19.茶室の会談
二話連続投稿(一話目)です。
永禄4年3月16日。
夜次郎にとって長い長い一日が終わり、石川数正が用意してくれた寝床でようやく布団に入った。夜の帳が降りてからもずっと元康と話をし続けたせいで喉もガラガラ…。ようやく俺の立場を理解してくれて直ぐに家臣にするという思いを引っ込めてくれた。
家康の家臣としてこの先働くのは悪くない。だが、俺は今川家の中も名家の名を継ぐ立場でもある。養子とは言え下手な行動は養父の氏俊や輝、須和にも及んでしまう。自分の妻と子供のことは直ぐに理解できたのに何故俺の妻と子供のことにまで考えが及ばないのか…だめだ、考えていたらまた腹が立ってきた。
夜次郎は考えるのを止めて寝ることに集中した。幸い直ぐに睡魔が彼を覆いつくし深い眠りへと入った。
夜次郎が起きたのは陽も高く上がってからであった。既に半三と半蔵が廊下で待っており、夜次郎が起きたことを確認して部屋に入った。
「昨夜は遅くまで起きておられたと聞きました。」
「…昨日の話はあまりしないでくれ、また腹が立ってくる。」
「ですが、殿にはご理解頂いたと聞き及んでおります。…で、これからどうされるかをお伺いしたく。」
「暫くは津島に潜伏する。何人か人を寄こしてくれないか?」
「それでは某が。」
半三が自薦するが夜次郎は首を振った。
「半三は岡崎に残り松平家との連絡役を頼む。」
夜次郎の言葉に半三は残念そうに俯いた。
「では信頼できる者を数名夜次郎様にお預け致しまする。…息子は如何致しましょうや?」
「半蔵には京に向かって貰いたい。」
「き、京…ですか?」
半蔵は顔を引き攣らせた。この時期、三好家と足利将軍家との対立が続いており、危険な地域にもなっていた。半蔵も伊賀にいる親族衆を通じてある程度話は聞いており「近寄り難し」と考えていた。
「そうだ。近々松平家の誰かが京で活動するはずだ。その支援を行って貰いたい。」
半蔵は父を仰ぎ見て渋々頷いた。
「我はお前達の活動資金を調達する。」
半三が夜次郎の言葉に反応した。
「あの四郎次郎と申す者に銭を出させるのですか?…あの者は信用できるでござろうか?」
半三の懸念もわかる。まだ若造だし武家でもない。だが夜次郎は四郎次郎が徳川家を支える男になることは知っていた。
「信用するつもりだ。」
「何故故に?」
「……勘だ。」
夜次郎は四郎次郎の言葉を敢えてそのまま引用した。半三は納得しきれずぶつぶつ文句を言っていたが夜次郎は笑って受け流していた。
永禄4年4月10日。
岡崎では深溝城主の松平好景からの救援要請を受け戦の準備を進めていた。元康と同じく今川家から独立の動きを見せていた吉良義昭が松平家と戦う素振りを見せたのである。
この戦は善明堤の戦いと言われ、9月に行われる藤波畷の戦いまで吉良家との抗争が続く。この時点では松平家の面々は其処まで長引く戦と考えておらず吉良家を蹴散らすつもりであった。
元康出陣の知らせは4月12日になって津島にいる夜次郎にももたらされた。半三からの文を読み終えると伝令役の吾平に銭を渡して下がらせ、脳内データベースにアクセスを開始した。
吉良家との戦い…この戦が今川家を刺激し駿府に残る人質が殺される。鶴と信康は難を逃れているのだが、はたしてどうやって生き残ったのか。夜次郎の記憶の中には存在しない。かといって津島から吉良家との戦い、引いては駿府の人質問題に手出しができるような策などなく「吉良家の勢い侮るなかれ」とだけ書いて吾平に持たせて岡崎に帰らせた。
永禄4年4月20日。
善明堤の戦いで吉良家に松平好景を殺された松平家は長期戦の構えに切り替え、同時に織田家との同盟交渉に入った。だがこちらも難航した。互いの遺恨が強く松平家側が提示したい銭の借用の話に持って行けない状況が続き、酒井忠次から泣き寝入りの文が夜次郎の下に届けられた。
「俺にどうせーっちゅうに…。」
文を読んで考え込む夜次郎。難航している原因は何なのか。交渉相手は佐久間信盛と聞く。佐久間家と水野家は領地を接しているが、互いの仲はどうであろうか。水野と忠次との相性はどうであろうか。いろいろと考えてみるがいい案は浮かばない。
「沓掛に行ってみるか。」
そう呟くと芳に袈裟を用意するように頼んだ。この時代諸国を移動するのに一番怪しまれない恰好…旅の僧侶である。臨済寺で学んだ経験もある夜次郎はある程度僧としての作法は身に着けており、袈裟を切ればそれなりに旅の僧に見えた。
服部衆の護衛を遠巻きに付けて津島を発った夜次郎は熱田で一泊して翌日に沓掛に到着した。どうにか水野信元に会うことはできないかとうろうろしていると忠次を見つけた。網笠を取って近づき挨拶をすると吃驚した表情を見せたが忠次は夜次郎とわかってくれた。
「拙者の文を読んで来て頂いた…と思ってよろしいのですか?」
「ええ、ですが私のことは“隋空”とお呼び下さい。良いですか、以前岡崎で世話頂いた隋空ですよ。」
いつもと違う丁寧な口調で忠次に自分の状況を説明する。髪を残した修行中の僧侶という体で水野信元と会う方法はないか忠次に尋ねる。
「実はこれから向かう途中に御座ります。是非ご一緒頂きたい!」
忠次も夜次郎の同行を了承し、数名の護衛と共に沓掛城に向かった。案内はすんなりと通され、忠次と隋空は小さな茶室に案内された。この時期茶道についてはそれほど浸透していない。にも拘わらずこの城には茶室がある。如何に信元が畿内の情勢に敏感であるかが伺える。
二人が座して待っていると静かに襖が開き男二人が入って来た。
夜次郎は二番目に入ってきた男を見た瞬間に誰なのかを理解した。まさかこんなに早くに会ってしまうとはと喉を鳴らした。汗も噴き出る。手が震えた。夜次郎は逃げ出したくなった。
「お待たせ致した。此度は雰囲気を変えて茶室でお話されては如何とこのような趣向に致した。…織田殿、如何で御座ろう?」
城主の水野信元がもう一人の男に部屋を紹介した。もう一人の男は黙って周りを見つめていたが、
「ふむ…狭苦しいが落ち着きのある趣であるな。京ではこのようなものが流行っておるのか?」
「密なる話をする場にうってつけと流行っておるそうです。」
「では、この場は密なる…というわけか?」
「ははは…そうでございますな。酒井殿、此度は正式な話し合いではなく、密なる話し合い。今までの話し合いではいっこうに進まぬのでこのような場でお互いの思いのたけをぶつけ合うのも如何と思いご用意いたしました。」
いや、織田家の当主を相手にぶつけるなんて無理でしょう…と夜次郎は心の中で突っ込んだ。恐らく既に夜次郎は正常な判断ができないくらい極度の緊張に見舞われておりそれを自覚していた。このため、自制している前世の思考が出つつあった。
「ふん、茶室を自慢したかっただけであろう?」
「邪推ですな織田殿。…ところでその御仁は?」
夜次郎は忠次をちらりと見た。だが忠次は織田の当主が居ることに驚きすぎて呆けていた。もはや現実逃避した状態の忠次には用はないと速攻で気持ちを切り替え夜次郎は二人に爽やかな笑みを見せた。
「初めまして。隋空…と名乗っております。以前松平様にお世話頂いた身で、此度の話し合いについてお役に立てるやもと思い酒井様に無理を言って連れて頂きました。」
夜次郎は僧侶の作法で体を折りたたんで挨拶した。顔を上げると二人からじろじろと見られていた。明らかに値踏みされている。
「水野下野守信元に御座る。」
「織田…上総介信長だ。」
物語序盤でラスボス登場の雰囲気を感じる。そりゃ汗も噴き出る。まさか事前交渉の段階で当主自らやってくると誰が思うだろうか。忠次が呆けてしまうのもわかる。…と夜次郎は自分に言い聞かせていた。
「まさか織田の御当主様がこのような場にお出でになられるとは…なるほど酒井様が心此処に在らずの理由がわかり申しました。…では、私のほうから松平家の要望を申し上げまする。」
「隋空…殿は松平殿の要求をご存じで?」
訝し気に信元が訪ねるが夜次郎は臆することなく笑顔で答える。
「はい。伺っております。」
「よ、よじろ…「隋空です。酒井様、ここは隋空にお任せ下さりますか?」」
夜次郎は忠次が何か言おうとするのを強引に止めた。その行為に鋭い視線を向ける織田方の二人。夜次郎は汗を吹き出しつつ会話を続けようとした。勢いに任せて話を薦めようというのが今の夜次郎にできる最大限の行動だった。
「隋空殿、何やら揉めておられるようですが大丈夫に御座るか?」
「お気になさらずに。早速ですが松平様のご要望は…。」
「隋空とやら…。」
夜次郎は話をしようとしたが信長は低い声を出して腰を折った。
「貴僧から見て松平家は何を成そうとしておるか…わかるか?」
いきなりの直球質問。夜次郎の汗は乾く間もなく流れ出る。下手な言い訳は場を盛り下げる…夜次郎はこの場を取り繕う愚かさを肌で感じた。
「…我が友、蔵人佐は“海道一の弓取り”の名を欲しております。」
夜次郎の言葉使いの変化に二人が目を見張った。夜次郎は言葉を畳みかける。
「つまり今川にとって代わって三国を治めることに御座る。その為には織田殿と過去の遺恨を砂に埋めてでも同盟を結びたいと思うておりまする。」
信長と信元は顔を見合わせた。誰かは分からぬが元康を“友”と呼ぶ間柄の者がやって来た。信長もこのような機会に是非とも話を纏めてしまいたい。そういう思いをちらつかせた。
「中々大きな目標を掲げておられるようで。叔父として頼もしい限りではありますが…。」
「如何にして成し遂げようという気か…あるいは貴僧が何か腹案を持っておるか…。」
やはりそっちが気になるか…。夜次郎は笑顔を保ちつつどこまで喋るかを素早く算段する。
「詳細にはお話しできませぬがある程度の算段はつけております。ですが、そのためには織田殿との同盟が不可欠に御座ります。」
「つまり、背中を預ける相手…か。」
信長はこの同盟の意義を理解している。あとは背中を預けるに足る勢力かどうかを示せばうまくいく。
「残念じゃが今の松平殿では我らの背中を預けるには心もとないと思うが如何か?」
信長の言葉は重く、恐ろしく響く。信元はやや引いた表情を見せている。夜次郎もここが正念場とばかりに股間を引き締めた。
「今は…で御座いますね。憚りながら…それを解消するための算段を私は持っており、側で呆ける忠次殿含め松平家はその算段に基づき活動をしておりまする。」
此処の詳細は夜次郎も知らない。だが半三の知らせでは確実に動いていることは知っていた。
「ですが……先立つものが足りず難儀しておりまする。」
夜次郎の言葉は二人を驚かせた。明らかに銭を要求されたと認識したのだ。信元の表情が変わる。
「隋空殿…それはちと虫の良すぎる話かと?」
声のトーンを落とし目を細めて信元は夜次郎に問い返すが夜次郎は平然と問い返した。
「では信元殿は甥である蔵人佐には掛ける価値はないと申されるか?」
「な、何を言うか!」
「そのような者を織田殿に紹介されたと申すか?」
夜次郎の言葉は信元を怒らせた。
「おのれ言わせておけば!」
信元は立ち上がり刀を抜こうとしたが信長に制止された。
「下野守殿、座られよ。安い挑発だ、怒る価値もない。……さて隋空とやら。松平殿にはどのような価値があるのか示して頂くのが筋かと?」
怖いもの見たさの興味津々の表情。下手な回答では忠次ごと斬られるのは必至。夜次郎は腹を括った。
「蔵人佐一人…となると示すのは難しいかと。ですが、松平家を支える、支族、譜代衆の結束の硬さはなかなかと思います。」
「それだけか?」
「はい。」
夜次郎の即答に信長はあっけにとられた。もっと自家をアピールしてくると思っていたようだが夜次郎の態度はあっさりしていた。
「織田殿、結束の硬さが何を意味するか、よくお考え下さい。味方とすれば頼もしく、敵とすれば非常に厄介…そうは思いませぬか?」
信長は夜次郎の意図を理解した。同時に機嫌も悪くなった。信長は脅されたと捉えたのである。
「ほう、儂は松平なんぞは今川と同じように迎え撃って蹴散らしても良いと思っておるのだがな。」
夜次郎は内心慌てつつも平静を装って言い返す。
「そうなっては我らは元も子も御座いませぬ。故に背中を預けて貰えませぬかとお願いをしております。」
「ついでに銭も出せと?」
「語弊があります。織田殿の意に沿う勢力となるべくその費用をお借りしたいと申しております。」
「ほう…返す気がある?」
信長の表情が緩まった。この乱世では誰からであろうと供出した銭なんぞ返さぬのが当たり前。返すつもりで商人や寺社に金など借りはしない。家臣が主から借りる場合に返す義務を持っている…そんな感じだ。つまり、松平家から見て織田家は主筋と見ていますよと捉えることもできる。
「そこで呆ける酒井殿も含め、これまでの交渉相手は対等な関係を主張し続けて話が進まなかったと聞いている。貴僧は敢えて下手に出るか?」
信長の表情は面白いものを見るような顔に変わる。夜次郎は少し身を乗り出し声を小さくして信長に尋ねた。
「織田殿はこの乱れた世で、何処まで支配する国をお持ちになるおつもりで?」
この同盟が成立して松平家が三国を手に入れたとき、織田家はどうなっているか。夜次郎は前世の知識で知っている。だが信長本人がこの時点でどう考えているかを聞き出そうとした。
「ふふん、三国以上の主にはなるつもりじゃ。」
「では三好家に代わって畿内を支配し“天下人”となられるやも知れませぬな。…そのような方と何時までも対等な関係とはいきますまい。」
「いずれ同盟関係から主従関係になると考えておるのか?だが儂が畿内を目指さず美濃で満足したら如何する?」
「あり得ませぬ。斎藤家を倒せば、浅井、六角とぶつかり、浅井六角の次は三好…織田殿は隣接する勢力と悉くぶつかりそれを食い破って支配する地域を広げられるでしょう。それは織田殿のお力が相手を圧倒するまでぶつかっては食い破ることを続けて行くでしょう。」
「まるで見てきたかのように言うな。…良かろう。委細は五郎左に任せる。盟を組んでやろう。」
即決である。夜次郎が信長が天下人になることを見越して将来的に従属することを示唆したことで納得したようだった。織田家としても敵を美濃に絞り込みたい自家が大きくなるための必須条件だったのだが、どうにかして優位に同盟を組みたかったのだろう。夜次郎はその心情を察して話を持って行った。後はどのように元康を納得させるかになる。
「で、隋空とやら。銭はいくらほしいのだ?」
「…二万貫。」
「直ぐに用意する。」
今度は信元が仰天した。一国の大名にしては大金である。それを信長は二つ返事で了承した。織田家の経済力からすれば問題ない金額なのか見栄を張っているのか…夜次郎には判断の術はなく、またどちらでも良くって銭さえもらえれば問題ない。
兎に角、やるべきことをやった。結果は出した。後は呆けたままを装う忠次に丸投げだ。俺はまた潜伏する。今度こそ暫くは傍観者だ。
密談はお開きとなり、夜次郎と忠次は退出しようと腰を上げた。そこへにやにやとした表情で信長が声を掛けた。
「隋空とやら。この同盟が成立した後は…どうするつもりじゃ?」
明らかに勧誘である。織田家に仕える…歴史を知る夜次郎からすれば魅力的な話である。だが自分が松平家から離れることであのような性格の元康が暴走して歴史とは異なる方向へ向かうことを夜次郎は危惧した。夜次郎の目的はあくまでも歴史通りに進めて徳川の世を作ってもらい自身が安泰に暮らすことである。
「拙僧はまだ修行中の身……この乱れた世にあたり民に寄り添いたいと思うておりまする故、仏の道を進みとう御座います。」
夜次郎は手を合わせて深く頭を下げる。その様子を見て信長は豪快に笑った。
「民に寄り添いたい…か。坊主が皆、貴僧のように民百姓を思うようであれば良いのだがな。」
「…権力を手に入れた者は、権力に溺れる者・・・拙僧はそう思うております。溺れるものなど初めから手に入れぬのが良いと。」
「儂は溺れる…と申すか?」
「いえ、それを見定めるのは貴方様にお仕えするご家来衆に御座りましょう。」
夜次郎の言葉に信長は考え込んだ。そしてにやりと笑う。
「面白き事か。儂がどう見られるのか…このまま突き進んでみようぞ。」
なんかフラグを立てたように感じた夜次郎は愛想笑いをしつつ再び頭を下げた。一刻も早く茶室から出たい衝動を抑えゆっくりとした動作で忠次を掴んで部屋を出た。
後には信長の笑い声が聞こえていた。
松平好景
松平家家臣。深溝松平家の当主。善明堤の戦いで吉良義昭に討ち取られる。
水野下野守信元
水野家の当主。家康の母の異母兄で徳川家康の伯父にあたる。この頃は織田家の同盟者という立場であった。
織田上総介信長
織田家当主。今川義元を討ったことで注目を浴びている。既にこの頃から魔王の片鱗を見せている。