35.寂しさと戸惑いと
無事に誤解が解けたあと、ヴァーリックはおもむろに別の話題を切り出した。
「お兄様、ですか?」
「うん。今度の視察に同行してもらう予定なんだ。オティリエには事前に伝えておいたほうがいいと思って」
家族との関係性が悪いオティリエの気持ちに配慮してくれているのだろう。オティリエは「ありがとうございます」と返事をしつつ、そっと首を横にひねる。
「正直兄とはほとんど話しをしたことがないんです。八つも年が離れているうえ、私が八歳のときには家を出てしまいましたし、私とは関わり合いになりたくない、という感じでしたから」
オティリエの兄であるアルドリッヒは一度見たものは決して忘れない能力の持ち主だ。父親である侯爵とも姉のイアマとも少しタイプが違う。冷静沈着、感情を揺らすことがほとんどない人で、オティリエに対しては無関心という印象。心のなかで悪口を言われるわけでもなく、かといって姉から守ってくれるわけでもない。会話をした経験は皆無に等しく、顔を合わせる機会も少なかったため、どういう人かよくわからないというのがオティリエの感想だ。
「そうなんだ……。それじゃあ、彼が文官になってから実家に帰ってきた経験は?」
「おそらくゼロではないと思います。ただ……私は顔を合わせてないのでわかりません。けれど、どうしてそんなことを?」
「それだけ長期間実家から離れていたなら、君のお兄さんはイアマ嬢の魅了の影響が消えているか薄れているんじゃないかと思ってね」
ヴァーリックの返答にオティリエは目を丸くする。
「そっか……そういう可能性もあるんですね」
もしも家族や使用人たちが魅了の影響を受けていなかったら、どんなふうにオティリエに接してくれるだろう? イアマにしていたように優しく微笑みかけてくれるだろうか? ――城に来てからそんな想像をしたことは何度かあった。もっとも、実現する日が来るとは微塵も思っていないのだが。
「兄に魅了の影響が残っていても仕事ですから。きちんと割り切ってこなしますよ」
好きや嫌い、苦手といった感情に左右されていては仕事がまったく進まない。城内で働いているあらゆる人が心のなかではあれこれ考えながら立派に仕事をこなしていると知っているので、オティリエも見習わなければならないと思う。
「うん、いい心がけだ。だけど、事前に僕の能力で魅了の影響を無効化できないか試してみるつもりだし、視察の際にアルドリッヒとの絡みはそこまでない予定だ。それでも、辛いようなら配慮するからきちんと僕に頼ってね」
「そんな、ヴァーリック様にそこまでしていただかなくても……」
「僕がそうしたいんだよ」
ヴァーリックに微笑まれ、オティリエの胸がキュンと疼く。
彼は誰にでも優しい人だ。そんなことは重々承知している。けれど最近、なにやら特別扱いをされているような気がしてしまい、その度にオティリエは『勘違いだ』と自分に言い聞かせている。ヴァーリックはオティリエの能力に期待をしてくれているだけ。他の補佐官と同列なのだから、と。
(ヴァーリック様の役に立つために頑張らないと)
ペチペチと頬を叩き、オティリエは気合を入れ直した。
***
それから数日後、神殿への視察の日がやってきた。
「わぁ……! これがティオリオルン神殿なんですね!」
歴史を感じる古い建物と独特な香り、巨大な石柱や大理石でできた床。城や王都の寺院とはまた違った趣のある建物で、オティリエは感動してしまう。
「お疲れ様、オティリエ。道中はどうだった?」
「ヴァーリック様! 楽しかったですよ。エアニーさんやブラッドさんとたくさんお話をさせていただきました」
馬車で出かけるのはヴァーリックとの街歩き以来。美しい自然や街並みを眺めながら同僚たちと会話をするのは、小旅行のようで新鮮だった。
「羨ましいな。僕もそっちに加わりたかった。一人じゃ退屈で退屈で」
悲しげなため息をつくヴァーリックに、オティリエはクスクスと笑い声を上げる。
「ご結婚をなされば、一人で馬車に乗る必要はなくなりますけどね」
と、エアニーがボソリとそうつぶやいた。ヴァーリックはキョトンと目を丸くしたあとふっと笑みを浮かべる。
「たしかにそうだね。この視察が終わったら、母上にも相談しなければならないな……」
(結婚……)
オティリエは心のなかでつぶやきながら、なんだかモヤモヤしてしまう。
王族である以上、ヴァーリックが結婚するのは当然のことだ。元々、今年中には妃を選ばなければならないと言っていたし、補佐官である以上そういう話題は避けて通れない。むしろ候補者の検討やそれにかかる支援を積極的にすべき立場だとわかっているのだが。
(婚約者ができたらきっと、今のようにはヴァーリック様と過ごせなくなるのよね)
そう思うと少しだけ……いや、かなり寂しい。
オティリエはヴァーリックが大好きだ。いつまでも側にいたいとそう思う。けれど、もしも結婚相手が補佐官に女性がいることを嫌がったら、配置換えだって必要かもしれない。……ヴァーリックと離れ離れになってしまうかもしれない。
(もっと……もっと私に実力や実績があったら。補佐官として必要不可欠だって、みんなにそう思ってもらえたら)
そうすれば、ずっと補佐官でいられるだろうか? ヴァーリックの隣にいられるだろうか?
どれだけ褒めてもらえても、認めてもらえても、まだまだ足りない。このままではいけないのだ――オティリエがそう思ったそのときだった。
「オティリエ?」
背後から誰かに声をかけられる。補佐官たちとも顔なじみの騎士たちとも違う声だ。
「はい……?」
振り返り、オティリエは小さく息をのむ。黒髪に紫色の瞳、スラリとした長身の男性がオティリエのことを見つめている。確証はないものの見覚えのある顔だ。
「お兄様?」
アルドリッヒ・アインホルン。オティリエの兄であり、次期アインホルン侯爵家の当主である。
最後に会ったのは八年前なので、少し記憶と違うところがあるものの、なんとなく面影が残っている。オティリエに声をかけてきたことからも、アルドリッヒで間違いないだろう……そう思っていたのだが。
【嘘だろう!? 俺の妹はなんて可愛いんだ……!】
(え……? 今の、お兄様?)
聞き間違いだろうか? オティリエは目をパチクリさせながらそっと首を傾げる。
【可愛い。亡くなった母様にそっくりだ。ああ、どうしてもっと幼い頃にたくさん会っておかなかったんだろう! そうすればオティリエの可愛さをこの目に焼き付けられたのに】
口元を手のひらで押さえつつ、アルドリッヒはオティリエを見つめ続けている。
(どうしよう。やっぱり私の知っているお兄様じゃないかもしれない……!)
驚くやら戸惑うやら。オティリエはその場に立ち尽くした。