6.旅立ち
二話連続投稿します。
天文22年夏。
西風の病状は良くはならなかった。夏の暑さにも祟られ悪くなっていた。静が懸命に看病をしているが回復の兆しは見えず。夜紅は途方に暮れていた。佐名や鶴も見舞いには訪れるがどうすることもできていない。
「竹千代様にお知らせしますか?」
半三は夜紅に尋ねる。母の病悪化は松平家には伏せていた。理由はある。
「そんなことをすればあいつは全てを捨ててこっちに来るであろう。再び崇孚様の師事を受けられておるのだ。迷惑などかけとうない。」
「しかしそれでは…」
「別に会わせたくない訳ではない。冬になれば崇孚様はまた療養に入られる。そうなれば呼び寄せる。」
それまで西風様がもつかどうか…。言おうとして半三は口を噤んだ。決して言ってはならぬこと。自らに念を押し話題を変えた。
「三河から連絡が御座いました。竹千代様の護衛を強化する為、国から新たな家臣を此方に送るそうです。」
「父が良く許したな。誰が来る?」
「酒井左衛門尉忠次殿…某を見知っておりまする。」
夜紅は筆を止めた。そして自分の中の前世の知識を検索する。自分の記憶が正しければ酒井忠次が駿府の屋敷に加われば正親に次ぐ年長者となる。半三と顔を合わせる機会も出てくるだろう。だがこの時期に側に侍る家臣を追加するというのはどういう理由だ?
「半三、国元から何人か連れて来れるか。酒井忠次殿が知らぬ者を。」
「は…可能に御座りまするが…。」
「呼び寄せよ。給金はちゃんと出す。代わりにお前は表に出ぬようにするのだ。…できるか?」
「…それは忍の本領に御座ります。承りました。」
半三の答えに夜紅は直ぐに実行に移すよう命じた。
別の日、夜紅は実父の親永に呼ばれた。理由は西風の病状を聞くためである。自分で確認すれば済むだろうと思うが、この男には西風への愛情はない。興味の中心は夜紅であって病状の確認すら夜紅と話をするきっかけであった。
別に夜紅はそのことについては怒りはない。そもそも最初から愛情などはなかったのだから求めても意味はないと悟っていた。だが、母の死後、亡骸を打ち捨てられるのは御免だと考え、予め母が亡くなった後のことを前ぐ約束させた。葬儀と墓所の手配を関口親永の名で執り行うことを念書で書かせたのだ。代わりに母の死後の夜紅自身の去就は親永が決めるとなった。念書を書き終え筆を置くと親永は夜紅を見た。普通は母の病気の回復を祈るのが子ではないかと思う。けれども淡々とした表情。やはり只者ではないと改めて感じた。
天文22年秋。
母は布団から起き上がることができなくなった。自分でも死期を悟ったかのようで、あまり無理はせずに部屋から眺める庭の景色だけを見て過ごすようになった。夜紅は竹千代への手紙を書いた。書き終えたところで母から声を掛けられる。
「…竹千代殿に文を寄こすのですか?」
「…はい。」
「ではいよいよ私が危ない…ということですね。」
「何故そう思いますか。」
「夜紅のことです…松平家には何も言っておらぬのでしょう。されど私の身体は治る見込みがなくなった…だから……。」
西風は息子の性格を良く理解していた。夜紅は返事はせずに半三を呼ぶ。半三は受け取った手紙を部下に預けて指示を出して走らせるとその場で膝を付いて留まった。夜紅は半三の行動に苦笑する。
「母上。半三が母上からお言葉を頂きたいようです。何か言って差し上げてください。」
母も寝たままで笑顔を見せた。
「半三殿、私の命は今日明日というわけではありません。今生の別れのような顔をしないでください。」
半三は動かなかった。真剣な表情で西風を見つめている。
「……では一言だけ。夜紅をお願いします。」
半三は黙って頭を下げた。この時点で半三は夜紅に生涯をささげる気でいた。だが西風から改めて言われその思いは更に強くなった。
「元よりそのつもりでいたようです。我も半三がいてくれると心強い。」
夜紅からも言葉を貰い半三は涙が出そうになった。
翌日、慌ただしく客が訪れた。勿論竹千代である。酒井正親と鳥居彦助を伴っていた。
「御母上殿、遅くなって申し訳御座りませぬ。我は忙しい身。ようやく時間を作って御顔を見せに参りました。」
病状のことには一切触れずに竹千代は話を始めた。母もこれに応じて自身のことは何も言わず話を合わせる。時折彦助や正親が相槌を打って話を盛り上げ少しの間和やかな雰囲気が流れた。だが会話が途切れた時に西風のほうから切り出した。
「竹千代殿…私はもう…長くはないでしょう。」
竹千代は一瞬硬直したが顔を引き締め直した。
「…夜紅からの文でなんとなく察しました。」
「…怒っておりませぬか?」
「夜紅に御座いまするか?当然怒っております!…されど、初めから聞かされていれば…もっとつらい思いをしていたのではないか?と正親に言われました。」
「どうだったでしょうかねぇ。」
「はい、どちらであったのか、というのは関係御座りませぬ。重要なのは今どうするのか…と考えまする!」
竹千代の力の籠った言葉に西風は頷く。
「…成長されましたね。私はとても嬉しいです。酒井殿も彦助殿も今日はありがとう。」
彦助は泣いていた。我慢していた分その流れる量は溢れんばかりである。竹千代は我慢した。逆に笑顔を見せた。
「御母上は、とても自然に笑っておられる。だから我も笑顔で御母上と…わ、別れようと…おぼいまする!」
竹千代は鼻水を勢い良く啜った。あふれる涙がこぼれないよう天井を見上げる。西風は静に目配せする。静は竹千代に紙の束を渡した。
「これは…?」
「栞です。私にはこれくらいしかできませんでしたが…庭の花を取って静に作ってもらいました。屋敷に残る方々の分もありましょう。」
竹千代はじっと栞を見つめていたが、一枚だけ手に取って残りを正親に渡した。
「有難く頂戴いたしまする。残りは御母上を慕う者に必ず渡しまする。」
竹千代と母上の会話は終わった。竹千代たちは夜紅の案内で屋敷を出て門までやって来た。
「…この後…どうするのだ?」
竹千代は夜紅に尋ねる。「このあと」とは西風が亡くなった後のことだ。
「静は、佐名様のお計らいで鶴姫様付きの女中にして頂ける。我と半三一家は駿府に戻り、御屋形様の元に出仕する。」
意外な言葉に竹千代は夜紅を顧みた。
「父と取引した。母上をちゃんと弔って頂く代わりにそうなった。」
竹千代は笑った。
「お前らしい。…そうなれば、お前のほうが先に出世するだろうな。」
夜紅は首を振った。
「多分出世は無理であろうな。御屋形様や崇孚様から評価されようとも、他の小姓らからは相手にされなくなる。まともな仕事などできぬであろう。」
「そういうものか…。」
「ああ。」
しばらく沈黙が続く。久しぶりに会うたというのに意外と話すことがなかった。
「引き上げるぞ!」
竹千代は家臣に号令し馬を駆って帰っていった。夜紅が西風のところに戻ると、無理をしていたのか息を切らして横になっていた。
「竹千代殿…とは…何か…話し…ましたか?」
「…いいえ。」
「夜紅も…竹千代殿…も、不器用です…ね…。」
「そうですね。」
十日後、西風は息を引き取った。
結局冬まで持たなかった。母の身体は見た目以上に何かに蝕まれていた。
葬儀は母上の身分の問題もあって簡素に執り行われ、出席者も限られた。墓も菩提寺の隅ではあるが建てられた。
館は片づけられ、静は鶴姫に引き取られた。夜紅は佐名と鶴に挨拶をしたあと、駿府へ向かう準備を始めた。半三は夜紅の姿に武将として冷静さと力強さを、そして人としての冷徹さと儚さを感じ取っていた。同時にこの人をお支えしたいという気持ちも高まっていった。
「半三、これからが厳しいぞ。我は味方の居らぬ虎の穴に飛び込む。お前たちにも何かしらあるやもしれぬ。」
「構いませぬ。疎外を受けるのは三河での生活と変わりませぬ。気になりませぬなぁ。」
半三の言葉に他の家臣たちが頷く。夜紅は笑った。
西風の葬儀の翌々日、夜紅は持舟城西ノ館を出て、駿府の今川館へ移動した。
三河国岡崎城三ノ丸。
松平家の面々は岡崎城の三ノ丸に集まっていた。駿河に出向している服部保長からの報告を共有する為だった。家中最年長の鳥居伊賀守忠吉を筆頭に、大久保家、本多家、榊原家、酒井家といった安城衆の有力家の代表が集まっている。
「竹千代君の母親代わりでもあられた西風殿が亡くなられたそうだ。」
「嘸かしお嘆き遊ばしたのであろう。」
「竹千代君は西風殿の死を受け入れ、心を強くなされたそうだ。」
「それは頼もしい。」
「で、その子である“夜紅”殿とは?」
「普通らしからぬ友諠を結ばれているようで。」
「その者との友諠は仇とならねば良いのですが…。」
「半三の話では、今川の人間でありながら、竹千代君に寄り添っておられるそうだ。半三のことも承知しており、服部一族を手元に置いてくれておる。」
「半三の事はここだけの内密の案件じゃ。無暗にその名を口にするでない。」
様々な意見が飛び交う。鳥居忠吉が咳ばらいをすると会話が途切れ、視線が集中した。
「…問題にすべきは竹千代君のお心持じゃ。いくら立派な将として成長されようとも今川の犬となり果ててしまわれては元も子もない。」
忠吉の声には深みがあり、皆がその声に吸い寄せられるように聞き入る。
「先日もその“西風”とやらに腑抜けにされぬよう酒井左衛門尉を駿河に遣わした。いかに“夜紅”という者が竹千代君に寄り添われていようとも、竹千代君の御身に効果がなければ意味などない。半三に伝えよ。もう少し竹千代君のお心持がわかる報告をもたらすよう。それと夜紅殿に「三河領主となられるように」寄り添ってくれと。」
忠吉の冷徹な言葉は一同を静まらせた。非道とか心のない言葉にもとれる忠吉の発言は当初から一貫していた。彼の頭には竹千代が立派な大人になって自分たちを率いてくれる姿しかなかった。だがこの忠吉の一貫した態度が当主不在の松平家を一枚岩にしている根源でもあった。
松平竹千代
母代りでもあった西風の死を機に精神的と大きく成長する。
西風
天文22年死去。
酒井左衛門尉忠次
徳川家臣。後の徳川四天王の一人に挙げられる。
鳥居伊賀守忠吉
清康の代からの重臣で今川家との交渉役も担当している。商いの才があり、当主不在の苦境の中自家の財を放出して家臣団の維持を行ったことで家康帰還後も岡崎城代して活躍する。