5.挨拶
夜会会場はとても広くきらびやかだった。シャンデリアの柔らかな光、色とりどりのドレスを着た美しい貴族たちが優雅な音楽が流れるなかで歓談している。これだけ人が多いとどれが人々が実際に喋っている言葉で、心の声なのかの区別がつかない。
(『声』に押しつぶされるんじゃないかって不安だったけど)
離れていれば案外平気かもしれない。BGMだと思えば大半は聞き流せそうだ。
ふと見れば彩りも豊かな食事が立ち並んでいる。ここ数日まともな食事ができているとはいえ、それまでひもじい生活を送っていたオティリエは思わずゴクリとつばを飲んだ。
「いっ……!」
【あなた、わたくしがさっき言ったことをもう忘れたの?】
オティリエのつま先をイアマのハイヒールが踏み潰す。彼女の言う『さっき言ったこと』とはつまり『周囲から田舎臭いと受け取られるような行動』を指すらしい。
「申し訳ございません、お姉様」
小声で謝罪をしつつオティリエは涙目になった。
「まずは妃殿下に挨拶をしよう。すでに会場入りなさっているみたいだ」
父親は二人のやりとりには気づかないまま会場を悠然と進んでいく。オティリエは遅れないよう必死に二人のあとをついて行った。少し進んだところで、他よりもたくさんの人が集まっているのに気づく。オティリエの身長では見えないが、人だかりの中央にいるのが妃殿下なのだろう。
「失礼。妃殿下に挨拶をしたいんだ。かわっていただけるかな?」
「ア、アインホルン侯爵! ……どうぞ」
父親が周りの人間に声をかけるとさざ波のように人がはけて行く。次いで彼らの心の声がオティリエに流れ込んできた。
【出た! アインホルン侯爵。相変わらず嫌な奴】
【まだ俺も挨拶してないのに……だけど目をつけられたらたまったもんじゃないからな】
【おっかない。関わり合わないほうが身のためだ】
どうやら父親は貴族たちに相当恐れられているらしい。他人に触れるだけで記憶を読みとる能力を持っているから当然といえば当然だが、おそらくはそれだけが理由じゃないだろう。オティリエは父親を恐れているのが自分だけじゃないと知り、ほんの少しだけホッとしてしまった。
「こんばんは、妃殿下」
「まあ、アインホルン侯爵。来てくださったのね」
そう言って一人の女性が微笑む。二十代にしか見えない若く美しい女性だ。アインホルン家の人間と同じ紫色の瞳が特に印象的で、オティリエは思わず魅入ってしまう。
「そちらの二人があなたの娘?」
「はい。長女のイアマと二女のオティリエです。ふたりとも、殿下にご挨拶を」
父親にうながされオティリエはゴクリとつばを飲んだ。
(どうしよう。きちんとご挨拶できるかしら?)
緊張と不安で足がすくむなか、イアマの隣へと歩を進める。
【邪魔よオティリエ。下がっていなさい。わたくしが先にご挨拶するんだから】
と、イアマの声が聞こえてきてオティリエは慌てて後ずさった。
「はじめまして、妃殿下。わたくしアインホルン侯爵が娘、イアマと申します。以後お見知りおきを」
イアマはそう言って深々とカーテシーをする。美しい所作に周囲から感嘆の声が漏れた。ついつい見入っていたオティリエだったが、王妃と目があったため、姉にならって挨拶をした。
「はじめまして、妃殿下。私は二女のオティリエと申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
心臓がドキドキと鳴り響く。精一杯頑張ったものの、オティリエの声は震えてしまった。これだけ大勢の前に出るのははじめてだし、普段からほとんど声を出さない生活を送っているのだから当然だ。しかし、そんなことは周りの人間には関係ない。挨拶がうまくできなかったことにオティリエは凹んでしまう。
【さすがオティリエ。見事にわたくしの引き立て役になってくれたわね。無様なカーテシーに情けない挨拶。これでわたくしの完璧な挨拶が際立ったに違いないわ】
その瞬間、嬉しそうなイアマの声が聞こえてきた。心が余計に沈んでいくのを感じつつ、恐る恐る顔を上げる。すると、王妃がオティリエに向かってニコリと微笑んだ。
【やっぱり私の思ったとおり。とても可愛らしい令嬢だわ】
(え……?)
今のはオティリエに対して思ったことで合っているのだろうか? ……いや、そんなまさかと思い直し、オティリエはもう一度姉の後ろに下がった。
「二人とも素晴らしい挨拶をありがとう。歓迎するわ。ところで、アインホルン家のご令嬢ということは、二人もなにか特別な能力を持って生まれてきたのかしら?」
「それはもう! イアマは実は……魅了の能力の持ち主なのですよ」
王妃の側で父親が声をひそめる。イアマの能力は一族の秘密だ。政治や戦争で切り札となりうる強く稀有な能力。貴族たちに知れ渡って警戒されては意味がない。イアマからすれば魅了したい相手に会ってしまえばこちらのもので、警戒など大した意味はなさないのだが。
「まあ……! そんな秘密を私に打ち明けて良かったの?」
「もちろんですわ、妃殿下。わたくしの能力はすべて余すことなく国のために役立てたいと思っておりますの。わたくしが王室に入れば、いろんなことがスムーズに成し遂げられるはずですわ」
イアマが自信満々に微笑む。周囲がにわかにざわついた。
【……なるほどねぇ。こんなところで『僕の妃になりたい』って宣言するのか。なんとも大胆な女性だなぁ】
そのとき、どこからともなく心の声が聞こえてきた。他にも心の声は飛び交っているはずなのに、妙に大きく、はっきりと聞こえてくる。まるで直接話しかけられているかのようだ――そう思いながら視線をさまよわせると、一人の男性がオティリエを真っ直ぐに見つめていることに気づいた。
美しい金色の髪、理知的な眉に整った鼻梁、スラリとした長身の持ち主で、まばゆいほどの存在感を放っている。なによりオティリエの目を惹いたのが左右で色の違う瞳だった。左はアインホルン家と同じ紫色、右は鮮やかな緑色だ。
(綺麗)
まるで宝石のようだと思った。こんなに見つめては失礼だと頭ではわかっていても、吸い寄せられるような心地がする。
「それで、オティリエはどんな能力を持っているの?」
王妃から唐突に話題を切り替えられ、オティリエはハッと前を向く。先ほど同様父親が王妃に耳打ちをしようとしたその瞬間、イアマがグイッと前に躍り出た。
「この子の能力は他人の心を勝手に読んでしまうことですの。なんとも品のない能力でしょう? わたくし気味が悪くって……妃殿下もこの子の前では考え事をしないほうが賢明ですわ。勝手に心のなかを覗かれてしまいますから」
イアマの言葉に、周囲にいた貴族たちが大いに反応する。オティリエは血の気が引く心地がした。
「心を読みとられてしまう? そんなことが可能なのか?」
「この子の前では隠し事ができないってこと?」
【やはりアインホルン家は恐ろしい。近づかないに限る】
飛び交う会話に心の声。耳をふさぎたくても叶わない。
善良な人間はもちろん、後ろ暗いことが存在する人間たちが一斉にいなくなっていく。
(やっぱり、人の心が読めるなんて……気味が悪いことなんだよね)
これまで屋敷の人間の反応しか知らなかったから、こうして人々に拒絶をされたことで改めて自分の能力が稀有であることを思い知る。王妃がどんなふうに感じたのか確かめるのが怖くて、オティリエはうつむき唇を噛む。そうしていないと涙がこぼれおちそうだった。
【心の声が読めるのか……いいな。すごくいい。僕は素晴らしい能力だと思うけど】
すると、また誰かの心の声が聞こえてきた。先ほどの男性と同じ声音――そろりと顔を上げると、件の男性がオティリエのすぐ目の前にいる。驚くオティリエに向かって、彼は穏やかに微笑みかけた。
「大丈夫だよ、オティリエ嬢。君に聞かれて困るようなことを僕たちは考えないから。ね、母上」
「「……え?」」
オティリエとイアマの声が綺麗にハモる。
【母上? それじゃあこの方がヴァーリック様なの?】
イアマの声音は興奮を隠せていない。オティリエも一緒になって王妃と男性とを交互に見る。
男性はオティリエを見つめつつ、そっと瞳を細めた。