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22.息子奪還



「申し上げます!三河上ノ郷城が松平家に攻められ陥落いたしました!」


 雅な雰囲気を漂わせつつ歌会に興じている今川氏真の下に慌ただしく報告に来た大原義鍾。今川氏真は不愉快な報告をもたらし雰囲気をぶち壊した大原義鍾の首根っこを掴み力任せに外に放り出した。慌てて関口兄弟が氏真を抑えつけた。氏真は「放せ!」と喚きながら体を揺さぶり二人は必死になってしがみつく。そんな光景を同席していた京から下向してきた公家たちが恐ろし気に見守っていた。


「…御屋形様、左様にお怒りを表に現わされてはお招きした方々を震え上がらせてしまいます。此処は一旦歌合せを御開きにされて方々にお引き取り頂いては如何かと…。」


 傍に控えていた瀬名氏詮が冷静に静かな口調で主を戒める。周囲の公家共が氏詮の言葉に乗る形で退出を希望する声を上げると氏真は二人を振りほどいて氏詮を睨みつけた。


「儂を苛立たせる不快な報告ばかりもたらしおって!」


「しかし、報告しないわけにはいきませぬ。」


「仕方!というものがあろう!」


 確かに義鍾は場をわきまえずに報告に来た。あれでは今川家に懇意にする公家共を不安にさせるであろう。だが、義鍾にとってはそれよりも…という気持ちが勝ってしまった。これが先代に仕えていた宿老であれば…。そう考えて氏詮は首を振った。年寄りたちはすでに氏真から距離を取っている。


 やはりこのお方では今川家を支えることはできぬ…。婆様の申される通り、次代に向けて動く必要があるか…。


 瀬名氏詮は喚き散らす氏真の言葉を聞き流しつつ考えに耽った。

 今川家の血を引く者は氏真以外では瀬名氏詮と花倉の乱で義元に負けて伊豆へ逃亡した堀越家のみ。寿桂尼は今川家の次代をこの氏詮に賭けようとしていた。氏詮は寿桂尼の差し伸べた手を握り表立っては氏真の忠実な家臣を演じつつも裏では関口親永と共謀して武田家と親密な関係を築こうとしていた。

 現当主を蹴落とし、自分が今川家の新しい当主となる。大それたことに不安と畏れを抱いているが、いまさら後戻りはできなかった。


 氏詮は(うつつ)に意識を移したが、未だ氏真からの怒号が止んでいなかったことに気が付き、再び意識を自らの思考の中に溶け込ませた。




 永禄5年3月5日。


 松平家家臣、石川与七郎数正は元康からの書状を携えて駿府に入った。この一行には服部保長、正成親子も同道している。目的は史実通り“人質交換”である。上ノ郷城で捕虜とした鵜殿家の面々二十二名と元康の家族及び家臣の家族を交換し、以後松平家は今川家に従わぬという手切れである。これは東三河における重要拠点を手にしたことにより今川家と対等に渡り合えると判断したからであるが、元康の希望(わがまま)により駿府に残る人質返還を交渉しに数正が遣わされたと言っても過言ではない。


 数正は駿府館にて瀬名氏詮と対面した。氏真への謁見は叶わなかったが氏詮と交渉して人質交換の約束は取り付けた。交換の時と場所を確認して数正は館を後にした。


 永禄5年3月24日。


 今川家家臣、鵜殿氏長、氏次、その他家臣と、松平竹千代以下一同の人質交換が遠江と駿河の国境にある吉田湊で行われた。

 交換に訪れた松平側の使者である石川数正、家成、榊原忠政は渡された人質をみて唖然とした。受け渡された面々の中に、関口親永の室とその女中、元康の正室である鶴姫が入っていたのだ。今川方の使者に尋ねても「瀬名様の言いつけ通り」と返事を受け、一同は仕方なく女子供を受け取り、三河へと引き上げた。


 岡崎に到着した一行は佐名と鶴を酒井忠次の屋敷に預け竹千代と亀姫を連れて元康の待つ岡崎城に登城した。元康は自分の正室を登城させなかったことに対して不満を漏らした。


「殿、御正室と言えど今川家の者に御座りまする。易々と殿の御前に並べられるものでは御座りませぬ。今川方の間者…やも知れぬのです。」


 石川家成が家臣を代表して答える。元康は怒りを噛み殺して家成に問いただした。


「鶴殿や佐名様はそのような方ではない。それは与七郎も知っておろう。」


 これに対し数正は毅然とした態度で返答した。


「殿や某がわかっているだけでは無理というもの。…家臣一同が納得してこそ、安心して御正室様をお迎えできまする。」


「ならばなんとする?」


「まずは今川方の間者かどうか調べまする。服部殿が今駿河におりますれば、その報告を待ってお決め頂きます。」


 元康は言いたいことをぐっとこらえて頷いた。が、自分の子との対面は簡潔に済ませて奥へと引っ込んでしまった。別に子に愛情がなかったわけではない。それ以上に鶴姫に会わせてくれなかったことが尾を引いており子に語り掛ける気にならなかった。



 一方家臣たちのほうは、返還された佐名と鶴の扱いに困っていた。今川方であろうとも殿の御正室とそのご母堂である。更に言えば、自分たちが松平家の家臣として取り込みたい夜次郎の腹違いの妹でもあり面識もあるのだ。かと言って岡崎城内を自由に出入りできるようにはできない。元康に内々で集まり話し合った結果、岡崎の外れにある総持尼寺(そうじにじ)に二人とその女中四名を預けた。そして京にいる夜次郎に使者を出したのであった。




 その頃、駿河では人質交換で三河から戻ってきた鵜殿氏長、氏次兄弟が氏真に謁見していた。


「よくぞ生きて戻って来た。」


 笑顔で労う氏真に鵜殿兄弟は平伏した。


「城を守れず誠に申し訳ござりませぬ。」


「奪われた城は取り返す。既に大原与次に命じてこれ以上東三河を乱されぬよう手配も進めておる。」


「戦の時は是非とも我らもご同行願いたく…。」


「相分かった。それまではこの松井八郎が世話をする。まずは養生するのだ。」


 中座に座る若い男が頭を下げる。鵜殿兄弟は事情を察した。自分達は所領を失い、寄子に格下げされたのだと。それでも殺されなかっただけでもありがたいと雪辱を誓うこととなった。


 鵜殿兄弟を下がらせた後、氏真は関口兄弟を呼び出した。


「調べはついたか?」


 二人が下座するよりも先に氏真は質問した。善次郎弟が慌てて着座して両手を付いた。


「ははっ親永は頻繁に武田無人斎殿と会っておりまする。また寿桂尼様の屋敷にも足を運んでおり…。」


「祖は既知のこと!何をしているのか聞いておるのだ!」


 氏真の喝を受け善次郎は縮み上がった。次に兄の惣五郎が落ち着いて平伏した。


「恐れながら、親永がやり取りの内容までは分かりませんでした。しかしながら、寿桂尼様の屋敷に彼奴の継室とその子らがおりました故、理由をつけて捕らえて松平家に引き渡してやりました。」


 惣五郎は気味の悪い笑みを浮かべた。氏真は満足そうに頷く。


「もはや松平家の人質など不要…ならば有効に活用せねばというもの。…よくやった惣五郎。お前に関口家の相続を認める。…適当な理由をつけて親永を殺すがよい。」


 惣五郎は満足そうな笑みで一礼した。それを見た善次郎も慌てて頭を下げる。その様子を眺めつつ氏真は瀬名氏詮に話しかけた。


「関口の娘を渡された松平元康はどうするかのぅ源五郎?」


 問いかけられた氏詮は恭しく一礼する。表情を氏真には見せないように。


「…佐名殿鶴殿を殺さば、いい口実ができます。与次殿配下の伊賀者に動向を調べさせると良いでしょう。」


「八郎、与次に申し伝えよ。」


 氏真の言葉に松井宗恒が返事をする。


「で、奴はどうすると思う?」


「…あの御仁ならば家臣の反対を押し切って城内へ引き入れることでしょう。」


「儂も同意見だ。」


 氏真は笑った。ひどくどす黒い笑い。氏詮は共感することができず、ただ頭を下げるのみであった。





 後日、元康は改めて竹千代と亀姫と対面した。亀姫は女中の(しず)に抱かれての面会である。


「久しいの、静殿。」


 元康の開口は女中へであった。静は亀姫を抱えたまま頭を下げる。


「…お久しぶりに御座います。」


「竹千代も亀も息災のようだな。…我を恐れておるようだが。」


「お二人とも父君の御顔を覚える前に離れ離れとなりましたので。」


「これから覚えればよい。何時でも二人を此処へ連れてくるが良い。」


「うぉっほん!!」


 中座に座る酒井忠次がわざとらしく大きく咳ばらいをした。その声に竹千代がびくりと肩を震わせる。元康はキッと忠次を睨みつけるが忠次は目で何かを語るように元康を見返した。静は忠次の咳払いの意味を理解した。


 自分は今川家の人間。鶴姫様も佐名様も同じく。故にこの男は私達がむやみに登城することを望んでいない。


 静は亀姫の手を握り締めた。何があってもこの方をお守りせねばと強く思っていた。





 京の都。


 隋空の下を服部総三郎が書状を携えて訪れるとすでに先客がいた。長坂彦五郎であった。彦五郎も岡崎からの書状を隋空に届けたところで、それを読んでいる最中であった。


「総三郎か。少し待て。」


「父からの書状を届けに参りました。」


 「父」という言葉に反応して隋空は総三郎のほうを見て手を前に出した。総三郎は素早く書状をその手に乗せる。読んでいた書状を床に置き半三からの書状を開いた。そしてそれを彦五郎にも見せた。


「……“尼より姫を奪いて湊に運びたる。関口の若造の所業なり。”……?」


 彦五郎は文面を声に出して読んで首を傾げた。


「尼とは寿桂尼様のこと。姫とは佐名様、鶴様のことだ。奴らは寿桂尼様の館から姫様たちを連れ出して松平家に引き渡したようだ。」


「…何のために?」


「蔵人佐と家臣との不和を誘うためだろう。」


 彦五郎は納得した。殿の御気性からして城内に置こうとするが、家臣らは今川家の間者かも知れぬ者を城内に置くわけにはいかぬと反発する。


「彦五郎殿、先に戻って酒井殿石川殿に申し伝えてくれ。姫様たちを決して城内に入れてはならぬと。」


「それは竹千代様、亀姫様も…で御座るか?」


「うむ。…それと一緒に来た女中の中に「静」と申す女子はおったか?」


「はて?…女中は四名おったが名までは…。」


「まあいい。とにかく言伝については頼んだ。蔵人佐への説得は拙僧が行う。」


「承知した。」



 隋空は頭を掻いた。袈裟を着て僧侶の恰好をしてはいるが剃髪はしておらず、無造作に結った髷が左右に揺れる。無精に生やした髭をなぞってしばらく考え込んだ後に小さく頷いた。


「身なりを整えぬほうがよいか…。胡散臭い雰囲気のほうが夜次郎っぽくないからな。」


 二人は隋空の言った意味が分からなかったが、彼が支度を始めたのでそのことには触れずに身支度を進めた。こうして隋空は京の宿を引き払い三河へと移動することになった。勿論その旅費は中島四郎次郎にせがんで供出させたことは言うまでもない。




松井八郎宗恒

 今川家家臣。義元の重臣松井宗信の子。桶狭間の戦いで討死した父の後を継ぐ。氏真の家老衆のひとり。


総持尼寺

 岡崎にある曹洞宗の寺院。松平家に引き取られた鶴姫はこの寺に預けられた。築山という地域に寺があったことから、鶴姫のことを“築山殿”と呼ばれるようになる。


鵜殿氏長

 今川家家臣。今川家の親族に連なる家柄で東三河の重要拠点を任されていた。父の長照は松平家との戦で討死している。


鵜殿氏次

 今川家家臣。氏長の弟。



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