82.信康自刃
三話連続投稿の三話目です。
これにて信康事件が簡潔となります。
作者の考えた信康の最期について、ご意見を頂ければと思います。
天正7年7月23日、松平康親は服部半蔵を先触れとして送り出し、徳川家康の待つ浜松城に登城した。同伴の永井直勝は出迎えた井伊直政によって奥の間に連れて行かれ、康親は鳥居元忠の案内で元忠の屋敷へと連れて行かれる。その日は家康への面会は叶わぬことを元忠より告げられ、康親は屋敷内の一室で丁重に持て成された。出された膳に少しだけ箸を付け、酒は断りじっと待つ。やがて元忠がやって来て康親の前に座った。
「……今日は此処にお泊り下され。」
「…忝い。……伝八郎は無事か?」
康親は一緒に来た永井直勝を気に掛けた。
「此度の一件、殿は事の重大さを鑑み別々に御聴き取りをされるそうに御座います。今日は永井殿、明日は、貴殿に御座る。」
「…さもありなん。」
そう言うと、康親は膳を横に滑らせた。
「済まぬが、さすがに食欲が出ぬ。殿のお怒りの恐ろしきを思うと…」
元忠は笑った。
「貴殿でも恐ろしいと思われるか?…ご安心下され。伝八の御聴き取りの様子を見るにさほど怒ってはおられぬ。」
「…既に事の詳細は書状にて全て書き申した。…後は若殿の師事役として処罰軽減を願い奉るのみ。」
康親の真剣な表情に元忠はこの男の覚悟を見た。
「ご安心召されよ。今日明日で決まりませぬ。殿は七之助と長沢殿も召し出し事情を聴くと仰せだ。」
そこまで言って元忠は顔を康親の耳元に近づけた。
「…此度の件、貴殿の他にも書状を出した者がおる。」
元忠の囁きで康親の眉がピクリと動いた。わずかに怒りを覗かせる。
今回の経緯は全て康親一人で纏めた。服部衆二調べさせて事実だけを全て記載し、余計な詮索や推察は一切論じなかった。その為、経緯に出て来る登場人物は信康と直勝と武田の間者、これに密使を書いた瀬名信輝と密使内に登場する築山御前のみ。他の者は事が発覚するまで露知らず、一切関り無き事を論じたはずだった。
「誰ぞ手柄欲しさに殿に密告された様に御座る。それを見て事の真意を確かめる為…に御座る。」
康親は拳を握り締めた。怒りがふつふつと沸き上がって来るのを必死に堪えた。元忠には康親の怒りが良く分かっていた。
「我らは斯様な讒言など評価に値せずと殿に申し上げている。殿も若殿には心を痛めておられる。悪いようにはならぬ。」
元忠は落ち着いた口調で言葉を掛けて康親を宥めた。
7月24日、松平康親が家康に召し出される。元忠に伴われて謁見の間に入ると、既に家康が上座に座って待っており、石川数正、酒井忠次、本多忠勝、大久保忠世、高力清長、天野康景、小栗吉忠が康忠を見据えていた。康親は前に進み出て謁見の間の中央で膝を下ろした。
「……顔色が余り良くないな、三郎次郎。」
家康は手前に脇息に両肘をついて不敵な笑みを浮かべていた。
「お家の大事に比べれば、我の顔色など…大した事は御座いませぬ。」
大口を叩く康親の表情には余裕はなく、家康には妙に可笑しかった。
「そう構えぬでも良い。あらましはお前の書状を読んで理解はしている。聞きたいのは文には書かれていない事だけだ。…瀬名信輝とは、どのような男だ?」
「…謀略に長けた男です。藤林衆と言う伊賀者を駆使し、相手の重要人物を調略し、又は嘘の情報を流して内側から相手を打ち崩していく、謀将と言える者に御座います。」
「此度はその者が三郎に文を送っておったが、中身は残っていない。…三郎から聞いたお主の文ででしかわからぬが…お主は何をしようとしていたと思う?」
「…分かりませぬ。」
康親の意外な物言いに家康は少し目を見開いた。
「珍しいな。僅かな情報から大胆な想像で解を見出すのがお主の特技ではないのか。」
それは前世の知識のお陰で今回は役に立たない場面なのだと、康親は心の中で呟く。
「何でもいい。お主の意見を言え。」
家康の視線が鋭くなる。康親は止む無く自分の頭の中にある考えを口に出した。
「…状況から見て、密使の男はわざと発見されたと考えております。つまり、相手は岡崎に仕掛けた罠を発動させた事になります。お陰で今を招いていおりますが、武田家からは何も戦を仕掛けられておりませぬ。…この罠は戦を有利に導くためのものでは無い。では何の為の仕掛けか。」
康親は目を閉じた。できれば言いたくない考えであった。
「…徳川家に内紛の種を植え付ける事かと。」
康親の言葉を聞いて家康は面白くなさそうに溜息をついた。
「…内紛…とは?」
「………殿と、若殿の争いに御座います。嘗て武田家が父子で争うた様に、我が徳川家でも父子で争う火種を岡崎に植え付けたに相違御座いませぬ。」
家康は頷いた。実はこの考えは既に榊原康政が導き出していた。問題はこの後である。
「お主の考え…此処に居る者と同じだ。皆がそう考えるのであれば瀬名信輝とやらの狙いは合っているだろう。…では我らはどう対処すれば良いか?」
この質問も事前に重臣らにしている。だが、酒井忠次を始め誰も意見を言おうとはしなかった。家康は決して政略に疎い訳ではない。どうすれば良いか、誰も意見を言わぬのか、予想は付いている。
「家中を二つに分かつ内乱が起きる前に、対立する二人の内…どちらかを速やかに処する事と……存じまする。」
言いたくなかった。信康の減刑を訴えたかった。だが、上座に座る家康の雰囲気がそうはさせなかったのだ。この時点で康親の算段は狂っていた。
「やはりそうか。……では織田殿には何と申し上げれば良いか?」
家康の話は信康を処することを前提に続けられた。康親はたまらず声を張り上げた。
「恐れながら申し上げます!どうか!三郎様のお命を取らぬ方法をお考え下さりませ!」
空気が一気に張り詰める。中座に並ぶ重臣らは何も言わず、じっと二人の様子を窺っている。
「できぬ。此度の騒動は騒ぎ過ぎた。お主は騒ぎが大きくならぬ様強気な態度で岡崎の者共を抑えつけ儂に報告したのであろうが、既に何人もの家臣が三郎の事で書状を送って来おった!」
家康は懐から数枚の書状を取り出し、康親に放り投げた。思った以上の数に康親は驚く。
「三郎の罪を訴える者、反対に処罰を軽くする様訴える者……極めつけはこれじゃ。五徳殿の名で嘆願を出して来おった。…これだけ騒がれてはお主の苦労が台無しなのじゃ!」
重臣らが俯いた。彼らは分かっていた。松平康親という男が、信康を助けんと騒ぎにならぬ様に細心の注意を払って諸事を片していたかを。だが、最も知られてはいけないお方に知られてしまっていた。重臣らは信康の命を助けるよりも、織田家との関係をどうするかを優先せざるを得なくなってしまっていた。だからこれからどうするかを誰も進言できなかったのだ。
浜松の置かれた状況を理解した康親は肩を落とした。これでは史実と同じ道を歩む。史実の松平信康がどういう理由で書されたかは知らぬ。だが結果は同じ。徳川家は織田家との同盟関係を維持する方を優先して謀殺した。
「…我を安土へ遣わし下さりませ。織田殿と面会し、三郎様を嫡子たる不覚悟にて追放せしむる談、申し開きまする。」
「その儀に及ばず。……役目は左衛門尉に任せる。お主は事が終わるまで此処で待っておれ。」
酒井忠次が頭を下げる。家康は話を続ける。
「三郎信康は織田家と徳川家を結ぶ縁でありながら、その役目を果たさず、嫡子たる覚悟在らず…よって岡崎城を召し上げ自害を申し渡す。…これは儂でも覆らぬ。」
「それでは織田家との盟約が切れてしまいまする!」
「…どうすれば良いかを考えるのだ。三郎の仕置きと岡崎の後始末は、与七郎と左衛門尉にやらせる。」
家康は言い切った。これは松平康親の更迭に他ならない。康親はこれで信康事件に対して何も関与ができなくなった。
天正7年7月23日、松平康親が謹慎を受ける。
7月24日、徳川家康の命で岡崎城への全ての出入りが封じられる。
7月29日、浜松城にて軍議が開かれ、織田家及び武田家への対応を検討する。松平康親の案を採用し方針が決定する。
8月1日、徳川家康は二千の兵を率いて浜松城を出立。8月3日に岡崎城に到着する。
8月4日、徳川家康から松平信康に岡崎城没収と大浜羽城への異動が命じられる。信康は抵抗することなくこれを受け入れ、大久保忠佐に伴われてこれに向かう。
8月5日、織田家への使者として酒井忠次が安土に出立する。
8月6日、家康は西ノ丸に軟禁の築山御前とその侍女衆らに遠江冨塚への異動を命じる。同日、信康家臣の平岩親吉、松平重吉、松平康忠、松平康安、榊原清政、天野繁昌、伊奈忠家らに謹慎を申し付ける。
8月7日、酒井忠次は岐阜城に到着。織田信長への面会を取り次ぐよう堀秀政に申し次ぐ。同日、松平重吉、榊原清政が隠居を申し出る。家康はこれを承諾。
8月9日、酒井忠次が織田信長と面会する。岡崎城の松平信康に松平信康についての処遇を説明し了承を得る。同日、信康を遠江堀江城に移す。
8月10日、徳川家康は西三河国衆に「今後、松平信康と連絡を取らない」旨の起請文を書かせる。
8月13日、岡崎での仕置きを終えたとして徳川家康は浜松城に帰る。
8月29日、築山御前が遠江富塚で急な病に見舞われ命を落とす。遺体はそのまま冨塚にある西来禅院に葬られる。
9月1日、松平信康は大久保忠佐に伴われ遠江二俣城に移動する。
9月15日、松平信康が二俣城にて自害する。遺体は清瀧寺に葬られる。……享年二十一歳。
9月22日、松平康親らの謹慎が解かれる。同日、伊奈忠家、忠次親子が出奔。
9月23日、永井直勝が出奔。
9月29日、松平康親が井伊谷龍潭寺を訪れる。
「……以上が、この事件での結末に御座り申す…南渓瑞聞殿。」
康親は嘗て世話をした井伊家の菩提寺、龍潭寺の住職に信康事件を説明した。瑞聞は聞き終えると神妙な面持ちで隣で座禅を組んで数珠を持って念仏を唱える僧を顧みた。
「……せめて御前様の御霊が浄土に迎える様、念仏を唱えておりました。」
僧は目を開けると康親に向かって一礼した。
「忝う御座る…隋風殿。」
隋風と呼ばれた僧は数珠を仕舞うともう一人の若い僧を見た。まだ丸めたばかりで頭の具合が気になる様子の若い僧に手を差し伸べる。
「今はまだ現世に未練も御座ろうが、拙僧と旅先で修業を繰り返せば自ずと気持ちも晴れよう。戒律を重んじ念仏に精進して貰う。」
隋風に言われ若い僧は「先生…」と康親の方を見た。
「若殿…貴方は死んだ身に御座います。この先は此方の隋風殿に師と仰ぎ、得度をお積み下さい。」
「ほっほっほ…京でも名を馳せた隋空殿に左様に申されると……何やらこそばゆいですな。」
「戯言は止して下さい。“隋空”なる僧はもうおりませぬ。それに若殿…いえ、瑞心に求むるは武士に仕える僧では御座らぬ。」
「分かっておる。岡崎の三郎信康と言う武士は死んだ。此処におられるは、母の御霊を弔わんと修業に励む“瑞心”と言う名の若坊主…。」
隋風は若い男を見上げる。
「まだ僧と呼ぶには…身体つきが良すぎるがのう。」
隋風はまたほっほっほっと笑う。康親も呆れたように笑った。
「……別れの挨拶を済まされよ。此処もあまり長居は出来ぬ。」
瑞聞は若い男の背中に手を当て促した。瑞心は康親の前に立ち一礼した。
「…先生には…ご迷惑ばかり、掛けてしまいました。」
「間に合って、よう御座いました。若殿の…いえ瑞心殿の身代わりの神人を予め用意しておいたのが功を奏しました。」
「まさか、私が父に命を奪われる事を想定しておられたとは…」
「別にあらゆる可能性を考えて動いていただけに御座ります。それに運よく首切り役を半蔵に入れ替えられたので身代わりが有効になりました。礼を言うなら、貴方様の為に割腹した神人に申して下さりませ。」
康親の言葉に瑞心は両手を合わせる。
「さあ、行きますか。拙僧はこれから奥羽へ行かねばなりませぬ。斯様な所で道草を食ってる場合では御座らぬ。」
隋風はややきつい口調で瑞心を急かした。瑞心は「はい」と返事をしてもう一度だけ康親に頭を下げた。
「先生に頂いた命、大事に致しまする。」
「僧として大成することをお祈り申し上げまする。」
二人は寺を出て行く。見えなくなるまで見送って、康親は瑞聞に礼を言った。
「無理を言って申し訳御座らぬ。」
「…何、たまたま、隋風殿が立ち寄られていたから紹介したまでじゃ。礼なら既にたんまり貰っておるし。」
「そう言えば、隋風殿も謝礼の砂金を見て喜んでおりましたな。…坊主と言うのは金に目が無いものなのであろうか?」
「……この時代、坊主も銭が無ければ何もできぬのじゃ。特に有力者の後ろ盾のない坊主はの。」
康親は納得した。史実でも隋風という僧侶は、全国を行脚しその都度、其の地の大名の庇護を受けている。
「これからどうするのじゃ?」
瑞聞に問われて康親は空を見上げる。
「……御前様の墓に手を合わせて参る。……これでも一応、我の姉だったのでな。」
康親はそう言うと、驚く瑞聞をよそ目に歩き出した。
徳川家康
徳川家当主。信康事件に対し、織田家との同盟関係継続を優先する為に、息子信康に切腹を命じる。以後、信康は“松平信康”を記され、過去の徳川名義の信康文書を破棄させた。
酒井忠次
徳川家家臣。信康事件の顛末を織田信長に報告する。信長は残念そうであったもののこれを了承し、夫を失った五徳姫の受け取りを了承、同盟関係の継続を約束する。
五徳姫
織田信長の娘。信康事件について女中から聞かされ、処罰減刑の嘆願を徳川家康に送る。これが引き金となって信康処刑となったことは知らずに、石川数正に伴われて織田家へ帰郷する。
松平重吉
徳川家家臣。信康事件に連座して謹慎を言い渡される。その後責任を感じて隠居する。天正8年、病にて死去。
榊原清政
徳川家家臣。信康事件に連座して謹慎を言い渡される。その後責任を感じて隠居する。隠居後は弟康政の領地にて余生を過ごす。
平岩親吉
徳川家家臣。信康事件に連座して謹慎を言い渡される。隠居を願い出るも家康に止められ、直臣に復帰する。
松平康忠
徳川家家臣。信康事件に連座して謹慎を言い渡され蟄居する。その後家康の直臣に戻る。
松平康安
徳川家家臣。信康事件に連座して謹慎を言い渡される。その後石川数正の家臣を経て直臣に帰参する。
伊奈忠家
伊奈忠家
徳川家家臣。信康事件に連座して謹慎を言い渡されるも二人そろって出奔する。伊奈家の居城浅井西城は再び松平康親が管理することになる。
安藤定次
植村家次
永井直勝
徳川家家臣。信康の小姓を務める。信康事件後は岡崎を出奔するも、一年後に家康に召し出されて直臣となる。
天野繁昌
徳川家家臣。信康事件に連座して謹慎を言い渡され、隠居する。息子は榊原康政の叔父に養子として迎えられる。
南渓瑞聞
井伊谷龍潭寺の住職。康親の依頼を受けて旅僧の隋風を紹介する。
隋風
陸奥の国出身の天台宗の旅僧。若い頃から下野、近江、大和、山城、甲斐と各国を回り、名のある寺で学ぶ。後に“天海”と名乗り、徳川家に大きく関わる。
築山御前
徳川家康の正室…であった。武田家との内通発覚後は人知れず軟禁状態となり、信康事件の折に岡崎城を追放され、遠江冨塚に移る。同地で人知れず殺害され、人知れず葬られる。
松平信康
徳川家康の長子…であった。武田家との内通の発覚により、岡崎城を追放され、領内を回された後、二俣城の離れ屋敷にて切腹させられる。
実際は切腹直前に康親の用意した神人と入れ替わり、服部半蔵の手助けで二俣城を脱出。その後、瑞聞から法名を与えられ、瑞心と名乗り、隋風の弟子として全国を行脚する。