メメント・モリ
メメント・モリ、だっけ?
「死を忘れるな」とかって意味だったと思う。
でも死は身近ではない。
常に死ぬ可能性を考慮しながら生きている人は少数派だろう。
私も今から、その少数派の仲間入りだ。
末期癌を診断され、延命を断って余命宣告。
後2年以内には確実に死にます。
半年後にはベッドの住人になる事が予想され、その半年後には他界する予定。
奇跡が起これば多少延びるだろうが2年は保たないとのこと。
笑っちゃうね。
メメント・モリ。
死を思う事がこれほど苦痛だとは思わなかった。
いや、苦痛だと予想出来たから考えないようにしていたのか。
「鉛を飲み込んだような」とは上手い表現だ。
まさにそうだよ。
内臓が急に重たくなったかのように苦しく、死の恐怖に涙が出てしまう。
これほどの苦痛と恐怖。
死を忘れるなとは、なんとも酷い言葉だと思った。
思えばくだらない人生だった。
学生時代は目立たず可もなく不可もなく。
大学時代に付き合っていた彼女と社会人一年目にデキちゃった婚して子供が産まれて明らかに子供の肌の色が明らかに違い托卵されていた事実が発覚。
一度も結婚記念日を迎える事もなく離婚。
「人を見る目がない」という評価を受けて会社では居場所をなくし転職。
裏切られる事にトラウマを抱えたのか、俺は新しい職場とも馴染めず職を転々とした。
そしてもうすぐ40半ばで余命宣告。
人生50年じゃないのかよ。
俺、50歳になれない。
会社に退職願い。
理由を言えば、再来月までは雇っている事にしてくれて給料は出すが出社しなくても良いとのこと。
有難う御座いますと深々とお辞儀をして涙を隠したつもりがバレていた。
引き継ぎ準備や自分のデスクの片付けをしていたら年下先輩女性から「何かありましたか」と声をかけられた。
咄嗟に「家庭の事情で退職することになりました」と言ったが、言った後に自分の失敗に気が付いた。
過去の離婚後、俺は実家から縁切りされていて、この女性はそれも知っている。
再度「何かありましたか」と聞かれ、俺は「家庭の事情で」としか誤魔化す言葉が浮かばなかった。
メメント・モリ。
常に死ぬ可能性を考慮しながら生きていくのは難しい。
仕事でもプライベートでも、人1人がいなくなるのには中々準備が大変だ。
動ける期間が限られているので駆け足で俺がいつ死んでも良いように準備する。
結局年下先輩女性にはビンタをくらった。
「死ぬなんて許さない」と泣いてくれた。
気持ちは嬉しいのですが、もう遅いんです。
「籍だけでも」なんて言われたので全力で逃げた。
死ぬ準備が滞ったらどうしてくれるんですか。
ほとんど予定通り、私はベッドの住人になった。
目が覚めて「また目覚めてしまった」という思いと死の恐怖とたたかう。
楽になりたい。死にたくない。助けてくれ。
そんな事を思いながら死を待つしかなかった。
私は泣きながら医者に「殺してくれ」と頼んだ。
病がここまでくれば安楽死の選択が出来るハズだと。
医者には俺が見舞いにくる人も看取ってくれる人もいないのは報告済み。
そんな寂しい俺に対しても穏やかに接してくれたこの医者に殺されたい。
命を背負わすつもりはないが、貴方に殺されるなら自分の中で納得できる。
それほど貴方が素晴らしい医者なんだと思っている。
だから、もう、貴方の手で、俺を、殺してください。
メメント・モリ。
いつだって死は隣にあって、それを本当の意味で意識している人は少ない。
失う段階になって初めてその大切さを知る愚かさに嘆く女性も、最後まで見舞いに行けなかった上司も、男の死を飲み込んでいつかは消化して死を意識することを忘れて生きていくのだろう。
メメント・モリ。
いつか自分が必ず死ぬ事を忘れる事なかれ。