10.夢と現実と、それから約束
翌朝、オティリエはいつもより早く目を覚ました。
(本当に、夢のような夜だったな)
まるで彼女の十六年間の人生を凝縮したかのよう。美しく着飾ったことも、屋敷の外に出かけたことも、誰かと会話をしたことだって今までで一番長かった。なによりもヴァーリックと出会い、彼に優しい言葉をかけてもらえたことがオティリエは嬉しい。かけがえのない経験だと感じていた。
幸せな思い出にひたりながら、オティリエは静かに目をあける。見慣れた天井をぼんやりと見上げながら、まるで自分にかけられた魔法がゆっくりと解けていくかのような心地がした。
(お姉様、怒っていらっしゃるのでしょうね)
イアマはほとんど無理やり屋敷に送還されたらしい。さすがの彼女もヴァーリックの従者を魅了して言うことを聞かせることはできなかったようで、渋々会場をあとにしたようだ。
オティリエはというと、イアマが会場を去ってしばらくしたあと、ヴァーリックが手配してくれた馬車で屋敷への帰路についた。
『それじゃあ、また』
別れ際、ヴァーリックはオティリエにそう声をかけてくれた。
『さよなら』ではなく、次の約束がある。彼にまた会えると思うと、オティリエは元気が湧いてくる。怖くとも立ち向かおうと思えるのだ。
(大丈夫。私は負けない)
いつかまた、胸を張ってヴァーリックに再会できるように。彼に本当の意味で認めてもらえる自分になりたい。彼の役に立ちたい。そのためには、逃げずに自分の能力を磨いていく必要がある。
夜会が終わったため、侍女たちはもう彼女の部屋を訪れないだろう。着替えも、食事の準備も、これからは全部自分でしなければならない。
(よし。まずはきちんと食事をとらなきゃ。それから侍女たちと頑張って会話をする。大丈夫……ちゃんとやれるはず)
身支度を終え、オティリエが厨房に降りようと立ち上がったときだった。
「――まさか帰ってくるとは思わなかったわ。あんたって案外度胸があったのね」
バン! と大きな音を立てて扉が開き、イアマが部屋に入ってくる。オティリエは一瞬だけ怖気付いたものの、すぐにイアマに向き直った。
「あの……はい、戻ってまいりました」
「戻ってまいりました……じゃないのよ! バカなの? こっちはあんたの顔なんて見たくないって言ってるの! なんなのよ! どうしてあんたなんかがヴァーリック殿下に声をかけてもらえるわけ!? おかしいでしょう!?」
「…………」
イアマがオティリエに掴みかかる。オティリエは返事をしないまま、イアマの瞳をじっと覗き込んだ。
「なによその反抗的な目は。わたくしになにか文句があるの?」
「――私が帰る場所はこの家以外にありませんもの」
パン! と乾いた音が鳴り響く。頬がヒリヒリと痛い。なにが起こったのか――目の前に振り下ろされたイアマの手を見て、オティリエはようやく理解できた。
「『この家以外に帰る場所がない』? え? まさか本気で言ってるの? この家にあなたの居場所なんてないわ。だってわたくしはあなたを家族だと思ったことなんて一度もないんだもの! あんたなんてその辺で野垂れ死んでしまえばよかったのに! 本当に、どうしてそんなに頭が悪いの? 愚図! 根暗! 役立たずの穀潰しめ!」
イアマが真っ赤な顔でまくしたてる。こんなふうに手をあげられたのははじめてのことだった。いつも彼女は言葉でオティリエをいたぶるだけで、自分の手は汚さない人だったから。
「ねえあんた、どうしてヴァーリック殿下にわたくしの能力が効かなかったか知っているんでしょう? 教えなさい?」
「知って……どうなさるおつもりなんですか?」
イアマが再びオティリエに掴みかかる。息苦しさに喘ぎながらオティリエはじっとイアマを見上げた。
「決まっているでしょう? あの腹立たしい男を魅了して、わたくしの言いなりにしてしまうの! あんなふうにバカにされたのははじめてだもの。このままじゃわたくしのプライドが許さないわ! ああ、早くあの男が跪いて許しを請う姿が見たい! そして、妃になってほしいって懇願させるの! 想像するだけでゾクゾクしちゃう」
悦に入った表情を浮かべ、イアマが瞳をギラつかせる。彼女はヴァーリックを籠絡できると信じて疑っていないのだろう。
(ヴァーリック様)
彼ならきっと大丈夫――そう思うけれど、イアマがヴァーリックに接触することを思うとオティリエの胸が苦しくなる。万が一魅了を防ぎきれなかったら――。彼に傷ついてほしくない。そんなの、絶対に嫌だ。
「やめてください」
「…………は?」
ドスの効いた声がオティリエの部屋に響き渡る。これまでのオティリエなら恐怖でひとことも発せなかったし、すぐに逃げ出してしまっただろう。けれど、オティリエは震える足を必死に踏ん張り、イアマをまっすぐに見返した。
「殿下は私を守ってくださった恩人です。危害を加えることは許しません」
「ふふっ……あはは! 許さないですって? 笑わせないで。あんたになにができるって言うのよ! 部屋のなかに引きこもって鬱々としているしか能のないあんたが! このわたくしを止められるわけがないでしょう?」
「私にはお姉様の心の声が聞こえるから……だから!」
オティリエが言う。イアマがピクリと反応を返した。
「私にはこれからお姉様がどんな行動をとろうとしているか、事前に読みとることができます。どんなことをしてでも、私がお姉様を止めます。自分でできないなら、他の人にお願いします」
「……一体なにを言っているの? あんたのお願いを聞いてくれる人間なんて、この家には一人もいないのよ? お父様も、使用人たちも、みーんなあんたのことが嫌いなの! 顔も見たくないの! 味方になってくれる人間なんて一人もいない! あんたはこの世に必要ない人間なのよ!」
「そんなことは……」
ない、と言えないのが悲しい。オティリエの瞳に涙がたまる。
「ほらね、言い返せないでしょう? 自分でもよくわかっているんじゃない? 生きている意味も価値もない――それがあなたという人間。これから先もずっと同じ。一生変わることはないのよ」
イアマがグイッとオティリエの身体を強く押し飛ばす。本棚に背中を強く打ち付け、オティリエは床にうずくまった。
(痛い……息が上手くできない)
身体が軋む。ようやく痛みが落ち着いてきたと思った矢先に、イアマから髪の毛を引っ張られた。
「バッカじゃないの! 少し優しくされたからっていい気になって。身の程を知りなさい! あんたなんかが連絡をとったところで、殿下にとっては迷惑なだけよ! あんたにとって殿下は特別でも、殿下にとっては夜会でほんの少し会話をしただけの小娘なの! きっとすでに忘れているわよ!」
「お嬢様、あの……」
そのとき、イアマの侍女がオティリエの部屋の扉を開ける。どこか困惑したような表情だ。
「なに!? 今、取り込み中だってわからない? ああ、それともあなたも加わりたいの? いいわ。歓迎するわよ」
「いえ、そうではなく……」
「ごきげんよう、イアマ嬢」
そう言って侍女の背後から現れたのはヴァーリックだった。彼はイアマに鋭い視線を向けた後、オティリエに向かって微笑みかける。
「迎えに来たよ、オティリエ嬢」
ヴァーリックから差し出された手のひらを見つめながら、オティリエは涙を流した。




