32.イアマの策略とヴァーリックの取引
(一体どうなっているの?)
イアマが悔しげに唇を噛む。
妹のオティリエが屋敷を出てすでに三カ月。彼女は未だにヴァーリックの補佐官の地位におさまっているらしい。
しかも、手柄をあげ、重宝されているという噂すら聞く。愚鈍で無能――使いものになるはずがないはずのあのオティリエが。憤るのも当然だ。
(あの子を迎えに行かせた使用人もノコノコと帰ってきてしまったし、本当に腹立たしいわ)
三カ月前、イアマはオティリエを連れて帰るようにと厳命し使用人を城へと送り込んだ。けれどその男は『面会すら叶いませんでした』と笑顔で報告してくるではないか。
そのときのイアマの怒りようは筆舌に尽くしがたいほどであった。
『この役立たず! なにが『面会すら叶いませんでした』よ! 会えるまで何度でも粘りなさい! 大体、正面突破が無理なら城に侵入すればいいだけでしょう?』
『そんなことをしては私の命がなくなってしまいます』
『なくなってしまえばいいのよ、そんなもの! わたくしの願いを叶えることのほうがよほど大事でしょう!』
普段はイアマに心酔している使用人たちすら震え上がるほどの剣幕。当の使用人は困ったように笑い続けているのだから、余計イアマの気に障る。
『まあまあイアマ、彼もおまえのために頑張ってくれたんだ。そのへんで勘弁してやりなさい』
『お父様!? そんなの無理に決まってるじゃない!? 絶対に許せない! こんな男、さっさと首にして! じゃなきゃわたくしの気がおさまらないわ』
珍しく仲裁に入った父親に対しイアマは激しく噛み付く。けれど彼はバツの悪そうな表情で、どうどうとイアマをなだめ続けた。
『そんなことで使用人を首にすることはできないよ。ただでさえ我が家は今、殿下に目をつけられているんだ。理不尽な解雇をしたと咎めを受ける可能性が高い。わかるだろう?』
『…………なによそれ』
イアマは眉間にシワを寄せ、父親の胸をグイッと押す。
『殿下なんて、身分だけが取り柄の最低な男じゃない。わたくしに対してあんな失礼な態度をとった挙げ句、オティリエを補佐官として連れて行ったのよ!? 一体なにを恐れる必要があるの! 我が家の力を使えば、あんな男、なんとでもできるはずで……』
『いい加減にしなさい!』
父親が怒鳴り声をあげる。生まれてはじめて聞いた父の怒声に、イアマは思わずたじろいた。
『オティリエのことはもう忘れなさい。あんな娘、はじめからいなかったも同然なんだ。おまえが固執する必要はない。……違うか?』
『それは……』
そう言われてしまうと、イアマは返す言葉がなくなってしまう。
本当は忘れられるはずがない。オティリエはイアマの優越感を満たすための道具であり、大事なおもちゃだ。数日の間にたまりにたまった鬱憤を晴らすために、オティリエの存在は必要不可欠なのだが。
『わかったわ』
イアマの返答に、父親や使用人たちがホッとため息をつく。
今はね、と心のなかで付け加えつつ、彼女は眉間にシワを寄せた。
あれからすでに三カ月。イアマはもう十分待った。しかし、父親にも釘を差されている以上、前回と同じやり方でオティリエを連れ戻すのは難しそうである。
(そうだわ! 文官として働いていらっしゃるお兄様ならオティリエの状況が詳しくわかるかもしれない)
オティリエごときが補佐官としてやっていけるはずがない。重用されているらしい、というのはアインホルン家に媚を売りたい人間が父親に対して流した情報で、実態はかけ離れているということなのだろう。兄ならば忖度のないありのままのオティリエの情報をイアマに与えてくれるはずだ。
(そうよ。よく考えたら、お兄様にオティリエを連れ戻してもらえばいいんだわ。お兄様だってきっと、無能な身内が補佐官として働くことを恥じているはずよ)
善は急げ。イアマは急いで手紙をしたため、兄に対して送るようにと命令する。
(見てなさい、オティリエ。絶対にあんたをこの家に連れ戻してやるんだから)
イアマは城の方角を見つめつつ、ニヤリと笑みを浮かべるのだった。
***
(なるほどね)
ヴァーリックはとある報告書に目を通しつつ、はあと小さくため息をつく。
「なんと書いてあるのですか?」
「イアマ嬢が再び動き出したと。懲りないよね、彼女も」
読んでみてとエアニーに報告書を渡しつつ、ヴァーリックは苦笑を浮かべた。
オティリエとともに街歩きにでかけた翌日、ヴァーリックは騎士たちからとある報告を受けた。オティリエを迎えに来たとアインホルン家から使用人が来ている、と。
しかし、使用人の男性には不審な点が多く、オティリエは不在にしていると断られたあとも城に居座り、騎士たちの隙をついて城内に侵入しようとした。このため、一晩の間牢に閉じ込められていたのだという。
「あのとき、騎士たちがオティリエじゃなく僕に直接報告をあげてくれてよかったよ。おかげでオティリエに余計な不安を抱かせずに済んだ。貴重な情報源を手に入れることもできたしね」
ヴァーリックはそう口にしつつ、報告書をチラリと見る。
三カ月前、彼は捕らえられたアインホルン家の使用人の男性と面会をすることにした。おそらくはイアマの魅了により操られているのだろうと予想をして。
案の定、彼はイアマにより強い暗示をかけられていた。必ずオティリエを連れ戻してくるように、と。
幸いだったのは、彼がアインホルン家で雇用されてまもなく、魅了の影響が小さかったことだ。ヴァーリックの能力により使用人は正気を取り戻すことができたのである。
『ひどい……こんなことに利用されるなんて』
自分が操られていたことを知り、男性はひどくショックを受けていた。そのせいで牢屋にまで入れられたのだ。無理もないとヴァーリックは思う。
『君はこれからどうしたい?』
『それは……怖いです。イアマ様にまた理不尽なことを命じられるのではないか、と。けれど、利用されたまま終わるのもなんだか悔しくて』
『……だったら、僕と取引をしない? 決して悪いようにはしないから』
ヴァーリックがほほえむ。使用人はえ? と目を見開いた。
「貴重な情報源……本当にそうですね。あのままイアマ嬢が諦めてくれれば、そんなものは不要だったのでしょうが」
「彼女はオティリエにかなり執心しているようだからね。簡単には引き下がらないと思っていたよ」
ヴァーリックが使用人に持ちかけた取引の内容は二つある。
一つはイアマの情報をヴァーリックに提供すること。もう一つはアインホルン家の使用人たちの魅了を解いていくことだ。
ヴァーリックは自身の能力を込めた水晶を使用人に分け与え、他の使用人たちに渡すよう指示をした。雇用期間の短いものから少しずつ。段々と正気に戻るものが増えるように。報告書にはそちらのほうの経過も順調だと記されている。
「それにしてもオティリエの兄、か」
「お会いになられますか?」
「そうだね。彼には次の視察に同行してもらおうと思っていたし、ちょうどいい機会だ」
ヴァーリックの返事を聞き、エアニーは承知しましたと頭を下げる。
(さてと)
そろそろ次の仕事に移らなければならないだろう。ヴァーリックはぐっと気を引き締めた。