。もっともっと!)
ヴァーリックとともに!
だってオティリエは彼を幸せにすると約束したのだ。ここで消えるわけにはいかない。絶対、絶対にヴァーリックのもとに戻るんだ!
カハッ! と大きく息を吐きながらオティリエは目を覚ました。荒い呼吸。視界はまだぼやけていてよく見えない。
「オティリエ……オティリエ!」
ポタッと温かな液体が頬に落ちてきた。それはまるでオティリエの身体に優しく染み渡るかのよう。次いで身体が軋むほどギュッと抱きしめられ、オティリエは思わず笑みをこぼす。
「ヴァーリック様……泣かないで。私はもう大丈夫ですから」
オティリエがつぶやく。ヴァーリックは彼女の頬をなで、ぬくもりをしっかりとたしかめたあと、もう一度力強く抱きしめた。
【オティリエ】
心と身体に響き渡るヴァーリックの声が心地よい。
頬に、額に、まぶたに口づけられ、ふわりと身体が軽くなる。どちらともなく重なる唇。鉛のように重かった心が軽くなり、イアマの声が完全に聞こえなくなる。まるで頭を覆っていたモヤがサッパリと消え失せたかのよう。オティリエの瞳から涙がこぼれ落ちる。
「ヴァーリック様……」
唇が離れたあと、オティリエはヴァーリックのことをそっと見つめた。泣き濡れた頬。愛しさがグッとこみ上げる。
「あなたが呼んでくださったから……ヴァーリック様の声が聞こえたから、私はここに戻ってこれたんです」
いつだってオティリエを導き支えてくれる声。温かな人。
あんなにうるさかったイアマの声はもう聞こえない。ヴァーリックがいるから。ヴァーリックを幸せにしたいと願うから。
「愛してるよ、オティリエ」
二人は互いを見つめ、泣きながら笑うのだった。
***
その後、夜会は予定通り執り行われた。魅了の影響が懸念されたものの、オティリエ自身の強い希望を尊重した形だ。
「本当に大丈夫? 無理せず日を改めたほうが……」
「大丈夫です。むしろさっきより元気になったんじゃないかって思うぐらいですから。ヴァーリック様と……このブローチのおかげですね」
オティリエはそう言って胸元のブローチをそっとなでる。
父親からもらった母親の形見の青いサファイア。けれど今、石は色を失って透明に変わってしまっている。
なんでもサファイアには魔除けの効果があるらしい。大切な人を守りたいという想いが込められた宝石。オティリエが欲しくてたまらなかった両親の愛情が彼女を守ったのかもしれない――ヴァーリックからそう聞かされて、オティリエはまた少しだけ泣いてしまった。
夜会がはじまると、オティリエはヴァーリックの婚約者として貴族たちに紹介された。
「まぁ……とっても愛らしいわ」
「補佐官としても優秀らしいぞ」
「神殿の一件を解決に導いたのもオティリエ様なのでしょう? 素晴らしい功績ね」
その美しく堂々とした姿に人々は感嘆のため息を漏らす。
なにより、二人の仲睦まじさは見ていてとてもほほえましく、この国の未来は安泰だと人々は口々に称賛した。
それから、すべての元凶であるイアマはというと、オティリエを陥れるために己の能力と気力をすべて使い果たしてしまったらしい。魂の抜け落ちた人形のようになってしまった。
まるで夢の中に迷い込んだかのように時々うわ言をつぶやき、自分が誰なのか、どこにいるのかすら理解できていない。今後彼女が自我を取り戻すことはないだろう。山奥の収容所に幽閉され、ひっそりと生きている。
あれから三カ月。
オティリエはヴァーリックの補佐官兼婚約者として今日も幸せに暮らしている。
妃教育をこなしながら補佐官の仕事を続けることはとても大変だ。前例だって当然ない。けれどそれはオティリエ自身の希望によるものだった。
「だって私はヴァーリック様の補佐官ですもの。……ヴァーリック様の補佐官でいたいんですもの」
婚約をしても、結婚をしても。どれだけ大変でも、ずっとずっとヴァーリックの補佐官として働き続けたい。一番近くで、ヴァーリックを支え続けたいと……オティリエはそう願っている。
「うん……そうだね」
オティリエに寄り添いながらヴァーリックが笑う。
「オティリエは僕の優秀な補佐官で、愛しい婚約者で、世界で一番大切なかけがえのない人だよ。君のかわりはどこにもいない。だから……ずっとずっと、僕の側にいてくれる?」
コツンと音を立てて二人の額が重なった。ヴァーリックの心臓の音が、オティリエをどれほど想っているかが伝わってきて、オティリエは思わず泣きそうになる。
「もちろん! ずっとお側にいさせてください!」
ほほえみあい、二人は口づけを交わす。
こうして、魅了持ちの姉にすべてを奪われた心読み令嬢は、大切な人と、このうえない幸せを手に入れたのだった。