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星の降る井戸

海の見える街にて


西の国に出たら、必ず、訪ねたいと思っていた。

僕が生まれた街、僕のお母さんがいた街、

そして…



 エミールから聞いていた町並みとは、だいぶ違っていた。

 無理もない。あれから十五年が経っている。

 僕が生まれたという遊郭のあった場所は、薄汚れた安宿になっていた。

 傷んだ外観に当時の名残りがあったが、遊郭のことを知っている人には会えなかった。

 物心ついたときから、エミールが母親じゃないことやハールーンが父親じゃないことを知っていた。二人とも実の親以上の愛情で育ててくれた。

 でも、本当のことを知りたいという、痛いくらい湧き上がる気持ちを抑えることができなかった。

 はやく大人になって、はやく西の国に行くこと。いつも考えていた。

 今日、やっと、叶った…


◇◇◇


 ユリウスは、肩にかけたマントの端を手でかき寄せ、狭い路地を進んだ。いくつかの遊郭で尋ねたうち、一人の下働きの老女が彼の母親のいた遊郭で働いていた女を思い出してくれた。もっとも、金貨が一枚増える毎にだったが。

 石積みの壁の間にくり抜かれた入口があった。中から子供のはしゃぐ声がする。ユリウスが中に入ろうとすると、飛び出してきた子供とぶつかった。

「あ、」

 子供がしりもちをつく。と、同時に半べそをかいた。

「ご、ごめんよ。大丈夫かい。」

 ユリウスは子供を立たせると服の汚れを払ってやった。

「済まないねぇ。」

 子供の母親らしき中年女が側にやってきた。まるで樽のような形だ。

「いえ、こちらこそ。」

ユリウスが後退りしながら答える。

「なんか用かい?」

「え、ええ。こちらにジュネさんという方が…」

 言い終わらないうちにユリウスは、中年女に腕を掴まれて通りまで連れ出された。

「アンタ! 何しに来たんだい!」

「え、あ、ジュネさんに会いに…」

「強請りかい! たかりかい!」

「ち、違います。」

「その名を知ってるってことは、昔のことで、金、せびりに来たんだろうが!」

「ち、違います!」ユリウスが強く否定した。一瞬、中年女が怯む。

「腕、放してもらえますか。」

「ご、ごめんよ…」

 中年女がひとつ息をついた。

「ジュネを探してるって? その理由は?」

「知ってるんですか。」

「訳によりけりだねぇ。」

「謝礼が必要ですか。」

「よしとくれ。あたしゃ、強請りやたかりなんかする気はないんだよ。」

 中年女がユリウスを睨んだ。少年は俯き加減に言った。

「…十五年前に港の近くの遊郭にいた『シウリー』という人のことを知りたいんです。」

「…。」

「店はもうありませんでした。そこにいた人も散り散りになったと聞いて。あちこち尋ねてるうちに『ジュネ』という人がこの街にまだいるって聞いて。」

「どうしてそんな古いことを。」

「え、…ああ、知り合いの人に頼まれたんです。もし、こちらに来ることがあれば消息を尋ねてほしいと。」

「…。」

 中年女がため息をついた。


◇◇◇


「坊や、人には触れられたくない事もあるんだよ。それを軽々しく口にしちゃいけない。」

 案内された丘の上で、さっきの中年女が言った。彼女は、小さな石の塊に花を供えた。

「遊郭にいたことは知られたくないことだよ。それを尋ねるなんてどういう了見なんだい。」

「…。」ユリウスが俯いた。

 中年女は、石の塊をひと撫でするとゆっくり口を開いた。

「…。

 『ジュネ』が『シウリー』と同じ店にいたのは、半年ぐらいだったよ。『ジュネ』は自分の器量がわかっていたからね。身請けしてくれるって男が現れるとさっさとくっついていったから。

 今じゃ、あわせて八人の子持ちさ。」

 中年女が豪快に笑った。

「あなたが『ジュネ』さん?」

「そんな名はやめてくれないかい。

 あたしには、『アリエス』ってちゃんとした名前があるんだよ。」

「す、済みません。」

「『シウリー』のことは誰から聞いた?」

 ユリウスは少し躊躇してから答えた。

「エミールから…。」

「エミール!」驚いたのはアリエスの方だった。

「エミールって!あの子、生きてたのかい!」

「え、ええ。」

「そうかい…。」

 アリエスが安堵の笑みを浮かべた。

「あの子は幸せに暮らしてる?」

「ええ!」

「そうだねぇ。エミールなら、シウリーを探していても不思議じゃないね。」

「…。」

「シウリーとはそう長く一緒にいたわけじゃないから、詳しいことは知らない。

 だけど、この街一番の遊女だったよ。それにサラセンの女だったからね。

 黒い髪、黒い瞳。綺麗だったよ。男共は競って彼女を征服しようと店に列を作ってねぇ。」

 ユリウスは、顔が赤らむのを感じた。

「でも、『ジュネ』が知っているシウリーは、大きな腹を抱えて、暗い部屋に寝かされていたんだよ。エミールはその世話をしてた。」

「…。」

「遊女なのに、子供ができちまってね、彼女は堕ろし損ねたって話さ。」

「その子の父親のこととか…」

「さあね。相手は星の数ほどいるんだから。誰の子なんて、当の女にもわかりゃしないよ。」

「…。」

「子供も無事に生まれたかどうかも知らない。」

「…。」

「その前に、『ジュネ』は身請けされちゃったんでね。」

 ユリウスが唇を噛んだ。

「だけど、噂は聞いた。シウリーは産み月にあたるころに死んだそうだよ。世話をしてたエミールは忽然と姿を消すし。子供だって生まれたかどうか誰も知らない。」

「…誰も、ですか。」

「遊女だよ。身内だっているのかどうかもわからないんだ。誰も気にもしない。死んだら、ゴミのように捨てられるだけなんだよ。」

「…。」

「ここは、そういう女たちの墓でね。神様の祈りすら唱えてもらえない。」

「…シウリーもここに葬られているんですか。」

 アリエスは、首を振った。

「彼女は、サラセンの女だといったろう。ここには入らない。」

「じゃ、彼女の亡骸は?」

「店主が腹いせに、海に捨てたって聞いたよ。」

 ユリウスが息を呑んだ。捨てた… 海に…

「遊女の昔なんか尋ねるのはおよし。エミールも今が幸せなら昔のことを忘れておしまいって。」

 アリエスが笑った。そして、ユリウスの顔を見た。

「…坊や、あんた、大丈夫かい? 泣いたりして?」

「え、」

 ユリウスは、顎の下まで伝ってきた涙に気がついた。慌てて、甲で拭う。

「坊やには酷な話だね…。エミールも坊やに頼むなんて罪作りだ。」

「大丈夫です。ありがとう、アリエスさん。エミールにはちゃんと伝えます。」

 ユリウスは、アリエスに頭を下げた。

「本当に、ありがとう…。」

 そのまま、彼は走り出した。


◇◇◇


 僕を産んで、お母さんが死んだことはエミールに聞いていた。

 でも、亡骸を海に捨てることはないじゃないか。

 お母さんはゴミじゃない!


◇◇◇


 どこを歩いてきたのか覚えがなかった。気がついたら、行き止まりになっていた。辺りも薄暗く、空が朱い。

「何か悲しいことがあったの?」

 ユリウスの頭上からけだるい女の声がした。

 ユリウスが声のするほうを見上げた。

 朽ちかけた館の二階の窓枠に女が腰掛けていた。

 長い髪を垂らし、薄衣をまとっている。赤い紅が濃く引かれ、そのくせ青白く頬がこけていた。女が微笑みかけていた。ユリウスは涙を拭った。

「涙が出るほど悲しいことがあったの?」

 女が髪をかき上げながらユリウスに尋ねた。髪に結びつけられていた赤い布が揺れた。

「泣いていません!」ユリウスが口を尖らせていった。

「そう…、嘘つきね。」

「あなたには関係ない!」

 女が悲しそうに微笑った。そして、彼女は海のほうを見やった。

「あたし… 涙が出る人が羨ましいの。どうしたら涙が出るの。」

「…。」

 ユリウスに女の乾いた瞳が見えた。乾いた灰色の瞳。

「何かあったんですか、辛いこと?」

 女は、微笑するだけで答えなかった。

 女が髪に絡みついた布を解いた。布はゆっくりとユリウスの足元に落ちた。

「どういうことです?」

 いぶかしげに女を見上げた。

「…。」

 ユリウスは、足元の布を拾い上げた。

「誘い、ですか?」

 女が鼻で笑った。

「怖い?」

 ユリウスが灰色の瞳を睨みつけた。

 彼は布を握り締めると女のいる館に入った。静かで暗い建物だった。人の気配がない。正面の階段を上がる。階段の軋む音だけが響く。二階の廊下の突きあたりからほのかな朱色が差し込んでいた。ユリウスは、朱色に染まる部屋でその女を見つけた。

 女は身体をユリウスのほうに向けた。下から見上げていたときよりも、はっきりとした女の姿があった。

 ユリウスは、女の前に布を差し出した。

 女は暫く、それを眺めていたが、ゆっくりと両手を伸ばした。その手は布ではなく、ユリウスの手を掴んだ。

「あ、」

 その女の手の冷たさに驚いた。慌てて、手を引っ込めようとしたが、強い力で掴まれている。振りほどくこともできなかった。

「は、離して!」

「…温かい… 生きている温かさだわ。」

 女は、ユリウスの身体を自分のほうに引き寄せた。

「や、やめてください!」

 踏み止まろうとしたユリウスの肩からマントが落ちた。

 女はユリウスの胸に自分の冷たい頬を押し付けた。女の手がユリウスの背中に回され、彼は女に抱きしめられていた。

「ずっと待っていたの…。私の坊や…。」

「え?」

 女が彼の頭をその胸に抱こうと彼を跪かせた。木の床に両膝がついた。女の力に支配され、彼は逃れられなくなっていた。女の灰色の瞳が彼の目の前にあった。赤い唇が彼の唇を覆った。冷たかった。ひとの唇はこんなに冷たかっただろうか。

 女に唇を奪われたのは、一瞬、だった。再び、女は彼の胸に顔を埋めた。ユリウスは、女から離れようとその細く冷たい肩を掴んだ手に力を入れた。

「もう、寂しいのはいや…」

 女の消え入りそうな声にユリウスの手が止まった。冷たい寂しさが彼に伝わってくる。この寂しさは、エミールと同じだ。この女も…

「ひとりは、いや…」かすれた声がした。

「…。」

 ユリウスの指が女の髪に触れた。そのまま、彼女の頭を抱き寄せた。冷たい身体をも抱き寄せようとした。そうすれば、この女が救われるような気がしたから。

 女は、ユリウスの腕の中で、幸せそうに微笑んだ。吸い込まれそうな微笑だった。

「このまま…」女が言いかけた瞬間、窓から強い風が吹き込んできた。

 風は、女とユリウスを引き離した。ユリウスは、部屋の隅まで吹き飛ばされ、壁で背中を打った。痛みに顔をしかめる。

『この子は渡さない…』

 宙のどこからか女の声がした。ユリウスを抱きしめた女とは別の声だ。

「私の坊やよ!」

『違う!』強い風が女の背中を打った。髪を乱して女が床に転がった。

「あ、」ユリウスが女を助けようと立ち上がる。

『早く、立ち去りなさい!』宙の声がユリウスに命じた。

「でも、この人が…」

 ユリウスは、倒れた女を助け起こした。

「大丈夫ですか。」

 ユリウスは、床のマントを拾うと女の肩にかけ、その冷えた体を覆った。

「ごめんなさい、僕はまだ子供だから… 貴女に答えられない… 本当にごめんなさい。」

 彼は立ち上がると女に背を向けた。

 階段を降り、館を出た。日は沈み、星が空を覆っている。

 ユリウスは、一度だけ、館を振り返った。暗い窓に女の姿は見えなかった。

「ダグなら、もっと上手くするんだろうな…」

 苦笑を浮かべた彼の眼に流れ星が映った。

「あ、星!」

『そう、あの星の先に貴方のいるべき場所がある…』

「!」

 ユリウスは、頭上を見上げた。辺りを見回し、声の主を探した。

「誰の声? あ、お…」

 また、天から星が流れた。

『追っていきなさい、あの星を。さあ…』

 優しい声に促されて、少年は自分のいるべき場所に向かって歩を早めた。


◇◇◇


 ユリウスは、何度か咳払いをした。声がちょっと変だ。朝の礼拝の時から、声が上手く出てこない。

「どうかしたか?」

 傍らのダグがユリウスに声をかけた。

「なんだか、声が変だ…」

 ややかすれ気味の声でユリウスが答えた。少しばかり低い声になっている。

「ふーん」意味深にダグが笑った。

「何?」

「何でも。」

「何か言いたそうだよ。」

「ゆうべ、帰り、遅かったよな?」

「別に。」

「女のところだったりして。」

「ち、違うよ!」

 真っ赤になってユリウスが否定する。

「怪しいなぁ~」

 ダグのからかいに反論しようとしたユリウスの視界に荷馬車が引っかかった。

 思わず、荷馬車に顔を向ける。荷台の布袋の口から赤い布がはみ出ていた。見覚えのある…

「死体袋だ。」

「!?」

「大方、遊女かなんかだろう。」

「…どこへ?」

「沖にでも捨てるんだろう。」

「捨てる!?」

「人ってのは、案外、オイシイものらしいぜ。沖の魔物にとっちゃな。だから、時々、死体をくれてやるわけだ。」

「そんな!」

「それで、船の安全を手に入れる。そんな迷信を信じているんだろうさ。」

「…。」

「なにせ、蛮族(フランク)だ。」

 ダグが自嘲気味に笑った。

 ユリウスは、港へ下っていく荷馬車を見送った。

「おい? 大丈夫か?」

「う、うん。」

「声が変になったのは、大人になってく証拠だな。」

「!?」

「後は… 女を抱いたら一人前。」

「ダグ!」

「ま、もうちょっと時間がかかりそうだけどな。」

「ダグ!」

 金髪碧眼の男は、息子ぐらいの少年をからかって楽しそうに笑った。

 ユリウスは、街を見回した。

 そう、僕はここで生まれた…。



「星の降る井戸」シリーズの1編です。

「エミール」と「サイプラス」の間になるお話です。

ユリウス少年が、子供からほんの少し大人になり始めました。

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