23.決断
夜。
瀬名氏詮は寿桂尼の寝所へと入っていく。部屋では寿桂尼が座って氏詮の来訪を待っており、氏詮が座るとすぐに話を始めた。
「迂闊であった…。まさかあの男が強硬な手段を取るとは思わなんだ。抗議をしたが「佐名殿が自らお望みになられました」の一点張りで相手にしてもらえなんだ。…口惜しき限りじゃ。」
寿桂尼は唇を噛み締めて悔しさを表すが氏詮に心を落ち着けるよう諭された。
「御婆様、左様にお怒りになられては御身体に障ります。…心を静め次になすべきことを考えましょうぞ。」
寿桂尼は氏詮の言葉を聞いて少しずつ落ち着きを取り戻していったが次の手を考えるにはもう少し時間がかかりそうだった。
「幸いでは御座いますが、松平家の面々は佐名様や鶴姫殿を蔑ろにするような輩では御座いませぬ。それよりも、関口殿をどうするかお考え下され。」
氏詮に言われて寿桂尼は駒の一つのことを思い出した。
「そうじゃ…あの者はもはや使い物にならぬ。…妾に結びつくものを処分させ自害するよう勧めるのじゃ。」
「……承知いたしました。武田との交渉の続きはいかがいたしましょうか。」
「…岡部!岡部次郎右衛門はどうじゃ?」
「…良き案かと存じます。」
「よし!では直ぐに文を書く。お主が行って説き伏せてくるのじゃ!」
そう言うと寿桂尼は洋々として立ち上がり寝所をいそいそと出て行った。氏詮は頭を下げてそれを見送りつつ心の中でため息をついた。
御婆様も老いられた。岡部殿は兄弟揃って忠義の厚い男…そう易々と今川家を見限るような行いをする男ではない。…難儀なものだ。
氏詮は音をたてぬように寝所から出ると、夜陰に紛れて寿桂尼の屋敷を後にした。
鶴姫らの屋敷に岡崎城からの使者がやって来た。松平元康が訪れるという先触れであり、鶴も佐名も大喜びで迎えの支度を済ませる。だがやって来たのはむさ苦しい恰好した坊主であった。若い武士と町娘らしき女子を引き連れており、鶴らが待つ部屋に入って恭しく拝礼する。佐名と鶴は一体どういうことなのか理解できず絶句している。亀姫を抱いた静は驚きつつもじっくりと男の様子を伺った。
袈裟を着ながら頭は丸めておらず髭を蓄えている。坊主ではないなと思いその顔をようく眺めた。坊主は周囲を見回し後ろに控える若い男の合図を確認したのち、ゆっくりと頭を持ち上げて佐名らに自分の顔を見せた。
「……お久しぶりに御座います、佐名様、鶴姉様。」
静には男の声に聞き覚えがあった。忘れるはずもなく男の顔をじっと見つめる。男は静の視線に気づきさり気なく笑みを見せた。
その瞬間に静は思い出した。忘れることのないお顔…。時が流れ大人になり勇ましくもなってはいるが、いや今はわざとらしく無精にされておられるが、その眼だけは変わっておられぬ。
「……夜紅…様?」
自然とその言葉が口に出た。驚いて佐名と鶴が目の前の坊主をかぶりつくように見た。
「お久しぶりに御座いまする、佐名様、鶴姉様。…ここで大声はおよし下さいませ。」
「駿河で賊に襲われ命を落とした…と聞いておりましたが!?何故此処に?」
「鶴姉様、もう少しお声を小さく…。我は“隋空”と名乗っておりまする。…事情もこれから説明致しまする。」
隋空はそう言って三人に一歩近寄りこれまでの経緯を小声で説明した。真剣な眼差しで聞き入る佐名と鶴に対し、静は半ば上の空で聞いていた。
隋空の“瀬名氏広”という存在を消してまで行った行為に二人は絶句する。そしてなおも松平家の為に働いている姿に涙を流し始めた。それを見た隋空は視線を逸らした。自分自身は自己の安全のために史実通りに事を進めようとしていることに多少の後ろめたさを感じていたからだ。隋空は今は嘘の言葉を紡ぎだせなくなった。
「正直に申し上げます。松平家は家臣の家族を取り戻すつもりで人質交換を致しました。ですが、今川家からは佐名様も含め御一行様を渡されました。…これは即ち今川家から捨て…追放を受けたことを意味し、松平家も扱いに困っておりまする。」
言葉を選びつつも偽りなく隋空は状況を説明した。静はともかく二人の扱いは厄介である。今川方の間者として処分をすれば今川に文句を言われるであろうし、岡崎城に上げれば間者から接触対象として扱われる故、こうして寺に留めているのだ。己の扱いについて聞かされた二人は消沈し視線を床に落としてしまっていた。
「今から我の言うことを必ずお守りください。さすれば我がお二人をお守り致します。」
隋空は約束事を二人に説明した。
・岡崎城への登城を致さぬこと。
・隋空の許可なく人と会わぬこと。
・ご入用については、此処に侍る服部衆と芳に任せ外出しないこと。
・松平家からの監視を受け入れること。
「理由は明かせませぬが、いずれ今川の勢力が落ちる時が来ます。左様にならば安心して蔵人佐と同じ住いで暮らせるようになるでしょう。それまでは先ほどのことを固くお守りください。」
二人は顔を見合わせた後に承知した。その間、静はずっと隋空の…いや夜紅の様子を伺っていた。静は大人になった夜紅の言葉で気づいていた。
それは松平家と蔵人佐とで意見が異なっているということである。そして恐らく松平家側の主張があるべき姿で蔵人佐を納得あるいは説得させるために夜紅が苦心しているのであろうと推察した。恐るべき観察眼というべきか隋空は気づいていないが静は隋空の心情をある程度察していた。
「夜…隋空様、おかか様鶴姫様については分かりました。…竹千代様と亀姫様は如何なさるおつもりでしょうか。」
静の言葉に二人がはっとする。隋空は表情を変えずに返答した。
「御子様は岡崎城内にて然るべき御仁をつけてお育て致しまする。悲しき事とは存じますがお二人から離させて頂きまする。但し!……静、お主は同行してもらう。そして定期的にお二人に御子様のご様子を申し上げる役目と致す。」
三人は黙り込んだ。佐名と鶴は子を取られることに対するショックであり、静は密かに与えられた役目を理解することに。
「佐名様、鶴姉様、今はこれでどうかご容赦を。静をなんとかねじりこむのが精いっぱいに御座りまして…。」
隋空は深々と頭を下げた。二人の涙は隋空を悼む涙から幼い我が子を奪われる悲しみの涙へと変わっていった。
こうして、元康の正室である鶴の住まいは岡崎城から外れた“築山”に設けられ、佐名と幾人かの女中と共に暮らし、外出は禁じられ御用聞きと警護は服部一族と芳によって行われることになった。また竹千代と亀姫は静を伴って岡崎城に入り西ノ館にて育てられることとなった。平岩親吉を傅役に据え家内で慎重に吟味して選ばれた乳母をつけた。
隋空らが部屋を出ていくと静は小声で二人に声をかけた。
「夜…隋空様は私に対して暗に2つの役目を仰せになっております。1つは純粋に御子様のご様子をおかか様鶴様にお伝えすること。もう1つは、もしもの場合に御子様を松平家からお守りすること…です。」
二人は驚きの声を上げようとして慌てて口をつぐんだ。
「隋空様は仰っておりました。「いずれ今川の勢力が落ちる時が来ます。左様にならば安心して蔵人佐と同じ住いで暮らせるようになるでしょう。」…と。これは言い換えれば「今川家の影響が強い間は手を出すことはない」と取れます。更に“松平家”と“服部衆”を区別して言われました。これは服部衆を信じ松平家を信ずるなと取れます。」
静の言葉に佐名は震えだした。鶴が慌てて佐名を抱きしめる。
「そ、そのような…。」
言いかけて佐名は何も言葉が出なくなった。
「いずれにしても、今はおとなしく隋空様の言う通りにするのが賢明で御座いましょう。それにあれが真の夜紅様であらば…きっと何とかしてくれると思うております。」
静は自然と二人に微笑んだ。その笑みは二人の硬直した全身を解していくのに十分な笑みだったようで二人はへなへなとへたり込んでしまった。
「……静殿、今は其方の言を信じます。…いえ、信じるしかないのでしょう。ですが、何も知らずにここで過ごし続けるのはできませぬ。隋空殿…いえ夜次郎殿の本意を必ず、聞き出して下され。」
静は恭しく返事した。だが今の隋空と名乗っている夜次郎が自分に本意を打ち明けてくれるかわからないのであった。
屋敷を出た隋空ら三人は岡崎城へと戻った。今度は元康のほうを説得するためである。
「隋空様、宜しいのですか、あそこまで喋って?」
総三郎は周りには聞こえぬ声で隋空に聞く。
「致し方ない。ああ申しておけばお二人もおとなしく拙僧に従って頂けるであろう。大事なのはお二人と松平家の間に妙な軋轢を生まぬことだ。」
ため息交じりで返事をすると総三郎は引き下がった。だが、隋空は気づいていなかった。静に隋空が考えている未来の可能性について看破されてしまっていたことに。
隋空来訪の知らせを受けた元康は急ぎ足で友の待つ板の間へ向かった。後ろを鳥居彦右衛門と榊原小平太が追いかける。彦右衛門から見ても小平太から見ても元康の歩く姿は嬉しそうなのが分かった。板の間では既に隋空が平伏して待っていた。
「久しぶりだな、夜次…隋空殿。」
名前を途中で言い換えて挨拶をすると元康は上座に腰かけた。隋空は頭を上げると薄く笑った。元康もこれに応えるように笑う。一瞬の刻であったが二人は互いを懐かしむ視線を向けた。
「姉上と会うて来た。」
隋空の言葉に元康の気色が変わる。
「生きていることを明かしたのか?」
「此処でおとなしく従って頂くために。」
「おとなしく従って?……どういう意味じゃ?」
「蔵人佐…佐名様と姉上は今川家が勝手に我らに引き渡してきたことをご存じか?」
元康が首を傾げたので隋空は説明した。元康は人質交換として駿府に捕われの家族返還を求めた。使者として赴いた石川数正は竹千代と松平家臣の家族返還を求めた。だが要求していない佐名と鶴、亀姫までを押し付けるように渡された。これには何か目的があるに違いないと思うのが普通。かと言って殺してしまえば今川家に戦の口実を作ってしまう。離縁して送り返すのが常道であることを告げる。元康が「左様な事などできぬ!」と激怒すると、ならば今川が二人を引き渡した意図を把握し、且つ二人を今川家からの影響が及ばないことを確認するまで遠ざけるべしと説いた。元康はうなり声を上げた。友の言葉には筋が通っているがそれで二人を遠ざけることが良いことなのか判断できずに考え込んだ。
「ならばこうしよう。今の話を飲むならば…我はお主の家臣となり、生涯お主をお支えしよう。」
元康は目を丸くした。隋空…いや夜次郎を家臣として迎える…それは元康が前々から望んでいたこと。それが夜次郎のほうから出してきたのだ。彦右衛門と小平太も驚いた。隋空の後ろで控える総三郎は固唾を飲んで見守ってる。「…其は真か?」と元康は聞き返した。「二言はない」と隋空は返す。部屋中が張り詰めた空気に変わる。暫く間が空いて元康は扇子で膝を叩いた。
「ならばお主の言に従おう。おかか様と鶴殿には会わぬ。」
彦右衛門と小平太は心の中で胸をなでおろした。彦右衛門は殿が昔からの友人を選択したことに安堵し、小平太は家臣が元康派と今川派に分かれることにならずに済んだ事に安堵した。隋空も元康の決断に笑みをこぼした。
「蔵人佐、場所を借りる。」
そう言うと隋空は懐から小刀を取り出した。一瞬小平太が腰を浮かしたが、小刀を握り締めた隋空の手は自らの頭の上に向かった。左右に手が動きはらはらと隋空の髪がはだけていく。額から後頭部に向けて刃を滑らせ隋空の膝の上にばさりと髪が落ちていく。呆然と見守る元康。やがて隋空の頭は本当の僧侶のように丸くなった。
「髭は後で剃るとして……蔵人佐、これはお主をお支えすると誓った証だ。」
多少の剃り残しはあるものの頭を丸めた隋空は小刀を置き衣服を正した。元康は友の覚悟を素直に受け取った。
「隋空、儂に仕えることを許す。これからは、儂の為に…松平家発展の為に…海道一の弓取りとなる為に、尽くすが良い。」
元康の言葉に隋空は平伏した。
「はは!身命を賭しまして!」
隋空は総持尼寺の近くに屋敷を与えられ、服部一族が与力として仕えることになった。いずれ直臣となる予定として禄もその分を加味して出されることとなった。
岡部次郎右衛門正綱
今川家家臣。義元の重臣、岡部久綱の子。史実では岡部元信の兄とされている。が生年が合わず。
佐名
今川家家臣、関口親永の継室で鶴の生母。
鶴
松平元康の正室。竹千代、亀の生母だが、三河に移り住んでからは子と離れて暮らす。松平家の面々からは築山殿と呼ばれるようになる。
静
佐名の女中。嘗て隋空の生母である西風の女中を務めていた。
隋空
瀬名夜次郎氏広が今川を欺くためになりすましていた流浪の僧侶。後に松平元康の招聘に応じて仕える際に本当に出家して僧籍となる。