54.来訪者
オティリエとヴァーリックの婚約はあっという間に国中に知れ渡った。祝福モードに包まれる人々だったが、全員というわけではない。やがてそれはイアマの耳にも届くこととなり、アインホルン邸に怒号が飛んだ。
「どういうことなの、お父様! オティリエがヴァーリック殿下と婚約するだなんて!」
イアマの金切り声に使用人たちが震え上がる。父親はため息をつきつつイアマに座るよう促した。
「冗談でしょう? 一体いつの間にそんな話になっているのよ? 第一、妃選びっていうのはある程度段階を踏んで行うものじゃないの? こんなにいきなり婚約者を発表するなんて他の貴族たちからも反発されるわ! 認められるはずが……」
「実は先日、ヴァーリック殿下の妃を選ぶために妃殿下主催のお茶会が開かれたのだ。だから、決して段階を踏んでいないわけでは……」
「は?」
イアマが再び声を荒げる。
「なにそれ。そんなお茶会があったなんてわたくしは聞いてない! なんで!? どうしてわたくしが呼ばれていないのよ! 誰よりも美しく、妃にふさわしいわたくしが! どうして!?」
あまりの剣幕に父親はたじろいだものの、イアマのことをじろりと見つめた。
「理由は当然存在する。イアマは素行不良ゆえ、対象者から除外されたとのことだ」
「素行不良……? そんな馬鹿な。わたくしのどこが素行不良だって言うのよ?」
イアマの問いかけに父親はこたえない。彼女はわなわなと唇を震わせつつ、ガンとテーブルを叩いた。
「わかったわ。本当はオティリエが悪いんでしょう? あの子がわたくしを陥れるために妃殿下に嘘の進言をしたのよ! だからわたくしはお茶会に呼ばれなかった! 王太子妃の候補者にすら入れてもらえなかった! そうに違いないわ!」
「イアマ……」
「だったら、今からでも遅くはない! お父様から妃選びをやり直すように言って! こんなの絶対に納得できない! 認められるわけが……」
「イアマ!」
父親が大声でイアマを遮る。イアマはビクッと身体を震わせたあと、唇をつぐんだ。
「もう決まったことだ。おまえがどれだけ駄々をこねても、今回ばかりはどうしようもできない」
「今回ばかりは? ……そんなこと言って! お父様はいつもそう。どれだけお願いしてもオティリエを連れ戻してくれなかったし、わたくしの言う事なんてちっとも聞いてくれなかったじゃない! ひどいわ! どうしてそんなひどいことをするの!? どうして!?」
「そうだな……」
そう言って父親がじっとイアマの瞳を覗き込む。
「逆に、どうして父様は今までおまえの言うことを聞いていたのだろうな? ……どうして聞いてやらなきゃならないんだろうな? なぁ、イアマ?」
「え?」
まるで憑き物が落ちたかのような表情。イアマの心臓がドッドッと嫌な音を立てて鳴り響く。
(どういうこと……?)
父親が、使用人たちがイアマの言うことを聞くのは当たり前のことだ。なぜならそれが魅了――洗脳の力なのだから。今になってどうしてそんなことを疑問に思う? イアマに歯向かおうとするのだろう――?
「とにかく、もう決まったことだ。わかったら、これ以上オティリエの邪魔をするな。……いいな」
父親はそう言ってイアマの部屋をあとにする。爪が手のひらに食い込んでひどく痛い。けれど、彼女の心の痛みはそれ以上のものだった。これまで味わったことのない屈辱――憎しみがイアマを焼く。
「許せない」
このまま終われるはずがない。イアマは復讐の炎を燃え盛らせるのだった。
***
「婚約披露パーティー、ですか?」
「うん。国内の貴族たちを呼び寄せて未来の妃をお披露目する――そういう習わしなんだ」
オティリエの質問にヴァーリックがこたえる。
今日は仕事は休み。オティリエはヴァーリックの私室に呼ばれ、二人でお茶を飲んでいた。
「未来の妃……」
たしかにそのとおりなのだが、言葉にされるとなんだか緊張してしまう。結婚への覚悟はかたまったものの、プレッシャーを感じずにはいられない。
「大丈夫だよ、オティリエ。僕がついているから」
かたく繋がれた手のひら。彼はオティリエの手の甲に触れるだけのキスをする。ぶわっと頬が熱くなるのを感じながら、オティリエはコクリとうなずいた。
「ですが、夜会に出席するのはヴァーリック様にはじめてお会いした夜会が最初で最後なので……きちんと対応ができるか心配です」
実家で習ったのは王族に挨拶をするときの口上や頭の下げ方といった最低限の礼儀作法だけだ。けれど、今回は王太子の婚約者として出席するのだから、あのとき以上にきちんとした対応ができなければならない。
「うん、知ってる。今度の夜会ではダンスも踊るから、一緒に練習しなきゃね。ドレスもとびきり可愛い一着を準備しなくちゃいけないし、夜会までのあいだにやることがたくさんだ。でも……」
「でも?」
ヴァーリックはそこで言葉を区切ると、屈託のない笑みを浮かべてオティリエのことを抱きしめる。
「すっごく楽しみだ! 早くみんなに自慢して回りたい。僕の婚約者はこんなに可愛くて素晴らしい女性なんだよって」
「ヴァーリック様……」
ドキドキとオティリエの心臓が大きく高鳴る。けれどそれは彼女だけでなく、ヴァーリックも同じのようで。
「私も楽しみです」
彼のことを抱き返しつつ、オティリエは満面の笑みでそうこたえた。
***
それからあっという間に月日が経ち、いよいよ明日は夜会の日だ。オティリエは緊張を高まらせつつ、いつものように仕事をしている。
「オティリエ、今日は仕事が終わったらそのまま残ってもらってもいい? 会わせたい人がいるんだ」
「会わせたい人?」
一体誰だろう? オティリエは疑問を抱きながらも黙々と仕事をこなす。
やがて終業時刻が終わり、他の補佐官たちが執務室を出たところで、ようやくそのこたえがわかった。
「オティリエ」
「お兄様?」
来訪者はアルドリッヒだった。優しくふわりと抱き寄せられ、オティリエは胸が温かくなる。
「久しぶりだね、オティリエ」
「ええ。お兄様も、お元気そうでなによりです」
アルドリッヒに会うのは神殿の件が片付いて以来はじめてだ。あれから何度か手紙のやりとりをしていたものの、なんだか懐かしい気持ちになってしまう。
「でも、どうしてお兄様がこちらに?」
「婚約が決まったお祝いを……おめでとうと直接伝えたかったんだ。明日はきっと、ひっきりなしに貴族たちがやってきて、ゆっくりと話をする時間がとれないだろうからね。殿下がこうして機会を作ってくださったんだよ」
ポンポンと頭を撫でられ、オティリエは思わず泣きそうになる。
「そうだったんですね。お兄様……ありがとうございます」
「うん。本当におめでとう、オティリエ。……それとね、僕ともう一人、オティリエにお祝いを言いに来た人がいるんだ」
アルドリッヒが扉のほうをチラリと見る。……が、誰もいない。首を傾げるオティリエだったが、ややしてかすかな足音が聞こえてきた。
「え……?」
現れたもう一人の来訪者の姿を見た途端、オティリエは思わず声を上げる。
「……久しぶりだな、オティリエ」
そこにいたのはオティリエの父親――アインホルン侯爵だった。