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44.井伊家動かず



 永禄9年9月1日、三河国岡崎城。


 徳川家康は入念な準備の末に遠江攻略の兵を挙げた。事前に遠江の国人衆と誼を通じて徳川の味方をするよう工作し、三ヶ日(みっかび)を治める浜名頼広を孤立させた。徳川軍は自らを総大将として三千の兵を準備し岡崎を出立する。これは徳川家が三備の軍制を整えてから初めての大戦であった。

 先発は酒井忠次率いる東三河衆で、豊川から後に姫街道と呼ばれるようになる浜名湖の北側を通る街道を進軍した。次発となった石川家成は少数の兵を従えて三ヶ日を大きく北側に迂回するルートで進軍した。家康本隊は本多忠勝、榊原康政、鳥居元忠ら旗本衆と石川数正率いる西三河衆の千五百で先発隊の後を追うように進軍した。

 家康は調略に応じない浜名一族を力攻めで攻め落とすつもりでいた。榊原康政を筆頭に家臣らからの反対を受けたのだが、それを払いのけての強引な出陣であった。言うことを聞かない主君をなんとか一戦して無事に岡崎へ帰れるよう康政は隋空に従軍を要請していたのだが、その隋空は石川家成と共に宇利峠へと向かっていた。目的は家成とは異なり、井伊家の使者との会談であった。


 井伊家は桶狭間の戦いで今川方として従軍し、当主直盛を含む多くの将兵を失っている。更には次の当主であった直親が今川家から謀反の嫌疑を掛けられその弁明に駿河へ向かう途中で謀殺されたため、急速に力を失っていた。井伊領は氏真の意を受けた今川派の家臣によって統治されており、井伊家を継いだ次郎法師と名乗る尼は自領回復の為に密かに徳川家と文を交わしていた。隋空はその井伊家と密約を交わす為に家成の隊と行動を共にしていた。



「石川殿。拙僧は此処から分かれます。本隊との連絡は服部衆にお任せ下され。…ご武運を。」


 そう言って隋空は服部平助を家成に預けた。石川家成の役目は先発隊が浜崎に攻め込んだタイミングで千頭峯(せんとうがみね)城に夜襲を掛けることであった。この為本体との連携が不可欠でこの役目を服部衆に任せていた。


「隋空殿もお気をつけて。井伊は今川寄りの者が多いと聞きます。この会見も敵に知られているやも知れませぬ。」


 家成の忠告に隋空は頭を下げた。


「お気遣い感謝致す。…逃げ足だけは自慢故何かあれば一目散に逃げまする。」


 そう言うと二人は笑った。




 永禄9年9月15日、遠江方広寺。


 結果から言うと、此度の戦も井伊家との会見も失敗に終わった。浜名家内部で内応を約束していた者が誅殺され、徹底した籠城作戦に見舞われ、元々練度の低かった三河兵では攻略できぬと、兵力と兵糧の消耗を危惧した榊原康政の諫言により矛を合わせる前に撤退となった。これに合わせて石川家成も夜襲を断念。すぐさま三河に撤退となった。

 徳川軍の撤退は井伊家にも伝わり、事の露呈を懸念した井伊家側の判断により会談も中止。隋空は遠江奥山にある方広寺という寺まで来たところで三河に引き返すことになった。


「半蔵、三河の殿の御様子はどうであった?」


 方広寺の住職に用意された離れの部屋で夕餉を取りつつ隋空は家康の様子を尋ねた。半蔵は苦笑いを見せた。


「…かなりご立腹で、刀を抜いて騒がれた為に本多様に抱えられて陣を払われまして御座います。」


 半蔵の回答に隋空も苦笑した。家康の気性であれば極大の癇癪を起すであろうと容易に想像できる。問題はこの後どうするかであった。


「今下手に動いては浜名の残党狩りに出くわすやも知れぬ。暫く此処に滞在し様子を見て三河に戻ろう。」


「はは、御供致しまする。」


 隋空と半蔵は危険を回避するために暫くこの寺に世話になることにした。幸いな事にこの寺は井伊家とゆかりのある寺でもあり、身の安全は確保できそうであった。




 永禄9年9月17日、遠江方広寺。


 臨済宗龍潭寺の僧が隋空を尋ねて来た。


「おお、向こうから尋ねて来られたか!」


 知らせを受けた隋空はそう呟くと嬉しそうな表情をして半蔵に迎えをやらせた。暫くして半蔵はやつれたようにも見える老僧を伴って戻って来た。老僧は隋空を見かけると立ち止まって丁寧な挨拶をする。隋空も手を合わせて挨拶を返した。


「ようやく貴僧と会うことができて嬉しく思う。」


 友好的な言葉を言いつつ老僧は座った。


「拙僧も貴方にお会いしとう御座りました。」


 隋空も言葉で感謝の意を伝えた。二人は暫し黙り込んで互いの表情を確認した後に笑い合った。


「浜名攻めに失敗したことで井伊家は身を引きましたが…これは徳川家を見限ったという意は御座りませぬ。」


「判っておりまする。だからこそ拙僧も此処で待っておりました。」


「井伊家は徳川家に与する用意は整えておりまする。しかし、家中には今川家から離れることを良しとせぬ者どもも多く居りまする。」


 老僧の言葉に隋空は頷いた。この時期、井伊家は小野政次を筆頭に親今川派の家臣が井伊家を仕切っていた。彼らは今川家の指示を受け、浜名家を支援する形で徳川家に対抗している。


「しかし浜名家がいなくなれば彼らもおとなしくなり井伊家が徳川家に属することは容易だと考えておりまする。」


「其は井伊家御当主の考えに御座りまするか?」


 隋空の問いに老僧は大きく頷いた。


「本来ならば当主自ら、貴僧と対面して話すべきでありましょうが、何分にも家臣らにも気を使わなければならぬ身でして…。」


 井伊家の当主は監視されているようだ。迂闊に動けば今川家に知られて前当主と同じ運命を辿ることになる。だからこそ戦の状況に応じて会談を中止したのだ。隋空は頭の中で状況を整理した。だがそれでも解せないところはある。


「南渓瑞聞殿、あなたが危惧されているのは今川だけでは御座いますまい。北の武田にも注視されておられるのでは?」


 隋空の一言で老僧は一瞬表情を変えた。


「ご明察通り…。力の弱まった井伊家に忍び寄る危機としては寧ろ武田家の方が大きいのです。ですが、家臣らにはそれが判っておらぬ。」


 老僧は表情を隠すようにため息をついた。この老僧は南渓瑞聞と言って井伊家の血を引く者で早くに出家して僧の身で井伊家を支援していた。隋空自身も前世の知識でこの老僧の事をよく知っていた。


「ではそのあたりの懸念が払拭されれば、我らに味方してくれると申しますか?」


「徳川殿にそれができますかな?」


「…今直ぐには、無理でしょう。…ですがあと二年もすれば徳川家は遠江を支配することになりましょう。」


 それは歴史を知る者しかわからぬ自信に満ちた表情で隋空は言葉を返した。瑞聞老は隋空の表情に一瞬たじろぐ。だが直ぐに切り替えて次の問いを投げかけた。


「如何に徳川殿の傘下となろうとも、今川、武田がある限り、この井伊谷には安寧は御座らぬ。徳川殿ならば如何致すか?」


 井伊家が求めるは先祖伝来からの領地の安寧であることが瑞聞老の言葉から十分に伝わる。井伊家はまだ迷っているのだ。武田か徳川で。隋空は老僧の吐く言葉の真意を理解しつつも、今の時点では彼らが満足のいく回答を用意はできなかった。


「南渓瑞聞殿、このまま今川に寄ればいずれ武田か徳川の餌食となろう。武田に下れば領地は安堵されるが対今川、対徳川へこき使われるであろう。」


 瑞聞の眉間に皺が寄る。鋭い眼光で老僧は隋空を睨みつけた。


「徳川殿へ下っても同じことであろう。」


 老僧の低い声に隋空はにこりとした。


「土地柄…ですな。この地に固執すればいずれ井伊家は滅ぶことでしょう。我らとしても井伊家には服属頂きたいと思っておりましたが…この地を捨てられぬのであれば…」


 隋空はゆっくりと腰を上げた。


「三河に戻りまする。」


 老僧の睨みはなおも続いていた。


「南渓瑞聞殿、もし井伊谷を失うことあらば…拙僧を頼って下さらぬか?」


 瑞聞は無言だった。当然の事であった。古くからその地を領する国人ならば先祖代々の領地を捨てて他家に仕えるなど考えられない。だが井伊家はこの先領地を捨てることになる。それを知る隋空は含みを持たせた言葉を瑞聞に送って退出した。




 永禄9年9月21日、三河国岡崎城。


 遠江から帰国した隋空は半蔵を伴って岡崎城に登城した。直ぐに家康から呼びつけられて広間へと行くと既に旗本衆が揃っていた。更には東三河衆、西三河衆の者も居座っている。隋空は居並ぶ諸将に「仰々しいな」と心の中で思いつつ半蔵を従えて入室して下座位置に腰を下ろした。


「良くぞ戻って来た隋空。……して井伊家とは話ができたか?」


 隋空を労いつつも結果が気になるようで身を乗り出しながら家康は言葉を掛けた。


「残念ながら会見は断られました。」


 隋空の答えに半蔵は眉を動かした。直ぐに目を伏せて表情を隠す。


「やはり御当主殿は家中の今川派と浜名家を気にして慎重になられているようです。」


 隋空の返答はとたんに家康の機嫌を悪くした。


「やはり井伊家を服属させるは尚早と見受けまする。」


 家康の機嫌がますます悪くなる。だが隋空は平然と言葉を続けた。


「恐らく遠江中の諸侯が我らへ味方することを渋っているのは周辺の情勢で御座いましょう。」


 ここでようやく榊原康政の合いの手が入った。


「情勢?隋空殿、詳しくご説明下さいませぬか?」


「…服部衆の調べでは、今川家は当主派と反当主派で分かれておるそうです。そして反当主派らは武田家を味方に引き入れようと画策しておるように御座います。」


 京から引き上げさせた服部衆はそのほとんどを駿河に放った。そうして得た情報を隋空は説明する。氏真は気に入った近臣のみを重用し度々公家共を呼び寄せては京遊びに耽っており政務を疎かにしていること。そして重臣らは自領で蓄財に励むようになっており政権運営が破綻しかかっていることを突き止めた。その中で隋空のかつての親族である関口兄弟が中心となって武田家と文のやり取りをしている事実を知る。文の内容は流石にわからぬが恐らく武田への内応だと考えていた。

 そのことを隋空は家康に説明して遠江は武田の脅威にも晒されていると話をまとめた。最初に榊原康政が腕を組んで唸った。家康も難しい顔を見せて家臣らの様子を伺っている。隋空は家康が今の話を余り理解できていないように見えて笑いそうになった。

 そんな時に一人の男が発言した。


「殿、織田殿は武田家と盟を結んでおりまする。その伝手を持って我らも武田と不戦の約定を取り行い、此れをもって遠江衆を調略するは如何で御座ろうか。」


 発言したのは石川春重という男で石川家成の一族であった。今は西三河衆の代表として家成の代理でこの場にいる。


「悪くは御座らぬ。織田殿への了承は必要だろうがうまくいけば武田家の南進を抑えることができよう。」


 康政が肯定的な意見を言うと周りの者も頷きだした。家康も周りを見つつうんうんと頷いている。隋空は素早く全員を見回し、この中で良い顔をしていない者を確認した。

 話は其処からは隋空ではなく、春重が主体となって進められ、最終的には織田に使者を出してお伺いを行ったうえで武田と交渉する運びとなった。家康は織田家にお伺いを立てることに文句を言ったが榊原康政と鳥居元忠で何とか宥められている。


「隋空、そういうわけで一旦遠江への調略は中断する。またその後は東三河衆に任せることとする。…良いな?」


 家康は締めくくりとして下座位置に座る隋空に聞いた。隋空はゆっくりと頭を下げた。


「承知いたしました。」





 永禄9年9月19日、駿河国瀬名館。


「主殿……言いつけ通り、服部衆の素破共には武田家と通じている者を見つけるように餌をばらまいておきました。」


 障子の向こうから低い声がする。障子には月明りで二つの人影が映し出されていた。瀬名氏詮は障子のほうには視線を向けず机上のままで声に対して返答した。


「ご苦労であった。……相変わらず長門守は手際が良いな。」


 氏詮の声に障子に移る影が動き頭を下げる。


「瀬名様にお仕えするようになってからは気持ちも楽になりまして…。こうして我が子、大十郎も取り立てて頂き、感謝に堪えませぬ。」


 もう一つの影が頭を下げる仕草をした。その動きが氏詮の目に留まった。


「其方のように良い働きをする者はいくらでも欲しいのだ。大十郎にも期待しておるぞ。」


「は!」


 若い男の小さいながらも元気のよい返事が聞こえ、氏詮は満足そうに頷く。


「して…服部衆共は何時まで騙せるかの?」


「少なくとも主殿の動きが悟られない限りは問題御座りませぬ。主殿へは某が付き従いまする故、決行の時までは気づかれぬでしょう。」


「成程…。では儂も暫くは他の重臣らの真似をして蓄財に励むとしようか。…其方らも暫くは自重するように。」


「畏まりました。」


 やがて障子に映る影がすぅと消えて行った。氏詮は視線を机上に戻した。



浜名頼広

 今川家家臣。遠江の浜名湖周辺を領する国人。


次郎法師

 今川家家臣。遠江の井伊谷を領する国人で、井伊直盛の娘。直親の遺児の養母として、南渓瑞聞の推薦で当主不在の井伊家を取り仕切っている。


南渓瑞聞

 臨済宗龍潭寺の住職。井伊直平の子と言われている。


石川春重

 徳川家家臣。石川家に名を連ねる。後に平岩親吉と共に信康の付家老となる。


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