43.出兵回避
永禄8年6月4日。
織田信長は、三好家に殺された足利義輝の弟、義秋から上洛への協力要請を受けた。信長は返事を保留すると重臣の丹羽長秀を使者として岡崎に走らせた。内容は徳川家への協力要請であった。
丹羽長秀は、足利義秋を上洛させ新たな公方様に就任させるのに協力せよと、ついては兵五千と銭五千貫を用意せよと言って来た。
家康は家臣と相談するために長秀を饗応の屋敷で待たせ、東西旗頭と旗本、奉行衆を呼び寄せた。集まった家臣は石川家成と本多忠勝を除いて皆が反対した。家康自身も「協力する義理無し!」と怒りを露わにしていた。そこに遅れて隋空が入って来て家康に挨拶した。
「隋空!お主の意見を聞きたい!」
家康は隋空を広間に招き入れた。隋空は皆の様子を訝しげに見つつ着座する。
「隋空、お呼びにより罷り越して御座います。」
「上総介殿からの書状じゃ!読め!」
そう言って家康は書状を放り投げた。隋空は空中でそれを受け止めゆっくりと開いて中身を読んだ。読み終えると丁寧に折りたたみ、傍に控える鳥居元忠に渡すと家康に向かって両手を付いて頭を下げた。
「此の書状に記したる要請…お受けなされませ。」
隋空の具申に家臣らがどよめいた。家康も驚いた表情で隋空を見返した。
「何故じゃ?我らには今川打倒という目的がある。斯様な事に大事な銭と兵を使うても得にもならん!」
家臣たちも頷く。だが隋空は首を振った。
「理由は四つ御座います。」
隋空は持論を説明した。まず織田家から銭を借りている以上無理な返済を迫られぬよう気を使う必要があること。次に足利家を奉じて兵を動かすは大義名分があること。そしてその大義名分を今川家に掲げられぬよう計る必要があること。最後に徳川の名を足利家に知らしめること。早くから足利家と誼を通じる事で今川との対決に有利に仕向けることが可能になる、と利を説いた。反対派だった家臣たちも家康も唸った。話を聞いていた家成は心の中で胸を撫でおろした。
「…じゃが隋空、織田家は今、斎藤家と争っておるのではないか?」
家康はある程度状況を把握していた。榊原康政が家康の言葉に頷く。康政が危惧しているのは、三河の兵が斎藤家との戦に使われることであった。
「はい、織田家の目論見はそれに御座いましょう。我らは“上洛のための兵”を了承する必要が御座います。故に今すぐ尾張に兵を向ければ美濃への戦に駆り出されるでしょう。此処は返事の仕方を工夫なされませ。」
「…何と返事する?」
家康は隋空に聞き返した。
「公方様の御為ならば直ぐにでも推参仕りまする。併しながら美濃との争いを織田殿がお納め下さらねば我らは動けませぬ…と一旦出兵をお受けした後で問題解決を行って頂くよう申せば良いかと。」
徳川家は先日朝廷への返礼で銭を使っている。五千貫もの銭はとてもではないが出せない。兵も今は無理だ。だが隋空は足利義秋からの上洛要請が直ぐに実現されないことを知っており余裕の表情を見せて答えた。
「美濃との一件は早々に片付くのか?」
家康の問いに隋空は首を振った。史実では織田家が美濃を手に入れるのはもう少し先…それまでは松平の兵を動かさぬよう立ち回ることで、兵力の温存、国内の整備、遠江への対応を進めねばならない。隋空の説明に家康も頷く。この先再び織田家から要請を受けるかもしれぬが、その時は別の理由で返事を先延ばしすればいい。何かと理由をつけて美濃が片付くまで兵は動かさないような方針を隋空は家康に具申した。家康は納得したように頷いた。
「良し!わかった。皆もそれで良いか?」
家康は一同を見渡した。反対案はなかった。こうして織田家への返答内容が決まり、家康は直ぐに書を認め石川家成に渡した。
「これを使者に渡して返答せよ。不安なら隋空を連れて行っても良い。」
隋空は文句を言おうとした。しかし途中で思いとどまる。使者が丹羽長秀だったことを思い出し、会って直接話をしておこうと考えたのだった。
別宅にて返事を待っていた丹羽長秀の元に石川家成と隋空がやって来た。半日ほど待たされていたにも関わらず平然とした顔で長秀は二人に挨拶した。
「御久しゅう御座りまする、丹羽殿。」
隋空も笑顔で長秀に挨拶する。
「隋空殿が来られたということは少々難儀な返答と心得るが…ほれ、石川殿も不安そうな顔をされておる。」
石川家成は咄嗟に自分の頬を叩いた。隋空はその様子を見て笑う。
「石川殿は表情に出てしまうようですな。仰る通りこの出兵には多少の難ありと見て罷り越して御座ります…。」
そう言うと隋空は長秀の前にふわりと座った。
「兵は揃う。が、京まで随伴する兵糧は用意できぬ。…織田家の方で我ら五千の兵の兵糧を支度して貰えぬか。」
図々しい返答である。長秀は大げさに首を振った。
「我らも美濃斎藤家との戦で余剰の米などない。」
「美濃を抑えねば京へは行けず、戦は行わねばならぬ。よって徳川家に工面する米はない…と?」
隋空の回りくどい言い方に長秀は警戒した。
「何が言いたい?」
「いえ、美濃での戦が無くなれば…我らに回す米があるのかと。」
長秀は隋空の意図を読んだ。恐らく隋空は自らの伝手を使って斎藤家との停戦を画策するつもりなのだろう。そう考え隋空に言い返した。
「我らは美濃を欲しておるのだ。朝廷を動かして停戦などもってのほかだ!」
「左様か。ならば斎藤家との争いに決着がついたら…お知らせくだされ。その時こそは兵を整え、兵糧も金子も用意できましょうぞ。」
「ならば、早く決着をつけられるよう援軍を出してくれぬか?」
隋空はにやりと笑った。長秀…というより織田家の目論見は徳川の兵を美濃平定に使うこと。足利義秋上洛を名分に徳川の兵を動かそうという魂胆だった。傍で聞いていた石川家成は内心驚いていた。先ほどの軍議で言っていた通りだったことに。これが本当に上洛の為の派兵であれば隋空は色よい返事をして出兵の準備を整えるように進めたのであろう。だが長秀から出た言葉は「美濃平定を手伝え」であった。
「先ほども申した通り兵は揃えられるが兵糧がない。…大事な三河の兵を飢えさせるような戦はできぬ。…それに、今川家が「上洛」を大義名分に三河に攻めて来るやも知れぬ。」
長秀は唸った。確実な事は判らないが足利義秋は恐らく今川家にも書状を送っているはず。となれば、徳川家は今川家の西進を警戒する必要がある。
「この書状を上総介殿にお渡しくだされ。拙僧が今言ったことが書かれておる。これを見れば上総介殿も我らが兵を出せぬ理由にも納得されよう。」
長秀としては引き下がるしかなかった。今川家の存在を失念していたこちら側の落ち度だからだ。だが今川家を無視するわけにはいかず、ここは隋空の主張を認め書状を持ち帰ることとなった。
家成と隋空は丹羽長秀を見送り、結果を家康に報告する。家康は満足そうに頷いて遠江について酒井忠次に聞いた。
「で、遠江には何時兵を出す?」
酒井忠次は唐突の質問に渋い表情をしてちらりと隋空を見た。遠江の国衆の調略が思う様に進んでいないことを隋空に相談したいと考えていた忠次は、主君に先手を取られたことを表情で示してしまい、その顔で家康は状況を察して不機嫌そうな咳払いをした。この後、酒井忠次は家康から説教と嫌味と怒号を散々と受ける羽目となり、そのとばっちりを石川家成、榊原康政、天野康景、隋空までも受けることとなる。
永禄8年6月2日、駿河国今川館。
館の主、氏真は関口惣五郎氏幸、善次郎道秀の報告を密かに聞いていた。関口兄弟は奉行衆から外され領地の持舟城で過ごしていたが、主君の近臣として復帰するべく何かと登城しては面会を続けていた。氏真も二人の事は満更でもないらしく、必ず二人との面会を許し話を聞いていた。今宵も密かに二人は氏真の寝所を訪れ自分たちが得た情報を主君に報告していた。今宵の話は「武田家の動向」であった。
永禄8年1月に武田信玄は嫡子義信の近臣を処断し、義信の家臣団を解体した。まだ明言はされていないが、実質の廃嫡である。その理由が「義信が家臣と共謀して信玄の暗殺を企てた」であったらしい。その情報を手に入れた関口兄弟は急ぎその事実を確認して主君に報告した。氏真は二人の報告を聞いて満足そうな表情で二人を褒めた。
「良くぞ左様な知らせを手に入れてくれた!お前たちの働きは儂の目を見張るばかりじゃ。これからも引き続き武田の動向を調べ、儂に知らせよ。」
喜び平伏する二人を氏真は下がらせた。何かしらの役を与えられると思っていた氏幸は残念そうな顔を見せたが、おとなしく寝所を出て行った。関口兄弟の気配が消えるとすぅと障子が開き瀬名源五郎氏詮が入って来た。氏真は氏詮を手招きして座らせる。
「…今の話、聞いておったか?」
「はい、しかと。やはりあの者たちは武田家の者と通じておるようですな。」
「ではあ奴らが武田家の誰と繋がっておるか調べよ。」
「…はは。恐らく武田家は我らと手を切り、織田若しくは上杉と盟を結ぶでしょう。…狙いは駿河となりましょう。その時、必ずあの二人は武田の先導役となりまする。」
「我らはそれまでに兵を備えて置き、武田の動きに合わせて迎え撃つというわけか。」
「は…。それまではあの二人は泳がせるのが良いかと。」
「うむ。それまでは儂も与次を重用して公家遊びに興じておけば良いのだな。」
この頃、大原与次は駿河の名門、三浦家の名を継承し「三浦右衛門佐真明」と名乗っていた。氏真の側近として奉行衆の頭を担っており、駿河国内の行政をまとめている。が、奉行衆や譜代衆からの評判は悪く、「ずる賢き男也」と嫌われていた。氏真は武田家の目を欺くためにそんな男を重用し、日夜公家衆を呼んでは酒盛りを繰り返していた。
「全ては武田家を一手で打ち滅ぼす為に御座います。今暫くは御辛抱を。」
氏詮に言われて氏真は頷いた。
「大丈夫だ。武田を滅ぼせば儂は後方の憂いもなく西を目指すことができるのだ。」
この頃には氏真の正室の働きによって北條との密約が結ばれており、武田をおとなしくすれば氏真は全軍を西に向けることができるようになっていた。氏詮はもう一度「何卒ご辛抱を」と言って頭を下げた。
瀬名氏詮の目は異様な輝きを放っていた。全てはこの氏詮によって考えられ、事が進んでいたのだ。だがこの男が考える筋書きの最後は氏真には告げられてはいない。真に武田家と通じているのはこの氏詮であり、武田が攻め込んだ時には、瀬名家を新しき今川家の当主とすべく密約を交わした者らと共に、武田家の庇護下に入り、駿河を今川氏真から奪うつもりであった。既に今川家は自国だけで駿河を治めるのも難しく、考えた末に氏詮が選んだ道が「武田家に従属する」方法であった。その為に関口兄弟を誑かし、三浦真明を増長させ、今川氏真を騙して淡々と事を進めていた。足利義秋から上洛を促す書状は届いていたものの氏詮はそれを握りつぶした。都の事に関わっている余裕は今の今川家にはなかった。
結局、この年は織田信長の上洛は実現しなかった。冬になっても徳川家は武田と今川の動向に備えて動くことはできず、美濃の斎藤家との休戦も纏まらなかったため、信長は斎藤家の攻略を優先することに決めた。徳川家は無駄な出兵を回避することに成功した。これにより本格的に遠江攻略に乗り出す。
丹羽五郎左長秀
織田家家臣。早くから信長に従い戦働きも奉行役もそつなくこなし、信長からの信頼も厚い。
三浦右衛門佐真明
今川家家臣。小原鎮実の子で義鎮と名乗っていたが、駿河三浦氏の養子となって右衛門佐真明と名乗るようになる。今川氏真に気に入られていることをいいことに増長し家中からは反発を受けている。




