さくら.続き
その後、私は変わらず忙しく働いた。
うん、大丈夫。世界は同じように回っていて、私もその一部でいられている。
その確信も持ててきた頃、ランチをした彼女から連絡があった。
“今晩空いてる?ちょっと付き合って”
「……何これ?」
指定された場所には、友達と――――彼がいた。
「今更こんな……諦めた、んでしょ?私みたいなのは」
へんなの、と笑える自分に安堵する。
「わざわざ呼んだのー?彼も忙しいでしょ、解散解散、ほら、ご飯でも行こ、ふたりでさ」
「ダメだよ」
彼女がどかない。まっすぐに私を見て、視線だけで完全に通せんぼされた気分。お願いだからそんな目でこっち見ないで。そんなにまっすぐ見つめないで。どいてよ。そう言って泣きたい気分になった。
「逃げちゃ、ダメ」
「別にいいんだってば。終わったの」
「そうやって逃げてちゃ、同じことの繰り返しだよ。なんで彼が怒ったか、わかってないじゃん」
「……」
「ちゃんと話さなきゃだめ。じゃ、がんばれ」
そう言って勝手に一人で去っていった。なんだそれ。
「……」
「……体調は?」
「……」
「……」
「……」
「俺の言った意味、本当にわかってないのか」
「……」
「……俺は……嫌いになったわけじゃない」
「やめて!」
怖い。こわい、こわい、こわい。
心の奥から、本当の気持ちが溢れ出しそうだった。怖い。ほんとう、の気持ちって何?自分で自分がわからない。見たくない。そんな気持ちはいらない。見てはいけない気がする。必死で蓋をして、声を絞り出した。
「いいの、あなたがいなくても……私は、大丈夫」
自分に言い聞かせるように唱える。怖くなんかない。私は、大丈夫。あなたがいなくても大丈夫。あなたがいなくても、誰がいなくても、私はひとりで大丈夫。
「だから、もう、かまわないで」
涙が出た。声が震えた。どうしてか、わからない。涙ってなんだっけ?なんで、出るの?それも、今?
「大丈夫なの。私は、大丈夫だから……優しくしないで。あっちにいって、もう、ほっといて……」
あなたにこれ以上優しくされたら、私は、わたしは。
「行ってってば」
彼は黙って立っていた。ただ、黙って。
私を慰めるでもなく、ましてやドラマみたいに抱きしめるとかそんなことも起こらない。かといって避難や責める言葉を投げてくるわけでもない。ただ……じっと私を見つめたまま、立っていた。
「……なんか言うか、帰るか、して、よ」
「……」
「なんなのよ……」
ねぇ、お願いだから。帰ってくれなかったら、私を嫌う言葉を投げつけてくれなかったら、私は……私は。
「……」
「ねぇってば……」
きたい、を、してしまうから……
「ほんと、ちょっとは人の言うこと聞けって」
何の事かわからなかった。止めることを諦めた涙はただただ頬を伝って、私の鎧たるスーツに染みを広げていく。
「俺は何度も言ってる。頼れ、って」
「……、」
頭を殴られたみたいな衝撃だった。一瞬涙が止まって、まじまじと彼を眺めてしまう。まるで時間も止まったみたいだった。
わからなかった言葉、怒られた理由、私の閉じ込めていた気持ち。それらが一気につながっていく。
だけど、だけど、いちばん……いちばん、欲しくて、欲しくなかった言葉。
それに気づいた瞬間、戻ってきた涙はいよいよ勢いを増して、もう何も見えなかった。
「そんなの、」
しゃくり上げるほど泣くなんて、一体いつぶりだろうか。
「やめ、て……」
そんなことをしたら、そんなことを覚えてしまったら。きっと二度と私は立てなくなる。頑張れなくなる。
「やめてよ……だって」
「だって、何?」
「きっと、きっとその、うち、いつか、いなく、なっちゃうもん」
子供みたいに泣く自分が自分でも信じられなくて、だけど全然止まってくれない。
「いなく、なっちゃう、とおも、う、そんなの、わたし、」
「……?それが怖いから、一緒にいられないっていうのか」
「……」
「……」
バカだとは思う。自分でも。でもどうにも怖かった。
きっとあなたのそばにいたら、私はもう、ひとりでは立てなくなってしまうだろう。
だけどこんな自分のそばにずっといてくれるだなんて、そんな……そんな幸せがあるなんて、到底信じられなかった。
「おかし、い、って、おも、う、でしょ」
「……いや」
「い、いよ、慰め、なんか」
もうすっかりしゃがみこんでいた私に、彼は同じようにしゃがみこんで、静かに言った。
「それでも、怖いんだろ。どうしても」
「……」
「一緒に試してみればいい。終わりが来るか、来ないか」
驚いた。涙の向こうに見えた彼は、全然嘘なんかついてないように見えた。ほんとは、ほんとは……いつも大好きだった、ずっとずっと忘れられなかった、穏やかな彼の目。
「今日も明日も、1年後も5年後も……10年20年だって、怖くなくなるまで実験すればいい」
なにそれ。そんなの、まるで。
「……っ、う、」
その晩、私は彼の腕の中で眠った。
あたたかくて、優しい夜。
もういつぶりか思い出せないほど、深く深く眠った夜だった。
“今まで、ひとりでよく頑張ってきたね。
ほんとはずっと、怖かったんだよね。
もう、大丈夫だよ”