31.王太子の補佐官
オティリエたちが男性の話を聞いて帰りの馬車に乗りこむ頃には、空はどっぷり暗くなっていた。昼間とは違った表情を見せる街並みを眺めながら、オティリエはほぅと息をつく。
「疲れただろう? 城に着くまで休んでいて」
ヴァーリックはそう言ってオティリエを自分に寄りかからせる。すぐに襲いかかる心地よい睡魔。オティリエは首を横に振りながら、ぐっと姿勢を正した。
「大丈夫です。ヴァーリック様こそお疲れなのではありませんか?」
「ん? ……そうだね。かなり疲れた、かな」
今度はヴァーリックがオティリエへと寄りかかってくる。ドキッと心臓が跳ねるのを感じつつ、オティリエは平常心を装った。
「それにしても、世の中にはひどいことをする人がいるものですね」
「……うん、そうだね」
馬車に漂うしんみりとした空気。二人が考えているのは先程広場に馬車で突っ込もうとした男性のことだ。
男性は元々、素晴らしい技術を誇る馬車職人だった。過去には王室への献上品として馬車を作ったことがあるほどだという。しかし、彼はある日弟子にそのすべてを奪い取られてしまう。技術、他の弟子たち、部品を卸している業者に加え、顧客すらも奪われてしまった。
当然男性だって黙っていなかった。奪われたものを取り返そうと手を尽くした。取引先を走り回り、なんとか受注を再開してもらえるよう懇願した。
しかし、弟子の離反の裏にはとある貴族が存在した。金儲けを生きがいとしたディングリーという伯爵だ。
伯爵は弟子に対して資金援助をするかわりに利益の一部について還元を受ける。弟子の作った馬車の供給が増えれば増えるほど、伯爵は他の貴族たちに自分の投資の腕を自慢することができるし、弟子は弟子で信頼も実績もないうちから貴族の後ろ盾という力強い力添えを得ることができる。双方に旨味のある契約だ。
そんな状態で、一商人である男性が太刀打ちなどできるはずがなかった。弟子も、馬車を作るための材料も、顧客たちも、なに一つ取り戻すことができないのに仕事なんてできるはずがない。収入は途絶え、すぐに蓄えも尽きてしまった。すでに家賃は数ヶ月滞納しており、追い出されるのは時間の問題。当然食事だって満足にとれず、夢も希望も残っていない。死を待つだけの人生。
……ただ死ぬだけでは終われない。
そんなときに男性が思いついたのが、馬車で広場に突っ込むことだったのだという。そうすれば、自分の生きた証を――馬車を歴史に残すことができる。こんな理不尽がまかり通る世の中に一石を投じ、彼を傷つけた当事者たちには死よりも恐ろしい制裁を。生地獄を味わわせたかった。
『関係ない人たちを巻き込んではいけないと頭ではわかっていました。けれど、俺にはこれしか考えられなかった。誰も俺が苦しんでいることに気づいてすらくれない……この世界が大嫌いでした。全員同罪だとすら思っていました』
すべての事情を語り終えた男性は絞り出すようにそうつぶやいた。オティリエはヴァーリックと顔を見合わせつつ、かける言葉が見つけられない。
『企みを止めてもらえて嬉しかったという気持ちは本当です。誰も傷つかなくてよかったと心からそう思います。だけど……だけど俺は! 仕事もなにもかも失って、これからどうやって生きていけばいいかわからない』
男性の涙に胸が痛む。オティリエには彼の気持ちが痛いほど理解できた。
(私もお姉様からすべてを奪われてきたから)
……いや、相手が元々信頼をしていた人間である目の前の男性のほうが失望感は大きかっただろう。元々持っていたものを失うのと、最初からなにも与えられていないのとでは感じ方が違うはずだ。オティリエは目頭が熱くなった。
『フィリップ、彼を城に。……温かい食事を提供するように』
『はい、ヴァーリック様。すぐに手配いたします』
『え? し、しかし殿下! 俺は、温かい食事をいただけるような立場では……』
『あなたがなにを企んでいたにせよ、結果的にはなにも起こらなかったんだ。まずは心と体をしっかりと休めてほしい。これからのことはあなた一人で考える必要はない。僕や僕の部下たちが力になろう』
『殿下……』
男性と一緒に途方に暮れていたオティリエは、ヴァーリックの言葉に温かい気持ちになる。まるでもう一度オティリエ自身を救ってもらえたかのよう――オティリエは涙を流しながらほほえんだ。
***
「まあ、ひどいっていえば、オティリエの家族も大概だと思うけどね」
「え? あ……そうですね」
ヴァーリックに話を振られてオティリエはハッと我に返る。
こうして外の世界に出てみると、改めてあの屋敷の異質さに気付かされる。オティリエは苦笑いをしつつ、そっと窓の外を見た。
「私も、さっきの男性も、もっと早く誰かに相談が……助けてって言えていたらでよかったのでしょうけどね。……正直私はそんなこと思いつきもしませんでした。世界中のみんなが私のことを嫌っていると思い込んでいましたし、どこに行けばいいかもわかりませんでしたから」
彼女の場合はそもそも外に出るという選択肢もなかったし、情報を得るすべだってひどく限られていた。仮にそういった場所が存在しても、利用できなかった可能性は高いだろう。
「……そうだね。現状は『助けて』と自ら声を上げることができない人に気づくための方法が存在しない。もしもオティリエが夜会に出席しなかったら、僕は君が苦しんでいることに気づかなかっただろう。国としては家庭や個人の事情に入り込むことは控えている、というのが実情だ」
普通の家庭は国や領主の介入なんて必要ない。貴族であればなおさら、他人から詮索されるなんて恥以外のなにものでもないだろう。だからこそ、オティリエの父親はヴァーリックから口出しされることに困惑し、ひどく嫌がったのだから。
「しかし、相談のための窓口だってきちんと整備されているとはいい難い。敷居が高いと感じる人は多いだろうし、そもそも存在すら知らない人も多いだろう。基本的には道路や水道といった国民みんなに関わることが主で、個別の相談に丁寧に応じているわけではないしね」
「……作れないものでしょうか? 人々の声に耳を傾ける場所を」
オティリエが思わず小さくつぶやく。「え?」と目を丸くするヴァーリックに、彼女は焦って首を横に振った。
「い、いえ! 色々と課題があって今の形になっているとわかってるんです。それに、場所とか、人員とか、ノウハウとか、予算とか! そういうものをクリアできないと新しい事業はできないんだってことも先日教わりました。だけど、あんなことがあったあとだから……なんとかできないかなって思ってしまうんです。理想は理想で、全部を実現できないってこともわかっているんですけど……」
「いいかいオティリエ。よく覚えておいてほしい」
ヴァーリックが改まった様子で口にする。相槌を打ちながら、オティリエは思わず居住まいを正した。
「僕たちの仕事は理想を描き、追い求めることだ」
「え?」
一体どういうことだろう? オティリエはそっと首を傾げた。
「他の誰かが……たとえば文官や重鎮たちが『無理だ』と言ったとしてもひたすらに夢を見続ける。それを叶えるための道を模索する。僕はね、国を動かすものとして『こうしたい』っていう強い想いを持つことが大事だと思っている。だから、無理だと思うことでもどんどん口にしてほしい。できるかできないかはあとでゆっくりと考えればいい。だって、僕たちが理想を追い求めないで誰が追い求める? 実現させる? 夢のない国ほど悲しいものはないよ」
「ヴァーリック様……」
トクントクンと心臓が鳴る。これは期待……あるいは興奮だろうか? オティリエがヴァーリックを見つめると、彼は目を細めて笑った。
「僕は王太子で、君はその補佐官なんだ。理想家であろう。貪欲にいこう。やりたいことは全部やる。もちろん、今すぐにってわけにはいかないかもしれないけど」
「はい、ヴァーリック様」
先程男性に向かってヴァーリックが言っていたこと。彼は……オティリエは国や社会を変えるための力をもっているのだ。その言葉の意味を彼女は改めて噛み締めていく。
(私は……ヴァーリック様の補佐官なんだわ)
なにやら身体が燃えるように熱い。
新たな決意を胸に、オティリエは力強くほほえむのだった。