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18.松平家の行末



 永禄4年3月15日。


 夜次郎は岡崎城に到着した。酒井忠次と石川家成の出迎えを受け、そのまま謁見の間に案内された。その途中で忠次から小声で話しかけられた。


「お願いが御座ります。これから申し上げる殿からの申し出をお受け頂けませぬでしょうか。」


 いつになく低姿勢の忠次に夜次郎は警戒した。


「申し出とは?」


「殿は夜次郎様を家臣に望んでおられます。」


 今度は家成が答えた。夜次郎は無言になった。


「夜次郎様のお気持ちは察しております。…されど我らの中には夜次郎様のような知見の者がおらず、これからの松平をどうすべきかを殿に御示しすることができませぬ。


「…それで蔵人佐に俺を薦めたか?」


 夜次郎は声を低くして聞いた。二人は夜次郎の表情を見て恐縮した。夜次郎は立ち止まりため息をついて踵を返した。二人は慌てて夜次郎を引き留めた。


「お待ち下さりませ!お怒りは御尤も!されど我等にはこれしか…」


「我ら…我ら…。蔵人佐もそうだが、お前たちも同じだな。俺は自家との縁まで斬って、己を殺してまで今川からの搦め手を突き放す算段をしたのだぞ。その俺に何の礼もなく、更に家臣になれとは…」


 夜次郎は忠次の胸ぐらを掴んで顔を引き寄せた。


「虫の良すぎる話ではないか?」


 忠次は言い返せなかった。自覚はあったようだった。


「夜次郎様、その手をお話しくだされ。」


 別の角度から声を掛けられ振り向くと、酒井正親の姿があった。


「…主君に拳を向けたことを恥じて謹慎しておりましたが、夜次郎様を家臣に迎える話を聞いてお諫めすべく登城致しました。…間に合って良かった。」


 夜次郎は忠次を離して正親に向き直った。


「久しぶりだな。見かけぬと思うておったが…律儀に謹慎しておったのか。」


「自身の気持ちの整理をつけるためにも殿に謹慎を願い出ておりました。夜次郎様、申し訳ございませぬが某と共に殿にお会い下さりませ。某が殿を説得致しまする。」


 夜次郎と正親の付き合いは長い。正親に言われると断るのも申し訳なく、了承をした。正親に付いて廊下を進み謁見の間に入る。既に中座には岡崎衆の重鎮が待っていた。夜次郎は黙って下座に着座し、その隣に正親が座った。


「酒井殿…これはいったい?」


 鳥居忠吉が正親の登城に驚きの声を上げた。正親は重臣らの反応に背筋を伸ばして毅然とした態度で説明をした。


「夜次郎様の件について、これも殿へのご奉公と思って此処に侍らせて頂いております。」


 正親のそれは態度と言い、声と言い、重鎮どもを黙らせる貫禄が備わっていた。気迫と言ったほうがいいのだろうか。夜次郎は正親の変貌ぶりに感嘆した。

 無言の時間が続き、やがて松平元康が鳥居元忠を伴って部屋に入ってきた。夜次郎を微妙な表情で一瞥して上座へと座る。


「…夜次郎、済まぬ。」


 元康は夜次郎に向かって頭を下げた。


「儂はお前の事を何も考えられておらなんだ。お前のお陰で誓紙を出さずに済んだし、今川からの圧力も薄まった。…だが、それは瀬名夜次郎を犠牲にした結果であって、そのお前に何の報いも考えておらんかった。」


 夜次郎は元康の言葉を淡々と聞いていた。聞きながら悲しみと怒りが込み上げてきた。


「此度、我を呼び寄せたるは…如何なる存念か?」


「……儂はお前に報いたい。だが今はこの三河を一つに纏めることで手一杯。三河を統一した暁には必ずお前と瀬名家をお救い致す。それまで…儂に手を貸して貰えぬだろうか?」


 夜次郎は溜息を吐いた。


「つまるところは、我を家臣に引き入れようということか?」


「……儂にはそれしか報いる術を知らぬ。」


 夜次郎はもう一度ため息をついた。老練にして慎重、深謀にして狡猾の印象だった徳川家康のイメージは夜次郎の中にはない。若輩にして無謀、浅謀にして愚直…これがどの時点で本来のイメージに切り替わるのかまったくもって不明。此処に自分という異分子が混ざることによって歴史にどう影響を与えてしまうかが見えていない。


 …此処は少し探りを入れるべし。


「蔵人佐は三河を纏め上げた後、どうされるおつもりか?」


 夜次郎の問いはその場に居た家臣全員の視線を元康に集中させた。家臣達も気になるところであったのだろう。夜次郎は元康が口を開くのを待った。


「…儂は、駿河が欲しい。」


 元康の答えは夜次郎の予測の中の一つであった。もっとも多感な時期を駿府で過ごしている彼にとっては三河よりも魅力的な国に見えているのであろう。義元によって国内は整備されており、戦火に塗れた三河と比べれば遥かに良く見える。


「それは、今川家から国を奪うという意味になることは御存じか?」


 欲しいと言って手に入る代物ではない。駿河を支配する輩を追い払い、周辺国に文句を言われないようにする、あるいはそれだけの実力がないと実現できない。


「分かっている。未だ儂にその力もないことも。…だが欲しいものは欲しい!」


 語尾が強まる。これに頷く家臣もちらほら見える。夜次郎は何度目かのため息をついた。


「…どうすればよいかもわからぬくせに、そのような大それたことを…一年や二年で叶うような願いではないのだぞ。」


「だからお前の知恵が欲しい。お前は昔から他国にも精通し、識見も広く、此処にいる誰よりも先の先を見通しておる。」


 それは俺の脳内にこの時代の歴史の知識が記憶されているからだ。


 夜次郎は口から出そうなのを飲み込み考え込んだ。ここからどうやって織田家との同盟を引き出していけばよいのか。そしてふとあることが気になった。


「失礼ながら…松平家の懐事情は如何であろうか。」


 夜次郎の思いもしない質問に全員がキョトンとした。元康はわかっていないようで重臣の忠吉を見た。主君の視線に気づいた忠吉は何度か主君に目配せを送り返したがわかってもらえず、仕方なく答えた。


「火の車…と申しても良い状況に御座る。」


 三河を纏め上げるのにそれなりの銭をつぎ込んでいるようであった。まあ当然だろうと夜次郎は思った。


「ではこれ以上は兵力の維持、他勢力との交渉や戦、朝廷や、幕府への働きかけ等々は?」


「…我ら家臣一同、身銭を切ってでも…」


「そのようなやり方では早々に破綻致しまする!」


 夜次郎は声を荒げて周囲を黙らせる。そして頭の中では織田家に目を向けるストーリーが組みあがりつつあった。


「今川家は支配力を弱めたと言っても守護大名家。地盤もあり、寺社衆も味方についており、畿内とも通じておる。片や松平家はいずれもない。……まずは地盤を固め、寺社衆を味方に付けるが宜しかろう。」


「だが銭が無くては…」


 夜次郎の言葉に忠吉が反論した。夜次郎は「食いついた」とほくそ笑んだ。


「尾張を警戒しつつ、今川と敵対しながら三河を纏めようとするから掛かるものがかかるのです!……いっそのこと織田家と手を組みなされ。」


 夜次郎の言葉は一同を仰天させた。真っ先に元康が食って掛かった。


「織田家は積年の敵ぞ!我が祖父を死に追いやり、父に今川家への従属を決断させた…そのような輩と手など組めぬ!」


「…誰もがそう思って御座ろうな。」


 夜次郎の言葉に全員が頷く。


「だが、もし同盟が実現できればそれは周辺国にとって大きな脅威となる。」


 家成と忠次の表情が変わった。流石は三河東西の旗頭となる者だ。俺が言いたいことをだいたい理解したようだと夜次郎は笑みを浮かべた。


「この同盟、織田家にとっても十分な益が御座る。松平家を敵として見なすよりも、味方として支援して後方の憂いを無くすことで、兵力を美濃側に一極集中できる。松平家は遠江側に全力を注げるのだ。…互いの背中を預けることでな。」


 既に一同は夜次郎の話に真剣に耳を傾けていた。彼の話には新鮮味の上に現実味が混ざり、絶妙なスパイスとして松平家に振りかけられていたのだ。


「半三は嘗て幕府に仕えていたことは知っておろう。彼の伝手には京の公家衆も幾人かおるそうだ。その公家衆を使って朝廷に三河の統治者としてお認め頂くよう働きかけるのだ。」


 夜次郎は一同が真剣に聞いているのを確認して話を続ける。


「それから奥三河の奥平家とは不戦の約定を交わし、東三河に残る今川家の者を追い出すのだ。後は国内の寺社衆とは緩々と従属化を促していけば三河は統一できる。」


 おおっと感嘆の声が上がる。だが次の話は受け入れられるか?


「これら一切の費用は全て織田家から借り受ける。…同盟を締結する際に不利な条件を受けるだろうが、敢えて飲む!」


 重臣らの顔色が変わった。良い兆候だ。さて仕上げだ。


「更には…今の年寄方には隠居頂く。」


「何故に!」


 真っ先に忠吉が言い返した。当然だ。重臣筆頭で最年長だ。同様に連枝衆最年長の松平重吉も忠吉に続く。


「松平家臣として長く今川家と関わりすぎているからだ。今川家からの圧力を跳ねのけるためにも蔵人佐の周囲から今川家と縁のある者を排除する。」


 今川家と関わりの深い先代からの重臣には身を引いてもらう。さすれば今川家としては松平家と接触するための伝手は限られる。夜次郎はそれを鳥居彦右衛門に集中させようという考えを示した。忠吉は黙り込んだ。自分の息子が重責ではあるが重要な任を任されたからである。そして重吉へはもう一つの任務を説明した。


「能見松平殿にはまだ蔵人佐に臣従していない他の松平家との交渉役をお願いしたい。」


 蔵人佐の重臣という一線から退くことで他の松平家は良い意味でも悪い意味でも重吉に接近しやすくなる。それらを纏め上げ最終的に岡崎松平家に臣従させるのが重吉の役目。これも重要だ。話を聞いた松平重吉は口を噤んだ。後は大久保忠員、石川忠成(家成の父)、本多忠真を納得させれば、重臣の若返り策は完成する。


「夜次郎様、そこまでです。」


 突如それまで黙って夜次郎の隣に座っていた酒井正親が口を開いた。


「殿…、此度、某が参上したる所以は夜次郎様の事についてに御座います。」


 正親は前に進み出て両手を床に付いた。


「殿は夜次郎様をご家臣に所望されました。夜次郎様もここまでの斬新なるご助言をされるということは満更でもないので御座りましょう。」


 夜次郎は正親の真意に気づき口を挟もうとした。


「夜次郎様、此処はお控え下さりませ。」


 夜次郎は正親の気迫に押し返された。…しくじった。まさか正親が俺の考えていることを理解して最後の一押しに自らをはさみ込んで来るとは…


「夜次郎様の言は我らのこの先を明確に示す誠に有難きお言葉に御座います。されど、このまま夜次郎様を家臣に加えられては、夜次郎様は今川家にとって裏切者として扱われ、瀬名家に危険が及びまする。」


 そうだ。俺は今川の重臣でありながらこれを裏切り他家に仕えようとしているのだ。土着の国衆が主君を鞍替えするのとはわけが違う。そのような者への風当たりは当然きつくなる。そしてそれは二俣の瀬名家にも波及する。それどころか俺を迎え入れようとした松平家にまでその効果が及んでしまう。そうなっては幕府や朝廷との交渉に支障が出る。


「夜次郎様のご助言は後で皆でしかと吟味致すとして…ここは夜次郎様をこのままお返しあそばしませ。」


「な、何を言うか!これほどの見識、ぜひとも儂の側に」


「なりませぬ!そは松平家の問題!我等で片が付くまで夜次郎様はお迎えできませぬ!」


 正親の言っていることは正論。しかも嘘を言っていない。夜次郎は今川家と対等に渡り合える国力を付けてから迎え入れるべきという進言を逆説の言葉で言っているのだ。これでは聞いている側には夜次郎の家臣化を反対しているようにも聞こえる。


「うぬはまた儂に盾突くつもりか!」


 案の定元康は怒りを爆発させた。正確には正親が元康が怒るように仕向けて行ったというべきか。その意図は…


「儂にその首を差し出すが良い!」


 怒りに任せて乱心を引き起こし、この場を有耶無耶にして夜次郎を岡崎城から退出させて匿う。そんな腹積もりなのであろう。間違えば正親は元康に斬られる。追放を受けるかもしれない。それでも主君の為に身体を張っていた。夜次郎は正親を助けたいと考えた。


 夜次郎は行動を起こす前に自分の歴史と照らし合わせて是非を考える。この時も正親を助けることの是非を歴史と照らし合わせて考えた。正親は酒井雅楽頭家の当主…後に1570年代までは当主として活躍していたはず…今ここで俺が助けても歴史的に問題ない。


 そう結論付けると夜次郎は表情を改めて元康を睨みつけた。


「蔵人佐、正親殿に言っている意味がわかるか?」


「夜次郎様!ここは…「正親殿、貴方は此処で蔵人佐の不興を無理に買う必要はない。」」


 夜次郎と正親のやり取りは元康には不可解に見えた。おかげで噴出した怒りが変に削がれた。上座から乗り出した身体を元に戻して座りなおした。


「忠吉、正親と夜次郎が何を言い合っているのかわかるか?」


「はい。ですが、まずは瀬名殿には早く岡崎から出て頂き、行方をくらまして頂くのが先決かと。」


 忠吉は即答した。次に元康は忠次を見た。


「た、忠次はどう考えておる?」


「某も鳥居殿の意見に賛成に御座います。瀬名様とのやり取りは全て服部衆を通じて行えば、今川にも気づかれぬでしょう。」


 忠次も即答。家成も同意を示すように首が縦に動いていた。元康の顔はみるみるうちに赤くなっていき、直ぐに爆発した。


「お、お、お、お前らだけで勝手に理解しおって!もう良い!後はお前らで勝手にせい!」


 元康は立ち上がって部屋を出て行ってしまった。あっけにとられた表情をしているのは元康の側に控えていた鳥居元忠である。皆は元康が出て行った理由はわかっていて、この場合どうにかするのは側仕えの元忠であろうという目で見つめていた。



 夜次郎は頭を抱えていた。


 松平元康は、自分が思っている以上に馬鹿だ。これが本当にあの徳川家康になるのか?今の会話はそんなに難しい話ではない。だが武家が過去からこれまでにどのように生きてきたのか、この戦国の世において何を規範として考えればよいのか、それが抜けているように思える。幼き頃は、囲碁に通じ、夜次郎と太原雪斎との会話にも付いてきていたと思われていたが、これでは家臣の抑えがなければあっという間に暴走して織田家に併呑されてしまう。

 かと言って表立って元康の側に居ることはできない。元康が今川と対等に渡り合えるようになるまでは姿を隠しておかなければならない。夜次郎はどうやって松平家の外から松平家を動かそうか、そういう考えにいつの間にか陥っていた。



石川忠成

 松平家家臣。清康の代から仕えており、広忠の代からは奉行衆の一人に数えられている。三河石川氏の惣領として松平家を支えていた。


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